ついに的中?!道按の不気味な企みに虎千代の秘策とは・・・!?
この日、生きて捕縛された元・軒猿衆は十名ほどだった。彼らは虎千代の手配で根城の地下牢(僕も初めてみたのだが、そんな危険な場所があるのだ)に収容され、黒姫の回復を待って急ぎ尋問を開始する手はずのようだ。
しかし目下、虎千代が直々に時間をかけて尋問を行いたいと手間をとったのは、ただ一人だ。
それは言うまでもなく、暮坪道按だった。
虎千代の手勢が周囲を取り囲んだその時、道按は煉介さんと睨み合いを続けていた。道按はあの細長いしなる剣を突き出し、煉介さんと相対していたのだが、その場を一歩も動けず、結局はそのまま捕らえられることとなった。一見、こう着状態に見えた対峙だったが、
「驚くべきは、童子切めの腕よ」
と、感心したのは、そこに割って入った虎千代だ。実際は覚悟を決めた軒猿衆の裏切り者たちが、必死に防戦するどさくさに紛れて道按は逃げるつもりでいたのだが、煉介さんと真っ向争う姿勢になってしまったので逃げるに逃げられなくなった、と言うのが真相のようだ。
虎千代が評価したのは、そのとき道按を釘付けにしていた煉介さんの刃圏の圧力の凄まじさだった。
あれほど大きい太刀なのに虎千代と同様、その剣には構えがない。
変幻自在の無形の位なのだ。
そこから繰り出される攻撃は、間合いも角度も通常の剣術からはまったく予想できず、大剣の圧力を活かしたその一撃一撃が、見逃し不能の必殺の威力を秘めている。
多くの死線を踏んで、迫力を増した豪剣は斬る以前に相手の気勢を殺ぐ。
虎千代が見つけたとき、道按は右の突きで煉介さんの目を狙ったまま、ぴたりと固まっていたと言う。
対する煉介さんは右片手だけで柄を握り、大きな刃の峰をはるか頭上で左の手のひらで支えているだけの変則の構えだった。
もしも長身のバネと射程距離の長さを生かした、道按の右の片手突きが動き出せばその刹那を逃さずに。
ほんの数瞬で半身にかわした煉介さんの肩がけの一撃が、道按の身体を真っ二つに両断する姿が、虎千代にもはっきり見えたと言う。
煉介さんによって、まるで十トンダンプにはね飛ばされたみたいに吹っ飛んだ遺体を間近に見ていた道按にはそのイメージがより現実的なイメージに見えたに違いない。そしてそれを回避するための別の数手もいくつも脳裏に浮かんだはずだ。
しかしそのどれもが実行不可能だった。どのように動いても、数手先には煉介さんの剣の餌食になっていた自分の姿が見えたに違いない。だからこそ道按はそこを一歩も動くことは出来なかったのだ。
虎千代は珍しく、苦い顔で僕に言った。
「あやつの剣、我の知る以前とはまるで別物よ。かささぎめ、それを知っても童子切と斬り結ぶつもりでいられるかどうか」
その暮坪道按だが、虎千代が駆けつけたときは抵抗らしい抵抗もせず、武器を取り捨てて縛についた。煉介さんに斬られるよりは、よほどましだと思ったのだろう。用意された独房にも大人しく入っている。
虎千代とはすぐにその晩、独房で対面した。
「余裕だな」
と、虎千代は白塗りの放免の顔を睨みつけた。
「罪を暴く立場が、暴かれる立場になった気分はどうだ?」
ふふふ、とくぐもった声を漏らすと、道按は鼻の頭に笑いじわを滲ませた。
「その言葉、おのれにそっくり返そう。追い詰められておる気分はどうや。もっと、あわててもええのやぞ。菊童丸が細切れにされるまでそうそう、時間は長うないゆえのう」
「おのれが責め問いを受けるよりはまだ、先であろう。黒姫が、生け捕りにされたおのれの面をまだ見れぬを残念がっていたぞ。明日からはこれほど手ぬるくはない。今のうちに、知っていることを話しておいたらどうだ?」
「おれは何も知らぬ」
歌をくちずさむように、道按は言った。
「ただ、罪人を捕らえるよう頼まれただけよ。遠き越後の里のみならず、京洛の街に血をふらす鬼姫が手下、その罪人を捕らえる、これはもともと我が仕事よ」
「はぐれ者の軒猿衆をとりまとめて、二重尾行とは恐れ入る。しかしこれすべて血震丸の手際であろうな。さしずめ道按、お前は真人と黒姫の身柄を血震丸に売る、そこまでの段取りであったはず。ではあの二人をどこで血震丸に渡す手はずだったか。それくらいは答えられよう」
「罪人は罪を贖うべき場所に。言わずと知れよう。今さら何を聞くか」
あくまでうそぶく道按を、虎千代は冷ややかな視線で睨みつけた。蝋燭明かりだけのほの暗い闇で相対する二人は、異様な気を帯びてこの世のものとは別の世界にいるようだ。
「なるほど」
虎千代が肩を上下させ、ふーっ、っと大きくため息をつくかに見えたそのときだ。
脇差の鯉口を切った虎千代が垂直に、道按の顔の横を一瞬で切り上げた。銀色に光る刃が血しぶき散らせて天を掃くのがくっきりと見えた。
「ふぐうっ」
道按は思わず顔を抑えてうずくまった。狙いは左の耳だった。切っ先は付け根を割り、耳たぶの上半分を切り裂いていた。耳は神経が集まる場所だ。僕もさっき耳を傷つけられたので、激痛が熱を帯びてほとばしる感覚が分かる。道按は叫び声を押し殺すと、切り裂かれた傷口を押さえて呻いた。その指の隙間からみるみるうちに、血があふれ出した。
「まずは一つ、これで借りは返したぞ」
薄く張った血の珠を懐紙で拭い去ると、虎千代は言った。
「明日また来よう。次は、これほど甘くはないと思え」
「無駄だ」
ぶるぶると震える声で、道按は言った。脂汗の浮いた顔には、得たいの知れない笑みが浮かんでいる。
「俺は何も歌わぬぞ」
虎千代はちらりとその不可解な笑顔を一瞥すると、冷たい声で言った。
「どうせ、明日も同じことを聞く。何度も何度も繰り返しな。明日の終わりもそうやって、うそぶくことが出来ればいいがな」
「ふん。いくら傷めつけられようと、言うことは同じや。それよりええか、こうしておる間にも幼い菊童丸は足の先から一寸、五寸と刻まれていくのやぞう」
行くぞ、と言う風に虎千代は僕を促す。僕たちが部屋を出る間中、何を考えているのか、道按はうつろな眼差しでじっとこっちを見つめていた。
「やっぱり何も話さなかったね」
ふん、と、虎千代は鼻を鳴らした。
「なまなかなことであやつが白状するとは、思うておらぬわ。あの顔、今晩のうちに見たかったは、別の目的あってのことだ」
「別の目的…?」
「そこまで我に言わせるか」
虎千代は突然、振り向くと、僕の顔をじっと見つめた。そのとき僕は、道按に傷を負わされた自分の耳のことを思い出した。別の目的ってまさか。
「み、耳のことなら気にしなくてよかったのに」
「だから言わずともよいと言うたであろうっ」
僕がそれ以上口を開く前に虎千代は、子供みたいにぷくっと頬を膨らませて顔を背けた。
「まっ、まだ怒っているのだからなっ」
「う、うん……黒姫にも迷惑掛けたし、本当に悪かったよ」
「そう言うことを言いたかったのではない。…っ、分からぬか。もしお前を人質になど取られていたなら…そのことを考えただけで、わたしは他の者のことなど、考えられなくなるのだぞ。そんなわたしの気持ちなど考えずに、お前は…」
と、虎千代は思い詰めた表情をしてうつむく。さすがにそれを見ただけで、僕も胸が痛んだ。
「ごめん。僕も何か虎千代の力になりたかったから。戦うのは無理だと思うけど、少しは身体も張らないと、さ。い、一応男だし」
「そんなことは分かっている。……我に男を見せたいのであれば、別のやり方もあるであろう」
「え……べ、別のやり方で男を見せろってどんなやり方で?」
「はっ」
自分が妙なことを言ったのに気づいたのか、虎千代は一気に顔を真っ赤にした。
「そっそそそう言うことではない。決して、そっちの話では…ううっ、それはそれで別の機会にぜひ見たくはあるが、我が言いたかったは、他の者のように武威を示すでなくお前なりのやり方で、と言うことぞ。へっ、変な誤解をするな」
「う、うん、そ、それは何となく伝わったんだけど…ごめん」
「謝るなっ」
そんなに真っ赤になられるとこっちも恥ずかしくなる。て言うか、そっちは別の機会に見たいとか言ってたけど、何を?しどろもどろになった僕たちが顔も合わせられずにいると、煉介さんに伴われて黒姫が歩いてくる。
「黒姫、安静にしておれと言うたであろう」
「うん。おれもまずいと思ったんだけどなんか彼女がどうしてもって言うんだよ」
あまり顔色がいいとは言えない黒姫の横で煉介さんは困っている。黒姫は僕たちの背後の地下牢の方をうかがうように、
「……道按の様子はどうですか?」
虎千代は黒姫の無茶を叱ろうとしたが、仕方なく諦め、
「あやつめ、一筋縄ではいかなそうだな。もしかしたらまだ、何やら企んでいるやも知れぬ」
「そのことなんですが虎さま、一つ、耳寄りなお話があるですよ」
「うん?」
怪訝そうな顔の虎千代に黒姫が何か耳打ちした。近くにいる僕や煉介さんにもそれは聞こえなかったのだが、かなり重要なことだったらしく、みるみる虎千代の顔つきが変わった。
「どうしたんだ?」
「ああ、気にしなくてよい」
不思議そうな僕や煉介さんを後目に虎千代は言葉を濁し、
「その件、早速、進めてくれ。ぜひに試してみよう」
何か思惑があるのか、黒姫は意味ありげに肯いた。
「分かりましたです。……それまでに、わたくしもちゃんと動けるようにしておきますですよ」
「ああ、だが、くれぐれも無理をするな」
(なんだろう)
虎千代はまだ、僕にも話してはくれなかったのだ。二人が何を企図していたのかを、後で知って、僕は驚くことになる。
それにしてもびっくりさせられたのは、煉介さんのことだ。道按と僕たちを見つけて助けに入ってきてくれたのはまったくの偶然だったようだが、またいつの間にか京都へ戻ってきていたのだ。
「弾正さまとは別行動だよ。おれは京都で相変わらず募兵活動さ。秋にはまた、大きないくさがありそうだからね」
血震丸たちの話では、年内に将軍職に即位が決まっている菊童丸の身柄に弾正は六百貫もの大金を出すと言ったはずなのだ。しかし、この煉介さんの口ぶりでは、それに構っている暇はなさそうだ。虎千代も直接聞いてみたのだが、
「さあ、その辺は、おれも関わってないな。弾正様は、三好のご当主と動いていると思うけど」
三好長慶が将軍家にあだなすような弾正のやり方を快く思わないのは、弾正自身も知っているはずだ。とすると、血震丸の話も、虎千代に金を出させるためのただのはったりに過ぎないのかも知れない。そもそも三好家そのものがいくさの動員準備をしているのだし、新たな戦費の調達に弾正も駆けまわっているに違いないのだ。軍費がいる三好家から弾正が六百貫も捻出して菊童丸を手に入れる必要も余裕もなさそうだ。煉介さんもそれほど、菊童丸誘拐の話には興味を持っていない様子だった。
黒姫が休んでいる間、虎千代は着々と尋問の準備を進めていった。まさか拷問をするのかと思い、僕も地下牢に行くのはあまり気が進まなかったのだが、元・軒猿衆の男たちは積極的に情報を話しているようだ。そのほとんどは、黒姫への復讐を企図していた末森の三座に脅かされてのことらしい。
黒姫によって下あごを吹き飛ばされた三座だが、虎千代と相対すると、意気消沈して知っていることを話した。
「言うまでもないことだが、血震丸たちは野洲細川家が資金を出しているはずだ。この京にはいくつかその息のかかった忍び宿があると考えてよい。供述が取れしだい、急ぎその所在と様子を調べるべし」
と、虎千代は軒猿衆たちを集め、指示を下した。
ところで血震丸たちには金策に十日、と言う期限を提示してある。人質と現金の受け渡しについてはまだ、指示がないが、千二百貫もの金を持ち去るのに相手はそれなりの人数を動員してことに当たるはずだと、虎千代は言う。血震丸たちも兵を集めているとするなら、その痕跡が見られるはずだ。軍備を整えるこのえたちにも動向に目を見張るよう、虎千代は命令を出していた。
事件が大きく動いたのは、道按たちの捕縛から三日経っての朝のことだ。
暮坪道按が牢内で死んでいるのを発見したのは、囚人たちの給仕をしていたノアザミによってだった。急報を得て駆けつけたときには、道按は完全に体温を失ってその呼吸も大分前に絶えている様子だった。
「夜中に毒をあおいだか」
遺体を検めた虎千代は、顔をしかめて言った。
道按の口からは、薬物臭がしたのですぐに死因が割れたのだ。
毒は初めから隠し持っていたのか、それとも誰かから差し入れられたのか。いずれにしても、ずっと道按はそのつもりで獄中にいたに違いなかった。僕は、地下牢に入れられた最初の夜の道按の不可思議な態度を思い出した。あの男が、自分を捕えても無駄だ、と言っていたのはたぶん、このことだったのだ。
恐らくは血震丸たちにつながるもっとも大きな情報源だったはずの道按の死で、血震丸たちの探索はもっとも困難な事態を迎えたかに見えた。
しかし奇妙なのはなぜか、虎千代は焦っていないことだった。
傷の癒えかけた黒姫が、僕たちを真夜中に起こしたのは道按が自殺して明くる晩のことだ。虎千代と黒姫が考えだした秘策がついに、僕の前に姿を現した。
その晩は、空気の澄んだ実に秋らしい、静かな宵だった。
大きな月が雲の少ない空に、ぽっかり浮かんでいる。お陰で地上が明るく、遠くまで見通しのききそうな夜だ。僕と虎千代は黒姫に伴われて、夜半こっそりと屋敷を出た。
「一体、何があるの?」
「よいからついてこい」
としか、虎千代は言わなかった。
「むっふふう。見てのお楽しみです☆この間の失敗を挽回しますですよお!」
ちょうど眠りばなを起こされた僕は、不審そうに訊いたが、虎千代はこれから何が起こるか知っているようで黒姫と意味ありげな視線をかわしていた。
(何があるんだろう)
僕は最後まで見当がつかなかった。
僕たちは根城のある下京の外れ、収穫間近の黄金色の田を通るあぜ道を歩いている。それにしても、出歩くにはちょうどいい晩だ。中世の夜には街灯も建物の明かりもない。松明がなければ足もとも定かでないときもあるのに、今晩は柔らかい月明かりがふんわりと降りていた。たわわに実った稲穂も薄ぼんやりと光を発して、僕たちのゆく道を照らしているように見える。
「あそこですよ」
と、黒姫が言った。
群生したすすきの揺れる丘の向こうに杉林があり、月夜の明るい晩でもそこに濃い闇を形作っている。見たところ、林の中はお寺のようだった。大きな影法師のような杉林の闇に入り込んでいくと、ひと気のない廃寺と思われる苔むした本堂が姿を現す。そこを通り過ぎると再び林が拓け、大きな空地になっていた。
墓地のようだ。
大きな土塚の上に大木をそのままぶった切って立てたような碑があり、そこには無縁塚と刻まれている。恐らくここは、身寄りのない人間を葬る場所なのだろう。
なんでこんな不吉な場所に来たんだろう。さすがに僕が訝っていると、
「あ、ちょっと隠れて下さい」
黒姫が言った。なんで人目を忍ぶ必要があるのだろう。真夜中の墓場などに、僕たちみたいな物好きの他に誰がいるとも思えない。ますます不審に思っていると、黒姫は急に声をひそめて言った。
「慎重に、少しでも勘付かれたら困るですよ」
僕たちは黒姫の指図で墓石の蔭に潜んだ。
隠れていろってことは誰かが来るのか。僕は辺りを見回したが、依然として人影は見当たらない。
黒姫の視線の向こう、古びた木簡が散らばっていて、大きく土が掘り返された跡があるようだ。そこに大きな穴の中が開いているのが、かすかに見える。墓場に大穴が掘られていると言うことは、もしかしたら。案の定、そこにあったものを見て僕は息を呑んだ。
それは、からみあう無数の手足だった。そこに何人も遺体が放り込まれていると、僕はすぐに気づいた。
この大きな穴の正体は、無縁仏を葬るための墓穴のようなものなのだ。しかし戦乱の世とは言え、これだけ無造作に穴に遺体が放り込まれているのは無惨と言う他ない。京でも鳥辺山では遺体を焼く煙が立つことで有名だが、この辺りではそう言う手間を惜しんで身寄りのない遺体はいっぺんに埋めてしまうようだ。
しかし、それにしても起きぬけにみるような光景じゃない。悪夢の続きみたいだ。今夜がもう少し薄気味の悪い晩だったら、ここで僕は逃げ出して帰ったかも知れない。虎千代と黒姫はどんな魂胆があるのか、遺体が放り込まれた穴を見つめてじっと時を待つばかりだった。
「さあて、そろそろですよ」
黒姫が僕たちに注意を促した。何がそろそろなのか分からないが、こんな気味の悪い墓参りはもうこれきりにしてほしい。うんざりした僕が、大きくため息をつこうとしたそのときだ。
気のせいか、穴の中に山盛りにされた手足がむくりと動いた。
夢のような月明かりの中、僕は今度こそ、まやかしを見ているのだと思った。硬直して肘を張ったまま折れ曲がっている遺体の腕が、まるでまだ生きているかのようにごそごそと動いたのだ。天を向いた手首は、手まねきをする仕草で怪しく上下している。わっ、なんなんだこれ。
危うく僕は絶叫を呑みこんだ。
「静かにするですよ」
しっ、と黒姫は僕に小声で注意を促す。恐怖を噛みしめながら、僕は訊いた。
「お、おばけ…?」
「違いますですよ。落ち着いて、よく見るですよ」
「え…?」
僕はどんな仕掛けがあるのかと思ったが、さらによくみると、僕が思っていたこととは違うことが起きているせいだと言うことがだんだんわかってきた。他の遺体たちもかすかながら動いていたのだ。その不自然な動き方を注意深く観察すると、どうやらそれは遺体たちが生き返って動き出しているのとは違っていた。
なるほど、要は。
あの穴の奥から遺体をおしのけて、そのあわいから何かが這い出ようとしているのだ。
そこから節くれだった長い腕が、飛び出したのは間もなくのことだった。力強い生気を帯びた腕が遺体を掻き分け、掴み上げ、押しのけた。もたれかかった若い女のものらしいふとももをぐいっと押し広げると、やがてそこから頭のついた胴体が這いあがってくる。白装束に髪を振り乱して、現れたその姿は確かに化け物じみてはいた。しかし、それは紛れもなく生きた人間だった。
細くしなやかな筋肉に覆われた、その姿に僕は見覚えがある。
暮坪道按だ。服毒自殺したはずの?
僕は今度こそ声を上げそうになって、虎千代に口を塞がれた。
「しっ。静かにしろ。ここでばれては元も子もなくなる」
不可解なことを虎千代が言った。ここでじっと見ているなんて、この二人は何を考えているのだろう。暮坪道按は死んだふりをしていたのだ。一度、遺体になるというとんでもない手段を使って、あの地下牢から脱獄したと言うことか。つまりはこれが、道按が余裕でいられた本当の理由なのだ。
道按が飲んだのは一時的に仮死状態になる、特殊な毒だったのか。
恐らくはその毒は、血震丸たちが用意したのだろう。ひからびた遺体に変装して、僕たちを待ち受けていたような連中だ。そんな秘薬を道按に持たせていたとしてもまったく、不思議はない。
道按は遺体の間から這い出すと大きく息をつき、地上の空気を満喫した。そして辺りに誰もいないかを見回し、自由になった確証を得ると、口元を歪めてむせ返るような声で笑いを洩らした。
道按は身悶えをした。まるでおかしくて堪らないと言うように。
まんまと死から蘇生した男が生を噛みしめる、狂気に満ちた独り笑いだ。みているこっちがおかしくなりそうだった。まるで冷たい汚泥を頭からぶっかけられたような嫌悪感と背筋を這う悪寒に堪えながら僕はその光景を見守るしかなかった。
化け物じみた男は突然我に返ったのか、ぴたりと動きを停めるとそそくさとそこを去り始めた。辺りを依然うかがいながら注意深く去っていったのだが、墓石の陰に潜んでいる僕たちを見つけることは出来なかった。
やがて道按の影が月明かりに紛れていく。それを見届けると、虎千代は黒姫に向かって、また奇妙な言葉を与えた。
「上首尾じゃな」
「ふっふふう。上手くゆきましたでしょう」
黒姫もしてやったりの顔をしている。そんな場合じゃないだろう。またも血震丸たちに出し抜かれたのだ。
「なに言ってるんだよ、虎千代も黒姫も。道按にだまされたんじゃないか」
状況が分からず一人焦っていると、虎千代が言った。
「気づかぬか。我らなぜ、道按が逃げ出すその場に出喰わせたのか」
「あ……」
そう言えばそうだ。黒姫が僕たちを連れてここへ来たということは、事前に道按の企みを見破っていたからなのだ。と、言うことは道按が仮死状態になる薬を飲んで脱出することを二人は見破っていて、今夜、あえてこの場に現れたのだということか。いや、でもどうしてそんなことが分かったんだ?
「道按に差し入れた毒薬は、わたくしが作ったですよ。血震丸たちの作る霊薬の調合をノアザミから教わりましてねえ」
今度こそ、僕は声を上げた。なんと道按が飲んだ薬は、黒姫が作ったものなのだと言う。それで分かった。だからこそ虎千代たちは今晩、道按が蘇生して逃げ出すことを予想できたのか。
「道按めは捕縛されても余裕だったは、なんらかの手段で血震丸が救済策を講じてくれると思いこんでいたからよ。そこで黒姫と我は一計を案じ、偽の手紙とともに毒薬を差し入れた。血震丸が脱獄の手筈をつけてくれたと思いこんでいる道按は、まんまとそれに乗った、と言うわけよ」
なるほど。これは血震丸が仕組んだトリックのように見えて、つまりは血震丸の講じてくるはずの手段を逆手にとって道按を引っ掛けるための、巧妙な偽装工作だったと言うことか。それにしても道按は自身も思いも寄らなかっただろう。囚われた晩に虎千代がたっぷりと脅しておいたので、偽の手紙にも対して疑いを持たずに差し入れられた毒薬を飲んだのだろう。それがまさか自分が泳がされるための罠だとは、思いもしなかったはずだ。
「もちろん、あの姿では道按は長い間往来をうろつくことは出来ませんでしょう。なるたけ最短の時間で血震丸たちの根城に姿を現すに違いありません」
「道按が瞳は、すでに黒姫が追い足盗みをかけてある」
ふっふっふう、と、怪しげな笑いを洩らすと、黒姫は言った。
「今度こそ、連中を逃がしませんですよお」
この月明かりの晩から、形勢は一気に変わり始める。
ほどなくして黒姫は、道按追跡の結果を虎千代に知らせた。
結果、菊童丸が捕えられているのは、愛宕山にほど近い桂川上流にある山間の砦だと言うことが分かった。
黒姫がすぐにその砦の見取り図と詳細を調べ上げてくる。
血震丸がひそかに細川家の助力を得て築き上げたこの砦には、いざと言うときのために募られた手勢が駐屯している。身代金と人質の交換に際しては、この軍勢を率いて血震丸は現れ、金額の確認をすると同時に一気に金を運びこむ手筈のようだ。
「そうか」
虎千代は黒姫の報告を聞くと、ぽつりと一言、漏らした。
このとき黒姫に何か指示を与えたようなのだが、それは端に居た僕にも分からない、何か喩え話のような一言だった。策略が余計に広まらないように戦国大名はときどき、そうやって指示を与える。いくさの神様と言われるようになる僕と同い年の少女は、そこで何かを思いついたのだ。
それからの虎千代は的確に指示を与え、当日の段取りを整えることに専念した。
当日は、虎千代も手勢を率いて、血震丸と会うことになっている。一触即発、下手をするとそのままいくさになりかねない状況だった。菊童丸の身柄を優先しなければならない虎千代は慎重に、準備を進めていた。
やがて期日が迫る頃、血震丸が取引の場所を指定してきた。
伏見だ。巨椋池ほとりの、廃神社である。虎千代は地理に明るいかささぎを呼び寄せた。かささぎは武装した早崎衆の少女たちを率いて、越後勢に従軍してきた。
ついに準備が整った前日は、かささぎたちも含めて虎千代は盛大に出陣を祝う。
「皆の者、明日はくれぐれも頼むぞ」
と、虎千代が杯を上げると、無数の手がそれに従って乾杯した。このどよめきの一つ一つが明日には、虎千代の命令一つで命を賭けるのだ。数えきれない命を背負っていると思えない、虎千代は堂々として見える。
「いよいよ明日だね」
と、二人きりになってから僕が言うと、虎千代は小さく頷いた。
「まず、一番功名はお前だ。重ね重ね、お前には本当に助けられた。お前がいなくば、血震丸の策に溺れ、我はこの日を、きちんと迎えられなかったのではないか」
「そんなことないよ。……何度も言うけど、本来の虎千代に戻れば、血震丸を倒せるはずなんだ。僕はただ、その手助けをしたいと思っただけで」
実際、あれから虎千代はみるみる虎千代らしさを取り戻したように思える。一度は血震丸に踊らされ、怒りに我を失いそうになったが、今は沈着冷静だ。
「それが出来たは、何よりお前のお陰であろう。まるで我がことのように、わたしのこと、諫めてくれた」
ふふ、と笑うと、虎千代は顔を引き締めた。
「さりながら、まだ勝負は明日だ。気を抜くのはこれまでにしておかねばな」
「そうだね」
「真人も当日はこれを佩け」
と、僕は虎千代に剣を手渡された。それはあの、小豆長光だった。
「えっ、いいよ。これは…」
「我が佩くはずの、名刀なのだろう?」
意味ありげに僕の顔を見つめると、虎千代は剣を押し戻した。
「我が守り刀ならば、これで我がお前を守ることが出来る。なにしろ時を離れても遠く、お前の父御を返して真人の手に渡ったものだからな。何があっても絶対にお前を守る」
「虎千代…」
「死ぬなよ。互いに、生きて帰れなければ承知せぬからな」
「うん…」
時を離れても遠く、か。
そうだ、これは。
虎千代が生きた戦国時代から五百年の時を隔てて、僕の父から僕へ託された刀なのだ。まるで今のこのつながりを強い力で、手繰り寄せてきたみたいに。
その晩、僕は眠れそうになかった。またほの明るい月が、中世の京都の街を照らし出している。これから命を賭けた戦いが始まろうと言う晩なのに、ひどく平穏な風の流れる晩だった。何か大きなものに包まれているような気分になり、僕は何度も大きなため息をついた。
僕たちが消えたあと、僕たちがいた元の世界は今どうなっているんだろう。一人になった母親は、今何をして、僕たちが消えた後の世界のことをどう感じているんだろう。それより先に消えてしまった父親は。そうだ、真菜瀬さんのところにいる絢奈は、どうしてるのかな。結論を求める気もなく、とりとめもない思考がただ流れていく。
いつのまにか僕は眠っていた。夢をみることもなく、ただ暖かな忘却のまどろみがあった。今、戦国時代にいるのだと言う実感も目覚めたら忘れてしまいそうになるほどに。白い空白の中で僕はまた何かを思い出しかけた気がした。でもそれはあのとりとめない思考の続きに過ぎなかったのかも知れない。気がつくとそこにはきちんと、僕が生きている世界の明け方がやってきていた。
寝転がった僕は無言のまま、この世界の手触りを確かめた。
そう、それは紛れもない。
ここは、僕が虎千代と生きる、戦国乱世の世界だった。




