巨椋池の果たし合い!天を掃くかささぎの剣とは・・・?!
たぶんそれから、五分ほどしてのことだろうか。
僕たちの他にもう一艘、小舟が行き着いたようだ。
やがて二人の従者と、蛇の目の紋を背負った袖なし羽織を身につけた大柄な男が僕たちの前に姿を現した。たぶんこの男が九重傷の久慈右衛門だろう。年齢は初老の辺りで、ごま塩の顎鬚が顔半分を覆い、豊かな灰色の髪が、後ろに流れていた。いわゆる総髪と言う髪型だ。
「お待ちしていた」
三条宗近を持って、かささぎは立ち上がるとその男の前へ行き、名乗りをあげる。
「九重傷の久慈右衛門と申す。貴殿が一鵡斎の跡継ぎか。年若な娘と伺っていたが、まさかこれほどとは思わなかった」
と言う、久慈右衛門は素直に驚いた様子だった。無理もない、かささぎと久慈右衛門ではたぶん、年齢が父親と娘ほど違いそうだ。
「失望はさせないつもりです。師父には先達てより、久慈右衛門殿との立ち合いのこと、よろしく頼むと伝え残されておりましたので」
「そちらは」
久慈右衛門は、虎千代の方にあごをしゃくった。
「長尾虎千代殿。この立ち合い、我が方の検分役を引き受けて頂きました。事後のことはすべて、この長尾殿にお預けしており申す」
「はて、長尾。どこかで訊いた名だが」
「童子切煉介の足軽衆に寄寓していたものだ。ゆえあって今、あの男を捜している」
「ほう、貴殿が煉介殿が申していた、越後守護代家の縁者の方か」
久慈右衛門は目を剥いた。虎千代のことは煉介さんから訊いて知っているらしい。
「先日の細川勢の暴虐は存じておろう。その原因こそ、煉介とお前らが押し進めている朽木谷の陰謀よ」
「ははは、かようなことになれば、もはや秘事とは言えぬな。弾正殿も悲鳴を上げておられることであろう。そもそもがこの騒ぎ、童子切を追い落とさんとした火車槍首の狐刀次めが、検非違使の暮坪道按を通じて野洲細川家に我らを売ったことによるもの」
「なんと、その男の離反か」
そうか。やっと読めた。暮坪道按がいきなりくちなは屋に押しかけてきた理由。
要は刺客同士の仲間割れ、と言うことだ。弾正に信頼を得て、作戦を進めている煉介さんを別の頭目が敵方に売った。そもそもはそれが陰謀発覚のきっかけだったわけだ。
「ああ、火車槍首の狐刀次なる男、目的を達するに手段は選ばぬゆえ」
久慈右衛門は腹を揺すって笑った。いかにも豪傑らしい、底意のない笑い方だ。
「しかしそれにしても災難なるは、なんの関係もないのに討ち取られてしまった下京の足軽だな」
「身に覚えのない足軽狩りに遭うたものどもは災難であったが、弾正の息のかかった足軽どもは、すでに脛に傷持つ身が多いゆえ、これ以上の騒ぎにはなるまい」
と、久慈衛門は顎髭をさすりながらうそぶいた。
「公方様を狙うは、天下の大事ぞ」
「で、あろうな。だがおれはかような些事にもはや関わりない。そもそもが、朽木谷の一鵡斎を追っておれは悪党足軽の親玉をやっていただけなのでな」
小さく呼吸をして身体を整えると、久慈右衛門はかささぎに離れて立った。
「あやつが死んだ今、足軽を続けていても仕方がない。しかしそれにしても早崎一刀流の剣を破るにはこの娘御を斬るしかないとは、何とも気の進まぬ話だが」
眼で射かけた久慈右衛門の殺気を外すように、かささぎは微笑を口に含む。
「ご心配は無用。早崎一刀流はそもそも、君側の奸を除かんがために編み出した暗殺術ゆえ、切所(狭いところ)や殿中に怪しまれず分け入るに師父が特に女子が使うを想定して仕込んだ剣。妙味はたっぷり味わえましょう」
「なるほど、ではご存分に」
かささぎは草鞋を締め直すと、虎千代に一礼した。
「ご検分、よしなに頼む」
虎千代は無言で頷いた。
二人の距離は数メートルと言うところだ。この竹林の草庵の庭は、剣を交えるのには十分とは言え、それほど広くはない。
かささぎは三条宗近の鞘を帯に手挟み、柄を突き出すと、腰を低く落とす。虎千代が道按との立ち回りで見せた抜き打ちの姿勢、いわゆる居合い術の構えだ。
「いつでも参られよ」
対する、久慈右衛門の得物だがこれも風変わりだった。
金蛭巻の豪壮な造りの鞘から、すらり、と解き放たれたのは長大な長巻だ。その太さはともかく、長さについて言えばあの鬼小島が使っている破壊兵器と遜色ないかもしれない。しかしそれより変わっているのは、その長巻には柄の尻の方にも刃が取り付けられていることだ。
これはいわば、双身の薙刀。
超重武器の泣き所は、何より懐の深さだ。その破壊力と影響範囲に反比例して、こうした武器は大振りの一撃を外されてからの対処や、狭い間合いでの動きに一歩遅れをとることになる。例えば槍であれば、突きの浅さ深さで相手との間合いで主導権を取りやすいのだが、半分日本刀である長巻は、大振りの斬撃で隙を生みやすい。それを反対側、二本目の刃との玄妙な太刀筋が補うわけだ。
長身とは言え、かささぎはやはり細身の女の人だ。受け止めることもかなわない長刀の一撃をかいくぐって、久慈右衞門に太刀を浴びせるのはかなりの困難と言わざるを得ない。
やはり先手をとってじりじりと間合いを詰めるのは、久慈右衞門だった。長巻の切っ先でいきなりかささぎの胸を突く。と見せかけて、左腕をひらめかせて足払いだ。変則的な幕開けだった。素早く足を入れ替えて、かささぎはそれを最小限の動きでかわした。
「ほうっ」
切り上げの一撃がさらに右から横殴りの一撃に変化する。半身を開いてかささぎはそれを受け流した。
双刀の長巻はその間にも八の字を描いて、真一文字の横薙にかささぎの細長い胴を引き裂こうとする。やや後に距離をとりつつも、かささぎはそれもしのいだ。
「さすがは」
と、久慈右衛門はかささぎを褒めた。
「一鵡斎が薫陶も無駄ではなかったとみえる」
「まだまだ」
「そうだな。この程度ではな」
挑発を交えつつ、久慈右衛門は殺到する。そこから息もつかせぬ攻撃が再開した。
かささぎの動きは、奇蹟的と言ってよかった。
一見、動きのすべてが見えるようにゆるゆるとして感じるのに、太刀先に身体が触れることがない。命を賭けているはずなのに、まったく無駄な力みがないのだ。
達人の虎千代に勝るとも劣らない身のこなしだ。
しかし、
「まずいな」
虎千代がつぶやく。
案の定、これではかささぎは永遠に自分の刃圏に相手を捉えることができないのだ。
二本の刃は蛇のようにうねって、やはり多彩だ。一の刃をかわして懐に入ろうとすると、すぐに二の刃が動きを止めにかかる。一本刃の切り返しとそれは軌道も違うし、タイミングも微妙に違う。大抵の相手はそれでリズムを崩してしまうのだ。
「そしてみよ」
と、虎千代は言う。久慈右衞門の刃が、急所を狙うとみせて手足の可動部を狙っているのだ。
「いずれも具足が守らぬところよ。いくさ場で肘を断たれればもはや闘うことはかなわぬし、膝を割られればそれで動くことも出来なくなる。まして太い血脈の走る股を傷つけられれば、決着はもっと早い。動きを封じるは切迫に急所を狙うより近道なのだ。基本だが、長柄の正しい使い方をしてくる」
このままの状態を続けていくなら、体力か集中力が尽きたかささぎは、ばらばらに解体されてしまうだろう。ぞっ、とする想像だった。しかしことによればもう次の瞬間、かささぎの手や足が、こま切れにされて宙を舞うかも知れないのだ。
「では少し、本気になるか」
ふうっ、と息をついて久慈右衛門が、膝を軽く曲げる。腰を落とし、構えに力が入る。
そのまま一気に、間合いを詰めた。
そこからははらはらしてしまって、見ていられなかった。いつどこで、勝負がつくか分からない。なにしろあの長巻の刃が当たれば、かささぎの細い手足など一撃で吹き飛ぶ勢いだ。久慈右衛門の斬撃は大振りのようでいて、細かく変化し、間断もなくかささぎを攻めた。あの超重武器を息もつかせず操る、久慈右衛門の技の冴えも膂力もさすがだが、それらを軽い傷でどうにかしのぐかささぎも、大したものだった。
「だが、いつまで続くか」
虎千代の言うとおり、刃物での渡り合いは神経ばかりでなく体力も異常に消耗する。
ほんの数合でかささぎは、ところどころ着物の端を切っていた。そのうちのいくつかは肉を削がれ、足元に血が流れ出し始めている。出血は気を高ぶらせるばかりでなく、体力も容赦なく奪っていく。
それでもかささぎが久慈右衛門に一太刀でも浴びせるには、あの大長巻で片腕を飛ばされる覚悟が要るだろう。
いずれにしても、このまま反撃が出来なければかささぎは敗退を認めるしかない。
体力と集中力が尽きるときが、一巻の終わりだ。
敗者はなすすべなく、間合いの外から自分の手足を切り刻まれる恐怖を味わうしかない。
僕から見ても、かささぎは明らかに窮地に追い詰められていた。
「なぶる趣味はない」
絶対的有利を悟っても、久慈右衞門は笑みすら浮かべない。
「来られよ。まだあの早崎の太刀筋味わうてはおらぬぞ」
「ああ、急かさずとも今ゆくさ」
かささぎはやや荒くなってきた息を整えようと、微笑した。
すんでのところでかわしてはいるものの、出血を伴う傷は確実にかささぎの身体の自由を奪い始めていた。
「天を掃くさざきの太刀、ご覧に入れよう」
かささぎは小さく息を吸うと、吐くと同時にふわり、と身体から力を抜いた。
先ほどとは違う。
少なくとも僕にはそのように見えた。
かささぎは半身に構え、つま先立ちになると、剣をいぜん納めたまま、柄を包み込むように右手をつけた。持ち手は逆手である。ちょうど、僕たちの前に初めてかささぎが現れたときのような構えだった。
「構えは一鵡斎のものだな」
久慈右衞門は表情を引き締めた。
「では試すか」
ぎらり、と研ぎ澄まされた長巻の切っ先が夏の陽に光った。
「まずはその腕をもらおう」
久慈右衞門は予告するように言うと、ややつきだしたかささぎの右肘を狙い、刃をほとばしらせた。利き腕を切り飛ばされれば、かささぎに勝ち目はない。身体を横に動かし、辛くもかささぎはそれを避けた。
しかし、次の瞬間だ。
「もらった」
右にはね上げる斬撃はやはり囮だったのだ。かささぎに合わせて体をずらした久慈右衞門はぐるりと刃を反転させてかささぎが逃げるその方向に二撃目を合わせてきた。
肩口を一気に狙った大振りの袈裟掛け。
この一撃で久慈右衛門は勝負を決める気だ。
身体ごと踏み込んで撃っているので、まともに極まれば胴体を両断したはずだ。
久慈右衞門の長大な刃がバランスを崩したかささぎの肩に吸い込まれ、まるで交通事故に遭ったマネキン人形のように解体されたかささぎの上半身が、ぶるん、と宙を舞う。
決定的だ。これで勝負があった。
かに思えたが。
なにが起こったか、一瞬早く、かささぎはふわり、と宙に舞っている。振りおろした久慈右衞門の長巻の柄に足をかけ、まるで紙人形のように身軽な動作でいつの間にか、久慈右衞門の目の前に肉薄していたのだ。
「おのれっ」
しかし、かささぎは間合いを詰めすぎた。彼女の剣も常寸より長いのだ。そこでは相手に近づきすぎて、抜刀しても十分な斬撃が放てない。
「ふっ」
一瞬あっけにとられたが、さすがは久慈右衞門だ。得物を両手で引き寄せつつ、かささぎの細い身体めがけて肉弾攻撃で距離を離そうと、体当たりと頭突きを同時に放ってきた。この体重差だ。全身でぶつかられるだけで、かささぎはかなりのダメージを追う。だが、なんとそれも極まりはしなかった。
その前に決着は、一気についてしまったからだ。
声を上げる間もなく、
さっ、
と、燕が立つように、かささぎの身体が飛び上がると、久慈右衞門の前から再びその姿が消えた。文字通り、久慈右衞門の目にはかささぎがまるごと消えたように見えただろう。しかし端からはきちんと見えた。
かささぎは全身のばねを軽やかに使って。大柄な久慈右衞門の頭上を飛び越えたのだ。そしてその一瞬に。
斬った。
久慈右衞門の右の首筋がぱっくりと裂け、そこから驚くほどの大量の出血がほとばしりでた。それでようやく誰もが気づいた。
かささぎは。
今、飛び上がると同時に、久慈右衞門の頸動脈を裂いたのだ。
跳躍力を利用して、一気に鞘から引き抜いた切り上げの一撃。
鮮やか過ぎて誰もが、久慈右衛門の首に死に至る傷が開くまで判らなかった。
それはかささぎに斬られた久慈右衛門本人ですらだ。
致命傷を受けて、まるで信じられないと言うように、飛び出しそうに大きく目を見開く久慈右衞門の背後で。
かささぎは逆手に持った剣を軽く背後に振って悠々と血ぶるいをしていた。
三条宗近の優美な刀身が血で濡れている。艶やかな朱は刀身を汚しているのに、まるでさばいたばかりの鮮魚の腹を見るかのように銀の地肌が潤って鮮やかだ。血を吸って輝く、そんな刀の伝説を信じてしまうほどに。
それは、はっとするほどの美しさだった。
まるで夢を見ているような、信じがたい幕切れだった。
首を裂かれた久慈右衞門にも、僕たちにもまるで予想がつかないような。
声も出ないほどの妙技だった。
出血のひどい久慈右衛門は態勢を崩し、もはや、立ち上がる力もない。白砂の蒔かれた地にみるみる、赤黒い血だまりが流れ出す。自分で作り出したその汚泥に、倒れ伏すように、やがて久慈右衛門は膝を折って倒れ伏した。
誰も息すらつげない。
午過ぎを告げる鐘の音だけが、のどかにどこかで鳴っていた。
「お美事。太刀筋、見えなかった」
久慈右衞門に、まだ息があるようだ。かすれていたが、しっかりとした声だった。
「だが、堪能した」
「若輩の身に、力を尽くしての勝負、応じて頂き感謝する」
「おれこそ」
歩み寄ったかささぎに彼はなんのわだかまりもなく微笑んで見せた。
「一鵡斎が逝った今、かほどに練り込んだ武技を目に末期を迎えるとは」
どこか満ち足りたその表情を、かささぎはしばらく切なげに眼を細め眺めていた。
「何か言い残すことは」
黙って、久慈右衞門はかぶりを振った。
「早く、楽にしてくれ」
「よろしいか」
ひざまずくと刃に左手を添え、かささぎはゆっくりと確実に止めを刺した。
フィクションが伝えるように人は、がくっ、と力が抜けて死ぬわけじゃない。
ごく当たり前のことだけどやはり、人間も生物なのだ。それも、無数の生きている器官の寄せ集めだ。血が流れきり、普段は意識をしていなくても活動している器官が徐々に停止するまでは時間が掛かる。薄く研ぎ澄まされた刃を心臓に突きこまれた久慈右衛門の意識はどこで停まったのか、誰も分かりはしない。しかしかささぎはその、ささやかになってしまった、その男の最期の生命と意志が動きを止めるまでを主治医のような丹念さでそれを見守っていた。
梢を騒がして飛び立った雲雀の声に、さわさわとどよめく竹林の葉鳴りが被さる。今ちょうど、人が一人その命を終えたと言うのに、なんと言う静けさだろう。
「あれほどの密着した間合いでの必殺の太刀筋、眼福であった」
久慈右衞門の遺骸を従者が引き取って去った後、白砂の血を洗い流すかささぎに虎千代は率直な思いを告げた。
「最後までお見届け下さり、かたじけない」
「さざき、とは公方様より賜った諱か」
虎千代の言葉に、はっとして顔を上げたかささぎは、感嘆したように言った。
「ご明察。たったの一太刀で早崎一刀流の極意、読みとられるとは思いもしませなんだ」
「虎千代?」
意図がまるで分かっていない僕が聞くと、
「知らぬか。上古でさざき、とは野に住む鳥を表す言葉ぞ」
「野鳥って言うと、燕とか雀とか?」
そういえば今もどこかでヒヨドリが鳴いている。でも鷹や鷲に比べて、ぜんぜん強そうにも思えない。
「真人殿、無理もない。荒々しき武芸にはまるで似つかわしくない名前だ」
かささぎは苦笑していた。、
「いや、まさに飛燕が地を蹴って天を掃くがごとく、軽やかに急所だけを一撃、命を持ち去る。並の技量では出来ぬことぞ」
「なんの、わたしの剣、師父はまさに洗練された美技の極致であった。かの技は華麗にして、しなやかでまるで無理がなかった」
かささぎは謙遜するが、久慈右衛門はただの大柄なだけの男ではなかった。熟練の、しかも戦場勘を積んできた武芸者だ。恐らくはその技を破るのは、かなり決死の覚悟のいることだったに違いない。久慈右衛門の横たわっていた辺りの砂を清めながら、かささぎは何度も深い息をついていた。
命をかけた果しあいの後、僕たちは、裏庭に掘られた穴にかささぎの師匠たちの遺品を埋めるのを手伝った。小さな畑にぽっかり開けられた穴は口もかなり大きかった。言うまでもないことだがかささぎはもともと、自分が入るつもりの穴を掘っていたのだ。瓜畑の軟土に掘られた穴はかなり深く、一見したところでは底が見えないほどだった。
「長尾殿、これが師父の屍衣だ」
櫃に納められていたその衣を、かささぎは虎千代に見せてくれた。
それは薄い紫色の袖なし羽織だ。
ぼろぼろに縮こまった布は、引き裂かれ、無惨な色を滲ませ斜めに断たれている。ひと目みて、これを着ていた人はこの世にいないだろうということは十分に分かる。
恐らく即死だったのだろう。
もしかしたら、胴体が吹き飛んだのかも知れない。
太刀は真正面から肩口に入りそのまま突き抜けたと思われるが羽織は背中の生地まですっぱり切れ、ほとんど真っ二つに裂かれていた。
「童子切めの大太刀の痕だな」
こくり、とかささぎは頷いた。
「わたしが見つけたとき、もはや師父の息は絶えていた。わたしには、看取る暇も与えられなかった」
土をかぶせると、かささぎは数本の煙の立つ線香を供した。
「ところでご師父の遺骸はどうされたか」
「朽木の谷に埋めてきた。死してなお、公方様をお守りするが勤めと言うのが遺言だった。だがこの伏見の地は、師父が永く芸を育んだ庵ゆえな」
「かささぎさんもここで修業を?」
僕が訊くと、かささぎは笑ってかぶりを振った。
「いや。だが幼き頃、この家で過ごしたことがある」
三人で静かに手を合わせた。まったく知らない人なのだが、その凄まじい最期をかささぎから訊くと、やはり、何も感じずにはいられなくなる。
「奴の剣、わたしは未見だがこの太刀筋の痕を見てもやはり凄まじい。我らが天を掃くさざきなれば、童子切めのそれは山蔭に獲物を求めて這う、やまいぬ(狼の意)がごときもの」
と、かささぎは何か興を得たように虎千代に聞いた。
「長尾殿は、どうお考えになる」
「そうだな」
煉介さんの戦いの凄まじさは。
僕もみて知っている。素人なりだけど、煉介さんの実力は文句なしに折り紙つきだ。さっきの久慈右衛門も十分凄かったけど、やはり煉介さんの大太刀の迫力にはかなわない。もし煉介さんがこのかささぎと立ち合ったらどうなってしまうのだろう。
「さざきに、やまいぬの剣か」
虎千代はしばし、考えていた。でも、やがては韜晦するように言っただけだった。
「想像もつかぬ。所詮、我のは美技にも荒技にもなく、問答無用、人間、戦場の剣ゆえ」
「やっぱり、かささぎさんは煉介さんと殺し合わなきゃいけないのかな」
「うん?」
虎千代は怪訝そうに首を傾げた。どうも周りの喧噪で、よく聞こえなかったようだ。
かささぎと別れた僕たちは、やや遅い昼食を市街でとることになった。お腹が減っていたので構わず飛び込んだのは、ちょっと得体の知れない川筋の屋台だ。
小さなテーブルがあり、そこにも数人、客がいたが、見たところ日本人には見えなかった。さっきから喧嘩をしているようなせわしない言語が飛び交っているし、獣の脂の弾ける匂いに、何よりもうもうと煙がすさまじい。
どうも明人(中国人)の屋台を選んでしまったようだ。
幕政が日明貿易を停止してその勢いが衰えたが、南蛮文化の流入で中国人たちの文化も発達しているみたいで京、大坂にはその種の店が点在する。堺港からこの京都へ輸入品を運んでくる苦力や通詞(通訳のこと)まで中国人たちの職業は多彩だ。ここはどうやらそうした外国人労働者たち向けのお店のようだ。
まさかラーメンは出てこないだろうと思ったけど、うどんを頼んだら出てきたものはやっぱり日本のそれとちょっと違う。獣の匂いの強い出汁に虎千代は辟易していた。
「もしかして、どうにか二人、命が助かる方法はないか、とお前は考えているのか?」
虎千代は眉をひそめると、脂の浮いたふちの欠けた碗をほとんど口をつけずにテーブルに置いた。
「そう思うなら、それは差し出がましき話ぞ」
「そうかな」
「命を賭けるに相応しいことを、あやつらめが選んだまでだ。それに口は出せぬ」
虎千代は言うと、しっかりと僕の目を見据えた。
「いついかなる場合においてもおのが命に責任を持つは、おのれ自身でしかない。これはお前に以前言うたこととも通じることぞ。武士は、何より生き残ることこそ本願であると。命の活かし方はおのれ次第。本来、それを棄てるも自由だ」
「うん、それは分かるんだけどさ」
釈然としないながら、僕は箸を動かしつつ考えた。
「でもさ、虎千代は真菜瀬さんに煉介さんを連れて帰るって約束したわけだろ」
「うむ、それは約定した」
「煉介さんが死んじゃったら、真菜瀬さんの約束守れないじゃないか」
「ああ。だが、理由があって立ち合うと言うのだ。おのれの命を賭けてな。それは止められぬ。同じ、命を扱う宿命のものとして曲げられはせぬ」
その点では虎千代は一歩も退かなかった。でも、考えてみればそうだ。虎千代だって、僕と同い年で無数の命をくぐり抜けて生き抜くための生き方を選んでしまってきている。だからこそ、ただ人の命を大切にするのではなくて、その行き方をこそ尊重しようと考えるのかも知れない。
「しかしその前にあやつが細川勢に捕縛されて、果ててしまってはどうにもならぬな。まずは、そろそろ上京の弾正、あやつめを叩かねばなるまいが」
今日も黒姫も出払っているし、鬼小島も朝から姿を見せなかった。虎千代は虎千代なりに色々と手配はしているのだろう。僕が口を出すことなどないのかも知れない。て、言うか僕はちゃんと虎千代の役に立ってるのだろうか。たまに考えてしまう。
そのとき珍しく、虎千代は深く考え事をしていた。だからそのせいで、注意がおろそかになっていたのかも知れない。
先に異変に気づいたのは、よそみをしていた僕だった。いつのまにか他のテーブルから客がいなくなり、そこにいるのは僕たちだけになっていたのだ。
なんだか嫌な予感がしたのは、僕も場慣れしてきたせいだろうか。
ふと店の人間らしき男が、虎千代の背後から歩み寄ってきた。すっかり手をつける気を失くした虎千代の皿をさげに来たように見えたのだ。しかし、次の瞬間僕は見た。
その男はそっ、と虎千代の背後に立つと首筋あたりに何かを突き立てようとしていた。僕は声を上げそうになった。なんとそれは、鋭く研ぎ澄まされた鉄製の串だったのだ。
とっさに僕がとった行動はまったく無意識だった。
目の前にあった虎千代の皿をとると、僕はそれを男の顔めがけて投げつけたのだ。
「アアアアッ」
丼が割れ、熱いスープが顔の傷口を焼く。甲高い男の絶叫が立ち上った。時間が少し経っているとは言え、獣の油でどろどろの冷めにくいスープだ。破壊力は十分にあった。
顔を押さえて苦悶した男が持っていた凶器をみて、虎千代はすぐに異変を察知した。振り返りざま、脇差を抜くとその男の腹にずぶりと刃を突き立てる。ぐるりと柄を回し、とどめを刺す。人体急所の肝臓を突き刺された男は、男は一瞬で動かなくなった。
倒れこんだ男の肩に足をかけ、それを引き抜くと、虎千代は僕に向かって叫んだ。
「伏せろっ」
僕はあわてて身体ごと、地面に伏せる。虎千代の右手から、新しい血に濡れた銀の刃がほとばしる。虎千代の投げた脇差が僕の背後に迫っていた男の喉にまっすぐ突き立った。
「立てっ、逃げるぞ」
虎千代が立てかけてあった光忠を抜きかけた瞬間だった。
屋台の蔭から、潜んでいた小さな影が、音もなく飛び出して来たのが僕には見えた。まるで調教された猿のように、膝を曲げたそれはテーブルの上にとん、と飛び乗った。
「シャアアアアッ」
そして、そのままさらに跳躍すると、虎千代に向かって斬りつけてきたのだ。
その斬撃を受けようと、虎千代は光忠を抜いた。すると、
カン、
と言う耳をつんざく金属音とともに光忠が物打ちから折れて、吹っ飛んだ。
「うっ」
日本刀の唯一の弱点は、刃の横からかかる圧力であると言う。
だが鍔ぜり合いをするような勝負でも中々、日本刀は折れたりしない。軟鉄の柔軟性と鋼鉄の固さを併せ持つ日本刀は、衝撃に強いのだ。
しかし切れ味と重さを併せ持った鈍器の性質を併せ持つ刃物なら、話は別だ。
なんと虎千代の剣を圧し折ったのは、極厚に鍛えられた中華庖丁だ。
切る、打つ、叩く、殴る。突く以外の攻撃動作が一本で出来るそれは武器となると、手斧の力強さと鋭いナイフの切れ味を併せ持つ危険な凶器になりうる。
その明人の暗殺者は、手なれた動作で虎千代の日本刀を叩き折ったのだ。
「くうっ」
剣を折られた虎千代は中華庖丁を押し込める相手に押し倒された。その鼻先に分厚い中華庖丁の刃が押しこめられる。首筋にあてて引き切れば、頸動脈を切断することなどわけのない代物だ。折れた剣を使って虎千代はどうにかそれを留めている。
絶体絶命だ。脇差を投げた虎千代の腰には他に、もはや使えそうな武器はない。
「唖ァァァァァァッ」
猿のようなその男は甲高い気合いをこめて、虎千代の首を力押しに切断しにかかる。僕はすっかり動転していた。本当は、すぐ背後の男の喉に突き立った虎千代の脇差を使って攻撃すればよかったのだが、あわててそれを抜こうとしても死体の肉が固く締まってしまっているのか、思うようにそれが抜けないのだ。
「ううううっ」
中華庖丁が押し切られる。虎千代の首にその刃が掛かる。そのときだった。
物凄い風切り音がして、僕の横を何かが飛び立った。それは大陸間弾道ミサイルのようなスピードと破壊力で中華庖丁を持った暗殺者を胴体ごと、虎千代の上から吹き飛ばしていた。どん、と、下腹部に響く衝撃音とともに、あっという間に中華庖丁の男は九の字になって、土壁に縫い付けられていた。
へしゃげた蠅のようになったその男の死骸を貫いて。
まるで飢えた肉食獣の牙のような、武骨な長巻がそこに深々と刺さっている。
投げたのは、見覚えのある巨体。
やはり鬼小島だ。
「ちっ、クソが。俺のお嬢を押し倒しやがるなんてふざけた真似しやがって」
いつの間に現れたのか。一応、笠を被って顔を隠しているが、変装になっているのだろうか。野獣の迫力満点の鬼小島は絶対に誰かの尾行はできないタイプだ。
「や、弥太か。お前、いつからついてきた?」
「はなっからですよ」
と言うと、鬼小島は巨大な片腕で虎千代を助け起こした。そして背中から新しい一本の太刀を取り出して虎千代に手渡した。
「黒姫から聞いてるんですよ。お嬢だって狙われてるんだ。そいつを忘れてもらっちゃ困りますぜ」
さすがは鬼小島だ。飲んだくれているようで、きちんと虎千代のことだけは案じていたようだ。
「おい小僧っ、いいか。お嬢は国元からも狙われてるんだ。そうそう、気安くその辺連れ回すんじゃねえよ」
鬼小島は僕をたしなめると、土壁の破壊兵器を引き抜いた。
「ったく、ふざけた巷だぜ。金ずくで明人まで雇うとは、手がこみすぎてやがる」
長巻を構えた鬼小島に、わらわらと武器を持った明人たちが群がる。これがすべて、虎千代を狙うための暗殺者なのか。
「さあっ、お嬢逃げてくだせえ。辻に馬が用意してあります」
「すまぬな。では頼む」
「あ、待ったっ」
と、行きかける虎千代を、鬼小島はなぜか引きとめた。
「なんじゃ、行ってよいのであろう」
「いや、あの、お嬢もたまにはおれが活躍するのを見てくんねえのかな、と」
ひゅんっ、と、獣のような身のこなしで二人、中華庖丁を両手に持った男が鬼小島のはるか頭上に跳ね上がる。そいつを、
「らあああっ」
まるで蠅でも跳ね飛ばすように、長巻で片っぱしから叩き斬る鬼小島。
本当にこの人が戦うと、人がごみのように吹き飛んでいく。
こんな規格外を相手にするのは、敵がかわいそうに見えるほどだ。
「て、のは冗談です。まあ、とにかく行ってくだせえや。すぐに追いつきまさあ」
強がりで言っているのかと思ったが、まったく言葉通りだった。言うとおり、やがてすぐ鬼小島は追いついてきた。
「怪我はねえすか、お嬢」
「ああ、大事ない。こやつが守ってくれたゆえな。すまぬ、助かった」
と、虎千代は僕をみて微笑む。面と向かって礼を言われるとこっちが恥ずかしい。
「黒姫から話を聞いていた、と言ったな。まさか明人にまで襲われるとは、思ってもみなかったが」
「ええ、俺もなんだか信じられねえ話なんですがね」
と、言うと、鬼小島は岩石のような顔を歪めた。
「割符の一件からこっち、俺たちも引き続き内偵を進めてるんです。それによると、どうも国元から廻状が出回っているんじゃねえかって。このえの奴が言うには晴景公は追々、お嬢を追討するために兵を差し向けるのでは、と」
「・・・・・ありえぬ話ではないな」
と、虎千代は暗い顔で言った。認めたくはないが、現実認識を曇らせたくない、そんな冷徹な意思を保とうとする表情だった。
しかし、それが現実となればことは深刻だ。
兄が正式に妹を殺すために挙兵するのだ。それも、越後と京都を隔てての争いとなる。そうなれば越後の人間は大混乱に陥るだろう。
「だが挙兵するにしてもそれほど大掛かりにはいくまい」
「ええ。だからその廻状ってやつ、もしかしたら野洲細川家に出回っちまってるのかもしれません」
「細川家から兵を、か」
こくり、と、鬼小島は頷いた。考えてみれば、僕たちが相手をしている野洲細川家はもともと、長尾家との深い関わりがある。
「長尾家から正式に申し入れがあったら、お嬢は天下の逆賊になっちまう」
「そうなればいくさを起こさざるを得ないか」
と、虎千代は何かを値踏みするように腕を組んだ。
「これで分かったでしょう、お嬢、向こうも暗殺なんてまどろっこしいこと考えてねえで直接、襲ってこようって肚なんすよ。こうなったら逆にこっちから、晴景公のいる春日山まで攻め立てちまっちゃあどうです?」
やはり強硬な反撃論を主張した鬼小島を虎千代はじろりと睨んだ。
「兵を挙げる者らにとっては、それこそが狙いぞ。弥太、お前もいくさの機微を知らぬわけでもあるまい。こうした場合には兵をあげたものが忍人の誹りを受けるのだ。それに」
と、虎千代は、苦しげな声で言った。
「兄の近臣にもくせ者が多い。守護代家の御為と言いつつ、家を二つに割り越後一国を滅ぼすことを考える輩も少なからずおるであろう。いずれ軽挙妄動するは命取りぞ」
「ですがねえ、お嬢。おれらにも我慢の限界ってものがありますぜ。こそこそお嬢を狙われて、今度は逆賊扱いまでされるなんて。おれには、堪えられねえ」
鬼小島が言いたいのは、戦術眼よりも感情的なことらしかった。
「金津の旦那も言ってますが、為景様亡き後の越後を治めるのはお嬢しかいねえ。て、言うかお嬢がいたから、今まで長尾家に従わなかった連中まで合力してくれる、そんな国になったんじゃねえですか。晴景公が何を考えているか、なんておれにゃ関係ねえ。お嬢の敵は叩き潰す。だから早く、お下知を。お嬢が斬れねえなら、おれが晴景公だって斬ってみせますぜ」
「弥太郎」
底冷えするような瞳で、虎千代が鬼小島を見たのはそのときだった。虎千代は時々、こう言う表情をする。殺気でも憎悪でもない、しかし見るものの腹の底まで凍てつかせるような厳しい視線だ。
さすがの鬼小島もこれには目を見張った。
「口が過ぎました。いつもながら分を過ぎた物言いは勘弁してくだせえ」
鬼小島は言うと、深々と頭を下げた。
「このこと、胸に収めておく。だがしばらく預からせてくれ。もし廻状が野洲細川家に出回っているのであれば、ことはただの喧嘩や暗殺騒ぎではすまぬゆえな」
「ご決心の際は必ず、この貞興めに。どのようなことがあろうと、死地までついてゆく覚悟は出来ております」
「・・・・・・苦労をかけるな」
虎千代の言葉はとても重たかった。本当なら十七歳の女の子の身では、到底受け止めることなど出来そうにないほどだ。




