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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.5 ~京洛陰謀、煉介さんの秘密、武士の生きざま
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虎千代と線香花火!?祇園宵山の夜、現れた意外な人物の誘いとは?

それからの虎千代は暗い顔になって、しばらく誰とも口を利かなかった。

煉介さんの内幕に立ち入ったせいだと思う。煉介さんは、自分の野望のために多くの人の命を犠牲にして生きている。その例えようもない重みが、虎千代には分かるのだろう。

この頃、なんとなく分かるようになった。気丈に振舞っているように見えても、虎千代だってやっぱり僕と同い年の、しかも女の子なのだ。家来にだって見せたくない顔があるのも当然だ。部屋から出た虎千代は黒姫に暮葉さんのことを、言葉すくなに頼むと、部下たちと酒宴を催している鬼小島を通り越して、寝室に引き篭もった。黒姫が用意した夕餉の膳も、近づけなかった。

「ううううっ、虎さまに性欲を、いや精力をつけて頂きたいと思って、わたくし、すっぽんと宇治丸(うじまる)(うなぎのこと)でお膳を仕立てましたのに。これでは今夜はお情けを頂けないではないですかっ」

と、不純な涙を流す黒姫は放っておいても、何とか元気はつけてあげたいな、とは思う。いや、まあ、友達としてだ。これは、純粋に心配してのことだ。

「あ、あのさ。黒姫、頼みがあるんだけど」

きっ、と精力満点の膳部を持ったまま黒姫は僕を睨みつけた。

「こんなときに仕事をふるなんて真人さんは鬼か蛇ですかっ、ぼろぼろの乙女の傷口に塩をすりこむですかっ」

「・・・・・虎千代のためなんだけど」

「ええええっ、虎さまのためですか?なんで早く言ってくれないですかっ!この黒姫に、なんでもお言いつけ下さいっ」

「実はさ、二つあるんだけど」

「二つ?」

僕はそれを黒姫に話して聞かせた。黒姫はふんふん、と聞いていたが、

「ふふうん、なるほど、あー、お安い御用です。一つはいいとして、まあーもう一つは少し、時間がかかるかもですよ。とりあえず配下の軒猿衆で詳しいものを後でお遣わししますです」

そうか、やっぱりこれはまだ、この時代にはないものなんだ。道理でどこを探しても見つからないはずだ。


「せ、戦闘花火?」

虎千代は目を丸くした。線香花火だっての。やはり初めて聞く言葉だったんだろう。

「この夜中に火薬を使うのか?」

「うん、虎千代の時代だと兵器だけどさ、僕たちの時代だと火薬って、夏の夜に、みんなで楽しむために使うものなんだけど」

僕は手のひらの中のそれを見せた。それは、軒猿衆に作ってもらった線香花火だ。

僕たちの時代、お店で売ってる線香花火は色紙のこよりで作るけど、これは藁の串で出来ている。もともとは江戸時代、京都の芸者遊びで使われたものらしい。戦国時代にはないものだけど、材料は十分揃えられる。黒色火薬を調合すれば作れると聞いたので、火薬のプロ、忍者たちに頼んだらそれらしく作ってもらえた。

「そんなに大きい音しないし、綺麗だから外でやろうよ」

宿の庭は鬼小島たちが酒宴で騒いでいるので、静かに出来ない。裏に社があって少し広場のようになっているのでそこでやることにした。

「黒姫はどうしたか」

「ああ、後で来るって」

湯浴みを終えた後だったので、虎千代は浴衣姿だ。しばらく暗い部屋で、虎千代は無言で外を見ていたんだけど、どうも日が暮れたのにまだ外が明るいことが気になるようだった。

「なんだ、今日は祇園の宵山(よいやま)ではないか」

祇園祭はやっぱり夏の京都の一大イベントだ。平安時代から始まって、中断されたのはなんと応仁の乱後の三十年と第二次世界大戦のときだけ。この戦国動乱真っ盛りにも、きちんと続けられていたのだ。

現在のお祭りは七月だが、旧暦では六月と若干ずれる。このお祭りはその一か月間続くのだ。そう言えば旧暦六月って、本能寺の変が六月二日なのだが、お祭りの運営の方はそのとき大丈夫だったのだろうか。

僕と虎千代は手桶に火の始末の水を汲んで、花火の準備をすると、提灯の火でほの明るい夜道を歩いた。

ちなみに宵山は、夜通し提灯の火を点けては祭りの夜を祝うというしきたりで、宵々山、宵々々山と期間中延々と続いていく。その晩は名家の軒々が玄関を開放し、そこに家伝の屏風や壺などの宝物を飾ることになっている。客は誰でも夜通し好きな家に立ち寄って、主人との四方山話に興じるのだ。こうなると町一帯が、ライトアップされた二十四時間営業の美術館になるようなものでその風景も実に幻想的だ。

蝋燭や提灯の明かりにぼんやりと浮かぶ、金蘭絵、とりどりに飾られた屏風の色彩が闇に溶けてみるものにまるであやかしの世界に立ち入ったような不可思議な好奇心を起こさせる。

僕も浴衣を着た。夜の風が心地いい。なんだかとっても心安らぐ祭りの夜だった。

「危ないかもしれないけど、少しなら外出も悪くないだろ」

「ああ」

沈んでいた虎千代の顔にも淡く、笑みが浮かびかけているのが僕にも救いだった。

お社は小さな広場になっている。硬い樫の葉が周囲を覆い、外からはあまり見えないようだ。少しなら火を使ってもうるさいことは言われずにすみそうだった。

白砂の地面に水の入った桶を置き、僕は、まず種火を作ることにした。用意してきた火種の紙をくしゃくしゃに丸めると、黒姫から借りた石を打つ。でもこれ、なかなか火がつかない。それらしく火花は出るんだけど、ライターと違ってこれが意外に難しい。

「貸してみろ」

虎千代が火をくべる。

不思議なことに虎千代が燧石(いし)を打つとすんなり、火は点った。

「これも、いくさ場で?」

僕は思わず聞いてしまった。

「越後は寒いからな。火を絶やしては、陣中それだけで命取りになる。足軽、侍大将に至るまで一人で火を焚けぬものはおらぬ。生き残る術よ」

炎があかあかと、虎千代の頬を照らしている。影のかかるその表情に西日が射すように、少しだけど和らぎが見て取れた。

「しかし、お前は不器用だな」

くっ、くっ、と虎千代はおかしそうに笑った。

「僕たちの時代にはもっと簡単に火がつくんだよ。ライターとかガスとか」

「されば火矢や火槍をしつらえるに、今ほどの苦労は要るまい。・・・・ああ、もういくさがないのだったな。お前たちの世の中は」

自分で冗談を言った自覚があるのか、虎千代は小さく微笑んだ。

「よいな。もしゆけるなら、我も行ってみたいものだ」

虎千代は小さな手のひらを出した。線香花火にも火を点けようと言うことだろう。僕はやり方を教えてあげた。

「こうか?」

釣り糸を垂らすように虎千代は火のついた藁の串を垂らす。すると溶けおちるような赤い雫が燃え盛り、ちりちりと小さな音を立てて細かい火花を散らし始めた。良かった。僕の話を聞いただけで忍者が見様見真似で作ってくれた花火だけど、ちゃんと線香花火だ。

「綺麗だな」

その炎を見つめながら、ぽつり、と虎千代は感想を漏らした。ほのくらい薄闇の中で細めた瞳が、潤んで光った気がした。

「優しい音だ。お前らは、火薬をかような使い方をするか」

うっ、どきっとした。こいつ、普段意地っ張りな癖にこう言うところは素直なのだ。

「わたしは好きだぞ。なんと・・・・優しい炎か」

確かにこんなに優しい火薬の音を聞いたのは、虎千代にとっては初めてなのだろう。草履を履いた虎千代の素足の爪をほの暗く、ぽっと照らす程度の、小さな火球を虎千代は見飽きないと言う顔でじっと眺めていた。

やがてぽとり、と火の玉が落ちた。黒ずんだ芯をじっと眺めていた虎千代だが、やがて、子供みたいに弾んだ顔で次の花火をせがんできた。

「いいよ、今度は僕が点けてみる」

梢を騒がす、夜風がたまに吹きぬけた。火種が風を受けておぼめくので、僕たちはいつの間にか、寄り添ってしゃがんでいた。

「すまぬな、気を遣わせて。つまらぬことは考えぬようしてはいるのだが」

炎を見つめる虎千代は、少し寂しげだった。

「あやつらも、わたしが急に塞ぎこんだとみて心もとなく思ったやも知れん。まだまだ、人の将たるにその度量なし。女子の我が身が歯がゆいわ」

「そんな、気張る必要ないだろ。みんな心配してるだけだよ。この花火だって、黒姫が虎千代のこと心配して作ってくれたわけだし」

「黒姫がか」

虎千代は目を丸くした。

「んとさ、虎千代。もしかしたら、こんなこと言っちゃ本当はまずいのかもだけど」

と、僕は彼女の様子を見計らって言った。

「別にそんなに頑張って武士じゃなくてもいいんじゃないの」

虎千代は、何も答えなかった。その代わり、ちょっと首を傾げるように静かに散りかかるまとめ髪の先を揺らせた。

「この前遊びに行ったときも思ったんだけどさ。虎千代だって甘いもの好きだし、恋愛ものの本だって読みたいわけだし。虎千代も、まあ年齢相応の女の子なんだろうな、ってちょっと思ったよ。だからさ、そんなに無理しなくていいんじゃないの?」

「そうはいかん」

と言うと、虎千代はなぜか、くすっ、と笑った。

「まったく烏滸を申すな。そのようなことを真顔で言われたのは、初めてぞ」

「い、一応真面目に言ってるんだけど」

いや、恥ずかしい台詞だったってことはよく分かってるつもりだ。でも、実際そうやって感じたんだから、仕方がない。

「・・・・でも、それも悪くはなく思えてはくる。お前といると」

ぱちぱちと、熱を孕んだまま線香花火が僕の足元に落ちた。あつっ。僕は悲鳴を上げかけた。すると堪え切れなくなったように、ふふふっ、と虎千代が震えた笑い声を漏らした。

「危ないだろ。なにするんだよっ」

「お前は不思議な男だな」

今のは少しどきっとした。初めてみる顔だった。女の子って一瞬で表情が変わるから、ときどき、びっくりする。

ふと、思った。

もしも虎千代の言う、いくさがない世の中に生まれていたら、僕の隣にいる女の子は、普通に高校とかに通っていたんだろうな。同級生で、同じ学校だったり、同じクラスだったりしたかも知れない。

それもこれも、こうやって浴衣を着て線香花火なんかやってると、ふっ、と戦国時代にいるのを忘れてしまいそうになる。そのせいだ。

それから僕たちはしばらく黙って、垂れ落ちる炎を見ていた。すると、

「もし、そこのお二方」

と、女の人の声がした。もしかしたら、お社の管理をしている人が注意に来たのかも知れない、と僕は思った。しかしそれは思い違いだった。

視線を花火から移すと、そこに紫の朝顔の浴衣を着た髪の長い女の人が立っていた。

「お前は」

虎千代が小さく警戒の声を上げた。そう、この人。昼間、くちなは屋の焼け跡であった、女の人だ。名前は確か、かささぎ。虎千代の話では朽木谷から煉介さんを殺すためにやってきた、刺客のように思われるのだが、

「誰かと思えば、お昼間のお二方か。奇遇だ。また、会うとは」

虎千代は用心に刀を持って来ている。柄を手に立ち上がりかけたが、

「待った。こちらに害意はない。この通り、丸腰だ」

かささぎは何も持っていない両手を広げた。

確かに丸腰だ。昼間の仕込み杖は持っていないし、旅姿の脚絆はどこかへ脱いできたようだ。着物も、気楽そうな着流しでふらりと宵山見物に出たような格好だった。

「なんぞ用か」

「折り入って頼みがあって声をかけた。だが、誤解しないでほしい。あなたがたとは知らなかったんだ。ふと路地に差し掛かったら、その、あやしの火が見えたので」

「ああ」

この、線香花火のことか。

「それはいかなる手慰みですかな。明人(中国人)が催しで執り行う唐花火(からはなび)とは違うようだが」

僕は、線香花火の説明をかささぎにした。かささぎは、切れ長の瞳を丸くした。

「ほう、線香花火とは言うのか。しかし、いかにも侘びた慰みだな」

「で、頼みとはなんじゃ」

虎千代が聞いた。かささぎは躊躇していたが思い切ってという感じで、

「その花火だが、分けては下さらぬか」

「花火を」

ああ、とかささぎは頷いた。

「実にお恥ずかしい話だが、先ほどからお二方の様子を垣間見(かいまみ)(のぞき見のこと)していたうちの若が、どうしてもそれをご所望のご様子なのだ」

ちらり、とかささぎは背後を振り返った。そこの樫の木の傍に、小さな袖と袴のはしが見え隠れする。若、ってあの子のことか。

「ご主君か」

「多年、傳役(もりやく)を仰せつかっている方だ。ご父君にも思うように目通りならず隠忍(いんにん)(我慢)を強いられる暮らしも長く、日々の手慰みにも事欠く有様で困っている」

「なあ、虎千代。て、ことはあの子の父親ってもしかして・・・・・」

虎千代は無言で頷いた。つまりは、将軍の御曹司かも知れない。

「菊童丸(きくどうまる)様」

かささぎは木立の蔭の男の子を呼ばわった。

「知人にござりました。危険はありませぬゆえ、お姿をお見せ下さい」

やがてそわそわしながらその子は出て来た。

小さいけど、がっしりした感じの男の子だった。たぶん、十歳前後だ。青い小袖を着ていて、脇差もきちんとさしている。さすが御曹司らしく結い上げた髪も綺麗で、目鼻立ちもくっきりしている。その子が僕のところへ来て何を言うかと思ったら、

「直言(直接話しかけること)を許す。遠慮は無用ぞ。余はこやつめの弟じゃ。決して貴人ではないぞ」

そんな弟がいるか。しかし、堂々とした口調だな。話し方が偉そうだ。小学生ぐらいなのにさすが将軍の子だ。

「菊童丸様、勝手知ったる他人でござります。偽りの申し開きは無用ですよ」

「そ、そうか。許せ、屋敷の外に出るならばこう申せと、かささぎが言うゆえ」

将軍の子供だ。将軍同様、身柄を狙われているのだろう。こんな幼い子まで、と思うと、何か遣る瀬無くなってくる。

「どうするか。差し上げるにしても、もうさほどの量はないぞ」

虎千代と二人で結構やったから、もう手元には二、三本しかなかった。

「ご配慮は痛みいるが、屋敷の庭で、少し愉しませて頂くだけなのだが」

警護のため、どこかに閉じ込められている若君が屋敷に帰ってかささぎと二人、わびしく線香花火をしている姿を想像してしまうと、このまま無下にするのも気がひけた。

「じゃあさ、どうせだったら皆でやらないか。その、かささぎさんたちも一緒に」

どうするか、と迷うように、かささぎは菊童丸を見た。

「それにさ、今から黒姫たちが来るんだ。まだ、別の花火もあるから」


黒姫たち軒猿衆がすぐに新しい花火を用意してくれたので、かささぎと菊童丸もそれほど待たずにすんだ。軒猿衆が持ってきたのは、中国製の唐花火だった。竹製の筒に火薬を詰めて取り扱う。大きい音がするものは危険なので避けてもらったが、それでも線香花火より、はるかに派手だ。色とりどりの炎が目を奪う。線香花火に比べると、やっぱり見栄えがする。

「重ね重ね、かたじけない。まさか若の無聊を慰めてくれるとは」

点滅する光の中で、かささぎは頭を下げる。花火に夢中になっている菊童丸を眺める目線は、つながりのふかい保護者の目だ。この人、やっぱり悪い人じゃないようだ。

「花折峠を越えて来たと言ったな。ご主君は、やはり公方様のお子か」

と、虎千代は、はっきりと訊いた。ああ、とかささぎは顔色も変えずに答えた。

「菊童丸様は公方様のご嫡男だ。多年、義晴様に従って朽木谷にいたのだが、今夏、ひそかに京へお戻りになられた。なにしろ御存じであろうが、当節、朽木谷はこの満天下でもっとも危険な場所になっているゆえ」

かささぎは、虎千代を見た。煉介さんのことを言っているのだろう。

「公方の御曹司がおるなど、うかつに秘事を漏らしてよいのか。我もあの童子切めを探しておる。守護代長尾家の名乗りを信じると馬鹿を見るやも知れぬぞ」

「名乗りは嘘ではない。わたしでも、それくらいは分かる。あなたが格別、こちらに害意がないこともな。ただ、不可解なのは亡き細川高国様とも関わりの深い長尾家のお方が、なぜあの悪党足軽を探しているのか、と言うことだが」

「家は関係ない。ごく私的なことだ。あやつを連れ帰らねばならぬところがあるのよ」

「なるほど、分かりやすい。その点ではわたしたちとは、やはり、道を異にしているわけだ」

「童子切めを斬るのか」

かささぎは、頷いた。それは不気味なほど気負いのない所作だった。

「とは言え、わたしたちは童子切の行方を捜す、と言う目的は同じだ。昼間も言ったが、童子切煉介の消息について情報をすり合わせるのも、悪くはないとは思うのだが」

虎千代は答えなかった。色のない瞳で何かを見極めようとするように、かささぎを見返すだけだった。

「まあ、気が向いたら声をかけてくれ。わたしから、あなた方に見せたいものもある」

少しは打ち解けたのか二人はそれからも、小さな声で話をしていた。黒姫が僕を向こうで呼んでいる。

「真人さんっ、頼まれてたもの、支度は万全ですよっ。早く虎さまを呼んでくださいな」

黒姫は、大きな桶に冷えた竹筒を何本も入れている。地下水の流れる、とっておきの氷室で冷やしたものだ。

「上手く出来ているかどうか、分かりませんよ。真人さんのお話で聞いただけですから」

「虎千代」

僕は虎千代を呼んで、その冷えた竹筒を一本渡してやった。

「これは?」

「節から吸ってみなよ」

虎千代は怪訝そうな顔で口をつけたが、次の瞬間、びっくりして竹筒から唇を離した。

「なんじゃこれは。・・・・甘い。・・・・それにこれは、家畜の乳の香がするが」

即席のアイスクリームだ。牛乳に卵黄、砂糖に、塩と氷があれば出来ると、何かで読んだのだが、完全に凍らなかったせいか、どうもミルクセーキとかシェイクに近い。竹筒から吸うのにはその方がいいのかも知れないけど完全に凍らなかったのは、ちょっと失敗だった。

「醍醐(だいご)に似ている。これは牛の乳かな」

さすがかささぎは気づいたようだ。京都は牛車を使うせいか、昔から乳製品とは馴染みが深い。醍醐はチーズとヨーグルトの中間のような発酵乳製品のことだ。

「夏だし、冷たいものはどうかな、って思って、黒姫と話してたんだ、けどどうかな」

と、僕は虎千代にアイスクリームのことを話した。

「ちょっと乳臭いが、慣れると悪くないな。このようなものを食べるのは生まれて初めてだ」

「甘いもの、嫌いじゃないだろ?」

「ああ」

牛乳を飲まない習慣の虎千代もどうにか気に入ってくれたようだ。

育ち盛りの菊童丸なんかはさっさと飲んでしまったようだ。

「もうないではないかっ。のう、かささぎこれも貰うて帰ってくりゃれ」

「菊童丸様、それより先に礼を言わねばなりませぬよ。人の主君たるもの、恩に感じる心がなければ頼みになる武者は集まりませんぞ」

息子に諭す母親のように、かささぎが言うと、菊童丸は胸を張って、

「うむっ、かささぎ、余を誰と思うておる。そこも抜かりはないぞ」

とことこと、菊童丸は僕と虎千代の前に来ると、威厳のある声で言った。

「両人、格別の骨折り大儀である。この菊童丸、かような心づくしを頂いたは生まれて初めてぞ。余がめでたく公方となった暁には望みの恩賞をとらすゆえ、御所へ参るがよい。まずはその名、この心に留め置いてよいか?」

僕と虎千代は名前を名乗った。さすがにこの小さい子から恩賞を期待したわけじゃないのだが、それにしてもちょっと照れ臭かった。ちなみに虎千代とこの子は、史実では将来、公式に会うことになっている。虎千代はこの子に名前の一部と、官位をもらうのだ。もちろんこのときの僕たちには、想像もつかなかったのだが。

「そうじゃ。我も礼を言わねばならんところだったな」

「いいよ、別に。だって、そんな水臭い仲じゃないんだろ?」

と、僕は言った。虎千代は本当に嬉しそうに笑ってくれる。よかった。やっと、元気を出してくれたようだ。

「この後少し、かささぎと話がある。待っていてくれるか?」

「ああ、みんなで片づけして待ってるよ」

虎千代が去ると、ぱたぱたと黒姫が駆け寄ってくる。

「真人さんっ、恩に着ますよ。悔しいけど、やるじゃねーですかっ」

「黒姫たちのお陰だよ」

「よかったですっ。今までも時々ああなられることがあって。わたくしたちも何とか力になれないか、いつも悩んでいたのですが」

「そうだよな。虎千代だって僕と同い年なのにな」

僕たち普通の現代人の高校生と比べたら、背負っているものが違い過ぎる。

「はいっ、さすがは虎さまです。大名識は重責ではありますが、なれるものなど真に選ばれたものしかありません。あの方こそが、わたくしたちがなんのためらいもなく推戴できる、立派なお方なんですよ」

と、言う黒姫は、本当に虎千代が好きなんだろう。いつもの残虐性の欠片もない、真面目な表情だった。

「なあ、黒姫、一つ聞いていいかな。虎千代のお兄さんのことなんだけど」

かなり思い切って聞いたのだが、そのことを口に出すと黒姫の顔にふっ、と影が射した。

「わたくしは、正直、あの方のお考えが分かりません。虎さまをこの道に引きこんだのは、兄の晴景様ご自身ですのに」

そうだ。虎千代はそのまま生きていれば、僧門に入るはずだったのだ。お坊さんが合ってないとしても、お姫さまならそれなりの話があってどこかへ縁づいたのだろう。それがお兄さんの下で、反乱を始めた国人たちを鎮めるために、虎千代が戦線に担ぎ出された。そのとき、彼女は若干十四歳だったはずだ。

「こんなこと聞いたらなんだけど、やっぱり虎千代の命を狙ってるのってその・・・・お兄さんなんだよね」

黒姫は、あごを引いて頷くだけでその答えを暗示した。

「虎千代はさ、どうするんだろう?」

「分かりません」

黒姫はきっぱりとした表情で首を振った。

「でも、わたくしたちは虎さまがどうお考えになろうと、どこまでも虎さまについていきます。だから、わたくしたちはあの方の答えを待つより他ないんですよ。真人さんは、五百年も先の世からこられた方ですから、そう言う気持ちって理解して頂けないかも知れないですが」

「分かるよ。・・・・・少しは、かも知れないけど」

そう、少しはだ。僕は武士ではないし、生まれたときから一人の人に仕えたこと経験なんてなかった。そしてそれが普通だったのだから。

「虎さまが本当はどんな風に感じてるのか、わたくしたちにも分かれば、もっとお力になれるのですけどねえ」

黒姫は意味ありげに僕を見ると、深いため息をついた。

「ともかく今日のことは助かりましたです。わたくしたちはなんにしても、虎さまのためにここにいるのですから、虎さまに率いて頂かなくては、立つ瀬がありません。とりあえず今日は、真人さんの顔を立てて、虎さまの寝床に這い寄るのは遠慮させて頂きますね」

にっこりと、秘かな企てまで白状して黒姫は去って行った。相変わらず危険なやつだ。でも、ああやってちょっと、腹黒いところさえなければ、黒姫も心から仕える忠実な虎千代の家来、なんだろうな。

僕たちが暮葉さんの失踪を知ったのは、明くる朝のことだった。彼女がどうして、いつあの土蔵の二階家から消えていなくなったのか、正確なところは誰にも分からないし、誰も追及はしなかった。もしかしたら、やっぱり虎千代はそのことは察していたのかも知れない。

虎千代はいつものように武装し、太刀を佩くとかささぎと会う約束があることを皆に告げた。暮葉さんのことについては僕が訊いてもやはり、何も言わなかった。


その日は朝早く起きて、僕たちは少し遠出をした。かささぎとの約束に遅れないためだ。虎千代の話では、上京から一気に京都の南東、郊外へ駆けると言う。目指すは伏見だ。

伏見と言えば、豊臣秀吉が晩年の隠居城だった伏見城を建てた風光明媚な、京都の別天地だ。僕たちの時代には、すでに存在しない巨大な湖が満々と水を湛えてそこにある。

巨椋池(おぐらいけ)だ。

この淡水湖は、櫃川(ひつがわ)、鴨川、宇治川、淀川と四つの支流を通じて水が流れ込む全長一六キロと言う大きな湖だった。水源は琵琶湖だ。秀吉がここに隠居城を構えたのは、自分で設計から携わって城下町まで築き上げた琵琶湖のほとりの水運都市、長浜城の面影があったせいなのかも知れない。

平安時代からこの湖の水運が盛んだったこともあり、湖面にぽつりぽつりと残されている島洲には、無数の古寺や社が営まれていたそうだ。

そこは人工的な干拓で埋め立てられてしまったと言うのが信じられないほどの、肥沃な湖だ。朝もやのせいもあるが舟の上からみると、反対側の岸の風景がかすんで見える。晴れた日中など対岸に蜃気楼が立ち上ってきそうだ。

島洲が密集しているのは、巨椋池の北側にあたる。秀吉が城を築いた伏見山から大椋社を臨むあたりだ。この辺りは深い木々の緑に囲まれた、大小さまざまな島洲が密集していて、その風景はどこか日本の原初の神々しさを感じさせる。かささぎが待っていると言う草庵のある島も、岸からそれほど離れたところにあるわけではないようだ。

かささぎが待つのは湖面の風になびくように、少し斜めに突き立っている竹林が島を覆っている、小さな孤島だ。周囲は百メートルあるかないかと言うくらいのものだ。丸太をくくって繋ぎ場にした程度の船着場を通ると、僕たちはぽつんと一本だけ切り拓かれた竹林のけもの道を行く。すると林の中が開け、お堂のようなものが見えてくる。お堂の隣が小さな宿坊で縁側が竹やぶの小さな庭を見渡す配置だ。

「よく来てくれた。遠慮なく上がってくれ」

折りよくかささぎが出てきて、僕たちに応対する。チャイムもないのによく分かったと思うのだが、剣客と言う人種はえてしてこうした勘が非常に鋭いようなのだ。今日のかささぎは木綿のつくろいに、日よけの布巾を被っている。なんだか農婦みたいな格好だった。

「しばし使っていない家なのだが、すっかりと寂れてしまってな」

中へ案内されると確かに余計な建具など片づけられていて、長年人の気がなかった感じがよく分かる。その割にまったく埃が積もっていないのはかささぎが一晩かけて、掃除をしたのだろう。

「色々と忙しいようだな」

「足を伸ばせば一昼夜と言え、中々伏見までは来れない。なにしろ雑務が多い」

お茶請けなのか、綺麗に輪切りにされた白瓜の漬物が供される。薄く緑色の皮が張りきったもぎたての若瓜に軽く塩をしたものだ。味もちょうどよく、噛むと、ぱりっと言う小気味いい歯ごたえとともに新鮮な果汁がにじみ出てくる。

そして湯飲みに注がれたのは、乳白色に濁った冷たい飲み物だった。ほんのり酸味のあるねっとりとした甘味が、暑さで渇いた喉にも心地いい。なんだろ、これ。

「甘酒だ。昨夜、井戸に吊るして冷やしておいた。ささやかだが、あのあいすくりむとやらの礼だ」

にこり、とかささぎは僕の方を見て笑う。つんとした美人だがこの人も、笑うのだ。

「さて、ここまで呼び立てした経緯について訊こうか。まさかここでただ、我らをもてなそうと言う吐(はら)ではあるまい?」

虎千代は折を見て切り出した。かささぎは和らげていた表情を少し引き締めた。

「ああ、ここへあなた方を呼んだのは、きちんと理由があってのことだ。まずは長尾殿、あなたに見てもらいたいものがあるのだ」

と言うと、かささぎは立ち上がり、奥へ籠もった。しばらくすると、かささぎは襷がけをして袴を履き、きちんとした武士の格好で現れた。精進潔斎して現れたと言うことは、刀を扱うのだろうと虎千代が言った。その言葉に違わずかささぎはその手に日本刀を提げている。それは一本の白木の鞘に包まれた剣だった。

促されて虎千代がすらり、と鞘を払ってみると、それは三尺近くある。かなり長い刀だ。しかし豪刀と言うワイルドな印象は薄く、反りは少なく、切っ先もそれほど鋭く切った感じはない。刀剣用語で踏ん張りが強い、と言うのらしいだが、先端が細く鍔元に至る辺りまでが太くなっている。そのせいか全体にどこか優雅さを感じさせる造りだった。

虎千代はその刀を真剣に眺めていたが、やがて口の中で小さくうなると、

「まさか、三条宗近(さんじょうむねちか)ではないか」

かささぎは、口元だけで微笑んだ。

「ご明察」

「なんと。これは眼福だ」

珍しく、虎千代が興奮している。えっ、そんなに凄いものなのか。

「三条宗近と言えば、伝説の山城鍛冶だぞ」

やばい。虎千代の目が、かつてないほど輝いている。マニアとそうじゃない人の温度差ってやっぱり、こういうところが困る。だからちょっと分かり易く捕捉すると。

三条宗近は武士が登場したときに活躍した名工で、現在ある日本刀の形を確立したと言われる頃の伝説的職人なのだ。作品はきわめて少なく、中でも徳川家が秘蔵していた『三日月宗近』はかつて天下五剣の一つに数えられたばかりか、現在では国宝指定を受けている。下世話な話だけど、僕たちの時代に存在したとしたら、もはや値段がつかないくらいの宝剣なのだそう。

「この剣は、わたしが師父から受け継いだものだ。師父は公方様よりこれを賜った」

「使い込まれている割に、傷が少ない。師父殿はかなりお使いになるな」

さすがに刀に興味があるのか試すすがめつして、虎千代は飽きない。

「師父はその独自の剣腕をもって、公方様のご寵愛を受けたお方だった。その剣の品格、技量の冴え、鄙(ひな)の達人と言えどこれに比肩に値するものは少なかったと思う」

「ご師父は一剣、ご流儀をたてられたお人か」

ああ、とかささぎは頷き、三つ指をついた。

「長尾殿、改めて、名乗ろう。我ら早崎衆(さざきのしゅう)。師父、早崎一鵡斎(はやさきいちむさい)が公方様をお守りせんと技を鍛えた朽木谷の一流。我ら、孤児(みなしご)より買い集められ、一鵡斎によって才を見出された早崎一刀流(さざきいっとうりゅう)の門下だ」

「なるほど」

と、虎千代が言った。

「足軽どもが朽木の館に着く前に集まりどころでみな果てたは、おぬしら早崎衆の仕業であったわけか」

かささぎはあごを引いて頷いた。

「ご正鵠。公方様に仇なす、松永弾正の手先なる悪党足軽どもを花折の地に埋(うず)めたるは、ひとえに我らが働きによるもの。長尾殿が突き止めた花折峠の一連の騒動は、我らと童子切煉介めが率いる足軽衆との殺し合いの図中なのだ」

と言うと、かささぎは一枚の紙を取り出した。そこにはかささぎの筆跡らしい、細やかな文字遣いで三つの名が書かれていた。

九重傷(ここのえきず)の久慈右衛門(くじえもん)

火車槍首(かしゃやりくび)の狐刀次(ごとうじ)

童子切(どうじきり)の煉介(れんすけ)

「これは」

「今、朽木谷を襲う、足軽衆の三人の元締めの名だ。一人はご存じかと思うが」

と、かささぎは虎千代の顔を見据えた。

「かねては、将軍義晴公が朽木谷に流寓して十数年来、刺客は絶えなかった。我ら早崎衆はそうした刺客どもを秘密裏に葬ってきたのだ。公方様を安泰ならしめんと、師父一鵡斎の元、決して姿を現すことなく活動を続けてきた。この三人の頭目が現れるまでは」

いつの間にかかささぎの瞳は、冷ややかな殺気を帯びている。まるで麗らかな春が突然真冬に切り替わったように、今までそこに微笑して座っていた女性とは、まるで別人のようだった。

「悔しいがこやつらの腕前は出色だった。この三人の頭目によって今まで日陰の存在であった我々も同志をあまた殺され、あまつさえ野に屍を晒した。苦しい争いを続けたが、我らはどうにか連中を退けかけていた。この童子切とわが師が刃を交えるまでは」

「やはりご師父は、童子切との斬り合いで果てられたのか」

「ああ」

「それは正式な立ち合いであったのだな?」

虎千代は三条宗近を鞘に収めると、上目遣いにかささぎを見つめながら重ねて問うた。

「そうだ。勝負は正式なものだった」

と、かささぎは言葉を噛み締めるように言った。それはまるでどこか自分に言い聞かせるために言っているようにも聞こえた。

「お手前は童子切を斬る、と言ったな」

虎千代は念を押すように言うと、かささぎを睨みすえた。

「師父殿は一己の芸者として挑み、煉介めもそれに応じた。間違いがなければ、その結果に私怨を差し挟むべき余地はないのではあるまいか」

虎千代は言った。まるでその気持ちを試すように、目線を外さなかった。

「だが、あえてそれでも童子切をお手前が斬ると言うならば、お手前の師父殿がとられた手立てによってのみ、なすべきだと思うが如何か?」

「ああ、そのつもりだ」

と、かささぎは虎千代を見据えてゆっくりと頷いた。

「童子切煉介と立ち合う。それが京へ来たわたしの望み。一対一での立会こそ、わたしの変わらぬ望み。長尾殿には我が想いお聞かせしたくこの席を設けた。願わくば、この旨、聞き届けて頂けるか」

虎千代はその瞳を長い間見ていたが、

「なればそれを誰にも阻む理由はない。それは我が目的の外。存分にやられるがよい」

かささぎの顔に花が咲いたように生気がともった。

「さすがは長尾殿。やはりこの武の芸者の気持ち、汲んで頂けるか。このかささぎ、今日これに勝る喜びはない」

「致し方あるまい。だが言うまでもなきことながら、この勝負を致すからには一切の遺恨、後になく、お手前とお手前のご師父、そして童子切煉介との間のことにしてもらいたい。その内のことなれば、我は一切手出しはせぬ。この点、よろしいか」

「承知した。わたしもこのことは武芸者として、公方様や菊童丸様のこととは別儀のこととして考えることにする」

かささぎは虎千代から宝刀を受け取ると、白木の鞘に納める前に虎千代の剣と互いの鎺(はばき)を打ち合わせ、約束を交わした。武士同士では、金打(きんちょう)といい、堅い約束の上では刀と刀同士を合わせることがあるのだ。

「ではその上でここでもう一つ、お頼みしたきことがあるのだが、お引受け下さるか」

「承ろう」

「実はこの後、わたしは立ち合いを行う」

どこかで鳶が鳴いたのを、僕は聞いた気がした。さあっ、と地を掃くような音がして、会話が中断された。湖面を渡る意外に強い風で辺りがさんざめいて、竹藪が一斉に葉鳴りを立てたようだ。

「安心めされよ。相手は童子切ではない」

僕の方見て言ったのか、かささぎは微笑した。でも今僕は聞き逃さなかった。

かささぎは、これから真剣勝負を行うと言ったのだ。一体、誰と。

かささぎは名簿の中の一人の名前を指すと、

「この九重傷の久慈右衛門がその相手だ。この男、足軽なれど亡師と長きに渡り、対峙した達人。師亡き後、後を継いだわたしの申し出に応じてくれ、間もなくここに出向くことになっている」

かささぎは言うと、背後を振り返る仕草をした。

「次の間に、師の屍衣と遺髪が櫃に収めて置かれてある。わたしが敗れたら、わたしの遺骸とそれを裏の瓜畑に埋めてほしい。そのための穴はすでに掘っておいた」

三条宗近の白木の鞘を脇に抱えると、かささぎは言った。

「万いちの際、長尾殿にはこの、三条宗近を託す。まずは今日、お呼び立てしたのはそのためだ。童子切とのこと、承知して下さったは望外の喜びであった」



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