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戦国恋うる君の唄  作者: 橋本ちかげ
Phase.5 ~京洛陰謀、煉介さんの秘密、武士の生きざま
27/592

ついに虎千代が突き止めた煉介さんの大罪!突きつけられた衝撃の事実に暮葉さんが・・・?

日暮れに、雨が降った。じとじとと、濡れる雨だ。しゃわしゃわと霧状になった雨だれが世界を包みこみ硬い紫陽花の葉をしとどに濡らしていく。なんて静かな雨だ。下京の戦闘は、朝だけの攻防でいくさは終息したのかここからでは武者押しも怒号も悲鳴も聞こえない。雨に混じってどこかで猫の退屈そうな鳴き声が微かにしたり、上京は、何事もなかったかのようにのどかだった。

「煉介さんはなにをしようとしているんだろう」

僕は、いつの間にか、つぶやいていた。

だって、あんなことがなければ、こんなに涼しげで平和な夏の夕立なのだ。

軒先で刀に打ち粉をしながら虎千代は、聞くともなく僕のつぶやきを聞いている。人を斬った刀は、手入れをしないとすぐに使い物にならなくなるのだ。こういうときの虎千代は集中しすぎていて、話しかけても反応してくれない。黙々と刃こぼれを検め、血錆びを落としていた。

弾正の仕事か。

そう言えば煉介さんは、自分の国が欲しいから弾正に(したが)ったはずだった。

そしてその弾正は、室町幕府を作り変える、と言っていた。確か、今は将軍家も管領家の細川家も二つに分かれていて、それを正すために弾正はより多くの兵が欲しい、だから煉介さんの武力が必要なのだった。あのとき、上京の弾正屋敷で聞いた話はそう言う感じのことだったと思うけど。

「ねえ、虎千代、あのときの弾正さんの話だけどさ」

「うん?」

返事があった。手入れが終わったのか。虎千代は磨き終えた備前光忠を鞘に収めると、僕と同じようにねずみ色に暮れなずんだ夕焼けの空を眺めていた。

「幕府が二つってどう言うことかな」

「ああ、そのことか」

虎千代は詰まらなそうに言うと、額に貼りついた前髪を払った。

「要は二つになった管領家がともに、二つの将軍家を()てた、と言うだけの話よ。南北朝の折に、朝廷が京都と吉野に二つあったようにな。畿内には今、二つの幕府がある。この京に一つ、いま一つは堺(大坂)」

ううん、つまり総理大臣が二人いる、みたいな感じなんだろうけど、

「どっちが本物なの?」

「いずれ虚とも実とも言い難い。なにしろ、元は一つの一族で、争えどそれほど差はないものだからな。まあ後に出来たは、堺公方の足利義維(よしつな)で一見、胡乱だが、そもそも十二代を継いだ義晴(よしはる)とて腰弱でこの京には居られぬ。家臣の争いに脅かされ、都を追われて洛外へ落ちたとか」

「流浪の将軍・・・・・・ってやつだっけ」

「ああ、なかなか上手いことを言うな」

いや、それほど上手くはないと思うんだけど。教科書に書いてあったのだ。でも確か流浪の将軍って呼ばれてたの、って別の将軍だったような。

「要はお飾りなんだろ。全然実力もないのに、どうしてみんなこぞって将軍とか幕府とかを樹てたがるんだろう」

「そうだな。お前は武士ではないから、推戴(すいたい)、と言う考え方を知るまい。人は何より血筋や道理を尊ぶ。筋目、いわゆる貴賎、上下の列が序列の基本よ。だから例えば本音はどうあれ主筋に逆らったもの、親や縁者を殺したもの、決して人は認めぬ。この理屈は分かるな?」

「そう言うものかな」

身分が低くてもいくさが強い大名が天下を取る。いわゆる下剋上ってルール無用のイメージだし、戦国時代と言うと、どうしてもそんなシンプルな構図が見えるけど。

「それは浅見じゃな。武家の家は、武威が肝心と思われがちだがすべては衆目の意見の一致する合議で決まる。それを推戴と言う。そこで武門の将に祭り上げられるは確かにいくさ立ての上手も少しは考慮されるが、要は多くの家を安堵ならしめるかよ」

そもそもが源平の武衛(ぶえい)をみよ、と虎千代は言う。武衛って源頼朝のことだが、確かにいくさ上手の評判は聞かない。むしろ兄弟の木曾義仲や源義経が戦争の上手だったが、鎌倉武士たちが一貫して頼りにしたのは頼朝だった、と虎千代は言いたいようだ。

「でも今は戦国時代だろ。それって敵国に侵略されないって言うか、虎千代みたいに、いくさが強い大名じゃなきゃってところはないの?」

「いくらいくさが強くとも、誰も、無茶ないくさを繰り返して家を滅ぼす荒大名の下には従うまい?武家の営みの難しきところは、そこよ」

ううん、そこまで言われると。確かに理屈は分かる気がする。

そう言えば、虎千代のライバル武田家のことなんかを思い出すとだ。

武田信玄のお父さん、信虎は、いくさは強かったけど、無謀ないくさを繰り返すため家臣に見限られ、ついに国外に追放されたりしている。また、信玄の跡を継いだ勝頼(かつより)にしても、亡き信玄の旧臣と対立して無茶ないくさを繰り返したため、最終的に裏切り者を出したことが織田信長に領国を滅ぼされる原因となっている。

そのことを考えると戦国大名としても生き残るには、いくさに強いだけじゃだめだということは、よく分かる。

「戦国の家を治めるは、個人の武勇ではどうにもなることはないのよ。あの弾正でさえ切り取り自由と言うわけにはいくまいと言っていたであろう。斎藤山城にしても、もとの守護土岐氏から美濃一国を召し上げるのによほどの手間をかけたはずぞ」

「うん、なんかそれは聞いたことある」

斎藤道三も北条早雲も身一つで国を攻め取ったとされているが、実はそれも何十年もかかっている。虎千代の言うとおり自分の主人に危害を加えた大名に、家来は従わない。そのため時間をかけて合議を練り、いわば合法的にクーデターを起こす準備を進めていったのだ。

「我が長尾の家も兄の晴景が国を治めているであろう。ここで新兵衛や弥太めの言う通り、我がことを荒立てることをすれば、国は成り立たぬのだ。子が父を放逐することさえ世に忍人(にんじん)(残酷な人、と言う意味)と罵られるのが世間よ、妹が兄を弑するような不祥事を長尾家で起こせば守護代家の権威は、到底保てぬのだ」

虎千代の話は意外と根深い。ただ単にお兄さんといくさをするのは気が進まない、と言うそのことだけではないのだ。もちろん虎千代個人は兄妹の殺し合いを望まないことは確かなんだろうけど、それをもう少し大きな視点からみると長尾家に関わる多くの人たち、つまり虎千代がいつか新兵衛さんに言った民草、一般の人たちを慮ってのことでもあったのだ。

「そうか。そう言うわけなんだ。・・・・・虎千代が越後に戻りたくないってみんなに言うのって、ただの我がままかと思ってた」

「そう過大評価してもらうと、少し耳が痛いが。確かに自儘の意味合いもあるゆえ」

と、虎千代をみると手を組んでもじもじ親指をいじっている。最近、二人で雑談しているとたまにこうなるのだ。うう、何か気まずい。

「とっ、ところでだが、我ら・・・・・でいとから進んでいないような気がするのだが」

「・・・・あ、あのさ二人で出かけたの、昨日だよね?」

進んではまずいのに、大分進んでますよ。不可抗力とは言え、一緒にお風呂に入ってしまったし。

「みづち屋を発つ前、新兵衛もああ申していたであろう。その・・・・そろそろ次にいきたいと思うのだが」

「ま、待った虎千代。僕たち、十七歳だろ。年齢的に言ってもしそんなことになったら、掲載できるレベルじゃないって言うか」

ああああ、なに言ってんだろ、僕。いやいや、でも僕たち、現代だとまだ一応、アダルトコーナーの赤のれんをくぐっちゃいけない年齢なわけで。

「あ、ああ。それは、絢奈から聞いて分かっている。やや子を作るにしても・・・・じ、実はその方法とやらをよう知っているわけではないし。だからその前のことならどうかと思うのだが」

「その前って・・・・」

「ほ、ほれあるだろう・・・・・口と口を寄せて」

虎千代はまたまた耳まで真っ赤になって顔を背けている。い、いや待て。恥ずかしいのは聞いてる僕の方だ。

「キスのこと?」

はっ、と目を見開いて、虎千代は後ずさりした。

「はっ、はしたない女と思うな。我らが世界では・・・・そもそも口吸いはうかれ女(遊女)が戯れにするものぞ。お前たちはやや子を作るより先にするそうだが」

そうかも知れないけど。いや絢奈、ABCがどうとかって我が妹ながら古いぞ、ネタが。心の中で秘かに突っ込んでしまう。

「したいの?」

「いや、お前がしたいというなら、するもやぶさかではないと言うか、お前とならわたしも悪くはないと言うか、隙あらばぜひしたいと言うか」

つまりは、したいわけか。

「あのさ虎千代、いっつもすごく無理して言ってない?女の子からそう言うこと言うのって結構勇気いると思うんだけど」

「う、うむ、おのれで恥ずかしい。されど、あえて修羅場に血路を開くのがその、大名識と言うか、武士として」

いや、そんなところで戦国大名の度量とか武士の気概を試されても困る。

「そもそもお前は、年の割に色欲がなくて困らぬのか。わたしも仏法の徒で畜肉の類はみだりに口にせぬが、人並みに色欲はあるぞ」

「そ、それって草食系男子のことを言ってるんだと思うんだけど、別に肉を食べないからとかじゃないからね」

き、きまずい。虎千代とエッチな会話をするのって、すっごく座りが悪いぞ。こう言うのって何か解決策はないのだろうか。

「・・・・大体、一応言っとくけど、僕だってその、そう言う欲とかがないわけじゃないから。虎千代は自分のことどう思ってるかよく分からないけど、そうやってことあるごとに迫られたらこっちも我慢できなくなるって言うか・・・・」

虎千代は無言で僕の腕に沿ってくる。顔を背けたままだったけど、僕の二の腕辺りに頬をぴったりくっつけて身体をすり寄せてくる。これ、心臓が停まるかと思った。お風呂のときは慌てていてそんなに感じなかったけど、今は逆に二人きりを意識する。その分、濃密に感じてしまうのだ。

虎千代が着ている藍の着流しの衣擦れの感触や、岩清水に濡れたみたいに艶やかな黒髪がさやめいて僕の肌をくすぐる感覚。そして、桃の葉の香に混じって、息が詰まるくらい漂ってくる火照った肌の気配。心臓の鼓動とかすかに苦しい息遣いがこちらにもはっきりと伝わってくる。

こういうとき、女の子ってずるいと思う。言葉にしないでも直接、要求を伝えることが出来るのだから。

真人、キスくらいなら、いいのかも知れないぞ。心の中で悪魔がささやく。あああ、ちょっと待て冷静になれ僕。ここでやってしまえば上杉謙信に関わる人たちに多大な迷惑をかけるし、鬼小島や黒姫がどう反応するか、分からないぞ。リアルに死ぬかも。でもこの柔らかいって言うかいい匂いって言うか、それ以上にどくどく感じるもう一つの心臓の響き。そこからダイレクトにこっちに伝わってくる女の子の好きだ、って言う気持ちって。これは堪えられない。

さっきまで片足で踏ん張っていた理性がつんのめってバランスを喪いかけている。いや、もう遅い。このひと押しで、派手にずっこけた。

だいたい、そもそもだ。なんの力もない平凡な高校生の僕が歴史を変えるだの大それたことを心配する方がおかしいのだ。

「わっ、分かったよ。じゃあ・・・・」

僕は虎千代の意外に華奢な肩にそっと反対側の手をかけてそこから、滑らかな感触の小さなおとがいを探り当てる。虎千代のそれはやっぱり、女の子の小さなあごだ。僕の指の中で壊れてしまいそうなのに、確かな実感をまとってそこにある。長い睫の瞳は閉じられて、何かを求めるようにかすかに開いているのは、びっくりするくらい繊細に形づくられた、桃色の小さなあわいだ。

乳白色がほんのり上気した唇から感じられる血の気の力強さは、悩ましい息遣いの生々しさを、僕の心臓に直接伝えてくる。こっちも頬に血の気がまわって、むせ返るような女の子の匂いをはっきりと感じるたび、咽喉に息が仕えるのが分かる。こうなると、正直、何も冷静に考えられない。

もう知らん。

後はどうにでもなれ。

僕は、目を閉じて懸命に僕を待っている虎千代の唇に顔を近づけかけた。

でも、歴史の神様はやはりどっかでみてるわけで。

ひゅん、と風切り音がして、近くの床柱にすごい勢いで何かが突き刺さった。トーンと重たく鋭い音に聞き覚えがあって、僕は思わず顔を離してその物体の正体を確認した。それは、錆び止めを黒く塗ってひどく研ぎすまされた武骨な鉄の塊だった。ううん、これは紛れもなく忍者が投げる棒手裏剣、苦無だ。

垂直に立てた腕から遠心力で投げる手裏剣は、薄い鉄板なら軽がる貫通すると言う。

それが硬い建材のはずの、床柱にふかぶかと突き刺さっていた。

びいいん、と手応えがいまだに柱を震わすほど殺気を帯びた一撃だった。

このえちゃんのときは桶ですんだけど、これが頭に刺さったらマンガのキャラクターじゃないのでたぶん生きてはいられない。

「ふっ、ふふふふふっ、どうやら間に合ったようですねえ」

そこにお櫃を抱えた黒姫が立っていた。白ふきんに前掛け姿、おさんどんの黒姫はさっきから虎千代のために腕によりをかけて料理をしていたのだ。

「おっ、お二方。夕餉の膳がなりましたが」

その笑顔は完璧だったが、声はひきつって震え気味だった。お陰で僕は夕食の膳に毒が盛られていないか、本気で心配しなくてはならなかった。


次の朝、僕たちはくちなは屋の跡を訪れた。

もちろんだけど、その僕たちの目の前に現れたのは、ただの湿っぽい、きな臭さを放つ、無惨に汚れた残骸に過ぎなかった。

炭くずに成り果てた柱が斜めに傾いで地面に突き刺さり、綺麗に磨かれた床は踏み破られ、どこもかしこも、壊れた什器や破れた着物くずの無造作な散乱を許していた。

そこに一つ、建物がないだけだ。なのにそこがぽっかり抜けると青空が広く見える。

「ここが、くちなは屋・・・・」

あの激動が嘘だったかのような、二十四時間後だ。

足軽たちの反撃は一日で終わり、下京には嘘のように平穏が立ち戻っていた。往来にはぽつりぽつりと人が現われ、どこかを歩く物売りの声も近くの寺の読経の声も、僕たちが平穏に過ごしていた頃となんら、変わりない。

しかし、喪われたものは日常から無慈悲に切り取られ、どこか不自然ないたたまれなさをまといながら、その平たい死骸を横たえている。そこは日常から、僕たちがいたくちなは屋だけが、はぎ取られてしまった奇妙な光景だった。

「ひどいな」

僕たちが敷居の跡から、またいで中へ入ると、土間には暗い顔をした男が、うずくまったままこちらを見ている。廃材から使えそうなものを見繕っているのだろう。武装した虎千代をみるとおびえた顔をして逃げ散っていった。

「これが負け戦よ。棲家は漁られ、いたずらに物は壊され、盗られるものは焼け釘一本に至るまで簒奪される。敗者はなすすべなく、どこまでも奪いつくされるがさだめよ」

虎千代はため息をついて言った。いくさ自体も凄まじいのだが、戦後の略奪暴行も凄まじかったのだ。使えるものは廃材でも引き剥がして持っていく。負け戦の跡は草一本残らないって本当だ。

「でも間一髪で助かってよかったよな。大事なものはみんな持ってったわけだし」

僕の荷物も絢奈がみんな、みづち屋に運び込んでくれたお蔭で、そうした非道行為の餌食にならずに済んだのだ。真菜瀬さんの話では逃げ遅れた人もいなかったようだし、そのことだけでも、よしとしなくちゃならない。

煉介さんがいた辺りの部屋の跡を、虎千代は調べていたようだ。当然ながら特に、そこに、今の煉介さんに手がかりがあったわけではないのだが。

暮葉さんからは結局、あれ以上の情報を聞き出せなかった。虎千代もやはりしばらく、何も触れないでおく方針らしい。相手が何かを隠しているとうすうす感づいていても、自分で材料を集めなければ、口を開かせる糸口を見つけることは出来ないと考えたようだ。

黒姫とも今後については、細かく打ち合わせをしていた。朝には黒姫の方が先にいなくなったので虎千代に言われて何か調べをしに行ったものと思われる。かなりの人数を動員していた。

僕たちがそもそもここへ来たのは撤兵の処置を任せた、鬼小島たちと待ち合わせるためだった。夜更け頃、黒姫の元に届いた報では、煉介さんの足軽衆たちはどうにか死傷者を出さずに、鞍馬山に撤退出来たようだ。戦闘を追えた力士衆たちは酒宴もそこそこにこぞって、虎千代の下へ戻ってくるらしかった。あの危険な連中、人目につかないのだろうか。

濡れ縁だった跡を通って僕はあの日、虎千代と脱け出した裏木戸の前へ出た。あの、裏庭の樫の木がまだあった。奇跡的に目立った傷は見られなかった。そう言えばだ。ここからそもそも、狼の頼光が現れ、虎千代に出会えたのでもあったよな。

僕が何気なく、灰を被って変色した木立の葉末を眺めていると、

「とまれ」

虎千代の声がした。僕に言ったらしい。柄に手をかけていた。

「離れろ。息遣いがする。そこで誰か、様子をうかがっている」

木戸の向こうのことを言っているのか。虎千代より近くにいるのに全然気づかなかった。そっ、と虎千代は濡れ縁から下りた。そして足音もなく、裏木戸に近づく。

「出て来い。出てくれば危害は加えぬ」

木戸から反応がない。そこは閂が壊れて、かすかに開いているのだが漏れ出した外の光に誰かが立っているような影は見えなかった。普通の人だったら、神経過敏なのか勘違いしているのだと思うだろう。しかし虎千代のこう言う勘は、外れたことがなかった。

気配もなく、細長い影が、すっ、と入り込んできたのは次の瞬間だった。

それはごくごく自然な動作で、それが速かったわけでも特殊な動きでもなかった。

でも、僕はすぐ傍にそれが近づくまで、気づくことはなかった。

現われたのは、紫色の小袖に白い脚絆をつけた、旅姿の女の子だった。年齢は僕たちより上に見えたけど、二十歳は過ぎていないだろう。日よけの笠を被った下は長い垂髪を一つに束ね、右肩辺りから下ろしている。赤い袱紗の紐のついた紫檀の道中杖を右手に、かすかに身体の重みを預けていた。

「悪くない反応だ」

細長いあごを上げて、その女は虎千代を見た。

「名を聞こうか」

「みだりに名乗る気はない。我らの立ち聞きするなら、無駄なことぞ。童子切煉介の行方ならば我らも捜しているところだ」

彼女はそれにはすぐ答えず、虎千代に近づいた。かなり背が高い。

「わたしは、かささぎ、と言う。確かに故あって童子切の煉介と言う男を捜している。目的が一致するなら、知っていることを話すのもやぶさかではないのだが」

「悪いが、立ち聞きをしようとする者に腹は割れぬ。もし、貴殿が我らなれば戸板の陰で息を殺して機をはかる輩は信に足れるか?」

しばし、二人は近い間合いで睨みあっていた。

折れたのは、意外にもかささぎ、と言う女だった。ふっ、と笑みで崩して、

「なるほど、そうだな。わたしも、もともと腹を割る気はなかった。貴殿に呼吸を読み盗まれるまではな。いわばふとした水心よ」

見たところ、危険な気配はないけどなんていうか、かささぎは独特な空気を身にまとった女の人だった。虎千代が眼でいかけたのにも逆らわず、かと言ってまるで動じる気配も見せない。

「名前を聞いた。こちらも、名くらいは名乗ろう」

虎千代は自分の名をきちんと名乗った。僕もおずおずと自己紹介をする。

「ああ、長尾」

と、それを聞いてかささぎは声を上げた。

「そのご人品、ただのご浪人ではあるまいとは思ったがまさか北陸の守護代家、その累につながるお家柄か。長尾家はそもそも、現今の管領家とも馴染み深い名家だ。かような淫らな湯屋の跡に用事があると思うも、また不審だが」

「そ、それは」

と僕が言いかけると、

「いや、詮索は無用のはずであったな」

と、かささぎは、また淡く微笑んだ。

「悪くない出会いではあった。かような場所でなくばぜひとも一献、差し上げたいところだったが、またの機会にしよう。わたしも一昼夜、花折(はなおれ)の峠を歩きとおしてきた身にて」

「あっ」

と、気づくと、かささぎは消え去っていた。まるで幻を見たかのようだ。決して恐ろしい感じはなかったが、本当に不思議な女性だった。

「な、何者だろう?」

「あやつめ」

と、虎千代は呻くように言った。見ると柄にかけた手が、危うく鯉口を切りかけている。

「かなりの遣い手よ。あの紫檀の杖に仕込まれていた刃、逆手で抜けばそのまま我より早く斬りつけることが出来た。あのままやれば二人、うかつに殺されていたわ」

僕は裏木戸を開けて目で追ってみたが、かささぎらしき姿はどこにもなかった。

「あの女、花折峠を抜けてきたと言ったな」

と、虎千代がふいに言った。花折峠って?

「うん。そんなこと言ってたような気がするけど・・・・・」

「上京、みさご屋・・・・・高野川、ふむ、そう言うことか」

「え?え?どう言うこと?」

「弾正めの仕事よ。多少目鼻が見えてきた」

虎千代はそれ以上を言わなかったが、何かを掴んだようだった。こう言うとき、気づいたことを人に話さない性格の人って、割といる。

でも虎千代のそれには一応の意味があったようだ。


「近江路だ」

虎千代は言った。あれから鬼小島たちを伴って僕たちは、黒姫の忍び宿に引き返したのだ。畳の上には、その後で戻ってきた黒姫が用意した京都全図が広げられている。どうやら色々と、材料が揃ったようなので、状況を検討しようと言う考えだ。

「よく見ていろ」

虎千代は筆をとるとそこに書き込まれたみさご屋、と言う文字に丸をつけ、それを高野川の上流に向かって大きく引っ張った。北東は比叡山系だ。この山を越えると、もう京都府じゃない。確か琵琶湖のほとり、滋賀県の南西部に出るはずだ。

「童子切めの行き先よ」

と、地図上の山脈の上に線を引きながら、虎千代は言った。

「煉介は姉の暮葉が営むみさご屋で支度を整えた後、夜通し仕事に出かけたことがある、と言っていただろう。位置的に考えて恐らくこの高野川谷をのぼり、比叡の山系を峠越えして、近江に抜けたに違いないわ」

「ここって若狭街道(わかさかいどう)だよね」

ああ、と虎千代は頷く。僕の記憶が間違いじゃなければここは、京都でも有名な山道の一つなのだ。若狭街道とは鞍馬山山系に並んで北方の山側から京都へ入る、もっとも古い街道だ。終点は、アメリカ大統領と同名の、若狭塗りのお箸で有名な小浜市。そこと京都を結ぶ全長八〇キロほどの山道だ。江戸時代には別名、『鯖街道』と言われ、小浜で水揚げされた名物の鯖を輸送中に腐らないように塩でしめて京都へ運ぶ道だったことで、よく知られている。

「でも、煉介さん、こんな場所で何を?」

遠くへ行くと言っても、まさか若狭までは行ったりしないだろう。

「我らの記憶でもあの童子切めがくちなは屋を空ける期間は、それほど長くはなかったであろう?いくさがあれば足軽どもを率いて出ねばならぬし、護衛や取立ての仕事で出てくると称しても正味二日か三日がよいところだ。となれば移動に半日かかったとして、往復で丸一日近く費やすことになる。夜を徹して駆ければ別だが、それほど遠くにはいくまい。さっきの女が花折峠を越えてきたと言うていたが、それもまた一つの、糸口になった」

黒姫、と、虎千代は記録を整理している忍び姫を呼ばわった。

「我が申しつけておいた例の件、調べはついたか」

「はいっ、ぬかりはありませんです。まずはこれを」

と、黒姫が広げたのは、またもや地図だ。若狭街道の入り口を示したものなのか、そこには山系に沿っていくつかの地名が記されている。さっき、かささぎと言う女の人が言っていた花折も確かに地名の中にあり、それは比叡山口と比良山の間から山を登っていった、ちょうどすぐ北にあった。

「あれ・・・・」

僕は異変に気づいた。ふと見ると、その辺りから少し北の辺りにかけて朱筆で点々と赤い×マークが記されているのだ。

「これはここ三ヶ月ほどに起きた、峠の刃傷沙汰を記録したものです。峠と言うものはもともと盗賊の隠れ家が多いし、人目につかない場所にも連れ込みやすいしで、その手の仕事の被害が多いのですが、足軽が被害者、と言う事件は珍しくてですねえ」

「これほどあったか」

「ええ。どうもまとまった人数の足軽が無惨にも、斬り殺された事件が、急に何件もありまして理由の分からない遺骸を始末するのに、近隣の村々で困り果てているようでしてねえ。諍いを目撃したもの、現場から逃げ去ったもの、見たものがいないのでその多くは盗賊宿が襲撃された押し込み事件として処理されているようですが、ひどいもので事件現場は生き残ったものはいなく、皆殺しなもので」

「皆殺し・・・・・と言うことは、煉介さんについていった足軽は?」

「ほとんど殺されたんでしょうねえ。無惨なものです」

黒姫はさらっ、といったが、赤い印の数は尋常じゃない。これまさか全部、煉介さんが?

「どうじゃ黒姫、どうやらここが童子切めの仕事の口利き先であろう」

「まず間違いなく。いやはや危険が好きな御仁ですね」

「う、嘘だろ」

まさかそんな。煉介さんが、そんなひどい仕事を足軽たちに斡旋していたなんて。それに洛中を離れた辺鄙な山の中で、こんな惨状が繰り広げられているなんて、一体そこでは何が行われているんだ?

「信じられないって。どうして煉介さんが、わざわざ足軽たちを、そんな危ない場所に連れてくんだよ?そんな、いい仕事があるだなんてだますようなことを言って」

「だましてはいないさ。ここで仕事をすると言われて、よほどの阿呆でない限り死を覚悟せぬ者はいない。恐らく実入りがよいのも嘘ではないだろうしな」

とんとん、と虎千代は筆の尻で地図の上を叩く。

「気づかぬか。赤い印が群がるこの地名を読んでみよ」

そこには、こう書かれてあった。

朽木谷(くちきだに)

「ここって・・・・・」

「幕府よ。京を追われた十二代将軍、足利義晴が身を寄せる最後の砦がそこにある」

大きく息を吐くと、虎千代は重々しげに言った。

「童子切めの狙いは足利将軍家よ」


将軍家。

煉介さんが狙うのは、将軍家だと言う。

もしかしたら今の将軍、義晴の首を?

「これほどの刺客を送り込む以上、そう考えるが自然だな。弾正めも思い切ったことをするものよ」

「朽木谷には、近江源氏佐々木氏の末裔が棲んでいます。ここは朽木氏と称して代々将軍家を見守ってきた、鎌倉以来の武家の名家が防備を凝らしているんです。そこに足軽たちを語らって刺客として送り込んだと考えると、花折峠の一連の事件が俄然きな臭い感じになってきますねえ」

「で、でもさ」

と、納得しきれない僕は言った。

「全国諸大名をまとめる力がないとは言え、腐っても幕府の元首なんだろ。その将軍を暗殺するなんて大それたことをしてしまったら、煉介さんは道按が言うとおり、天下の大罪人になるんじゃないか。それでも、将軍を殺したって何にもならないのに。それなのに、煉介さんはどうして将軍を狙わなきゃいけないんだよ?」

「まあ、弾正めの理屈は分かる。こたびの細川氏綱、遊佐長教の出兵は、将軍義晴の働きかけによるものよ。義晴公がそもそも京を追われたは、細川晴元との確執も根深いが、多くは弾正の主、三好家の差し金によるものだ。弾正めにすれば、この不利な戦況の折、将軍義晴さえ死すれば、氏綱、長教の軍勢は戦う大義名分を喪うこととなる。風向きは一気に変わるであろうな」

虎千代が言う理屈は、さっきの推戴、の考え方に基づいているのだろう。現在、将軍それ自体にはなんの力もないが、畿内で軍事力を集めるためには不可欠な、シンボルなのだ。

二つある将軍家のうち、堺の足利義維(よしつな)を三好家が守り立てている以上、足利義晴が主張する京都の幕府はそもそも、邪魔以外の何者でもないわけだ。

「しっかし、将軍を殺そうなんて思い切ったことを考えますねえ」

ことの重大さに黒姫も驚いているのか、思わず声を大きくする。

「まったくよ。将軍を殺せばあやつは、主殺し以上の罪を得る。武士として生き様を疑われる、畜生の働きに等しい。露見すれば棟梁として、二度と人の上には立てまい。命ずる弾正めも卑劣は卑劣だが、引き受ける童子切めも畏れを知らぬことよ」

虎千代は吐き捨てるように言った。

「しかも、あやつめ、仕事に懲りすぎて遺体を出しすぎた。恐らくそれで検非違使の道按に嗅ぎつけられる事態になり、花折峠を越えて、刺客が入り込んできたのであろう。この仕掛け、もはや尋常には収まらぬ」

虎千代は苦い顔でしばらく押し黙っていた。


将軍を殺すこと。現代人の僕たちが考えるよりも、はるかにそれは恐ろしいことなのだろう。虎千代も黒姫もその顔が心なしか青ざめていた。

そう言えば織田信長ですら、将軍を京都から追放したりはしたけど、やっぱり殺しはしなかった。戦国時代を下剋上の時代、と後の人は簡単に言うが、そもそも身分の下の人間が上の人間に取って代わるのには、僕たちには計り知れない苦労があったのだ。その中でやはり、暗殺、と言う直接手段を使うことは、禁じ手の中の禁じ手だったに違いない。

日本史は奇妙だ。将軍も天皇も一見無力な存在としてそれほど重んじられているようには見えないのに、これを侵すと大逆としてこぞって逆賊を成敗しようとする力が大きく働く。だけでなく、罪を得たものは汚名が後々まで刻まれる仕組みになっている。

「弾正めに会えるよう、はからえるか」

虎千代が黒姫に言ったのは、それからほどなくしてのことだった。

「万事不足ないよう計らいます。ですが、しばし時間を頂きませんと」

「構わぬ。疎漏なきよう努めよ。ところで童子切めの姉には会えるか?」

「はい。それは構いませんが」

暮葉さんはあれからまだ床を離れていない。黒姫によると監視は続けているが、本人は立ち上がる気力が出ないようだ。沢の水で身体を冷やしたことが堪えたらしく、昨夜から熱も出していた。でも、とりあえず起きていれば話は出来るとのことだった。

虎千代は口の中を怪我した暮葉さんに玉子酒と、すった山芋に卵を割り入れて昆布だしを利かせたとろろ入り煮麺(にうめん)を作らせ、自分で膳をとって土蔵に上がった。

暮葉さんは顔の色は良くなかったが、思ったよりは健康そうだった。虎千代が用意した昼膳を今度は、あまり躊躇せずに口に運んでいった。

「すごく申し訳ない気分ね。虎千代さん、煉介ばかりかわたしまで世話になるなんて」

暮葉さんが苦笑交じりに話しかけても、虎千代はしばらく黙っていた。ここではっきりと問い質すのだろう。緊張感がこちらにも伝わってきた。

「どうかした?今日、虎千代さん、とても怖い顔をしてるけど」

「実はこれを、見てもらいたくてな」

やがて、虎千代は懐から黒姫が調べ上げてきた朽木谷一連の事件の分布図を取り出して、暮葉さんの布団の上にぽん、と広げて見せた。

「朽木谷」

その一言で反応を試すように、虎千代は暮葉さんの瞳をじっと見据えた。

「狙いは足利将軍家であろう。弟御は朽木谷に、無数の同胞(はらから)を送っておられるようじゃ。それは、そこで討ち死にした足軽たちのいわば墓標のようなもの」

暮葉さんの視線は地図上の赤い墓標にじっと注がれていた。僕はそれを、虎千代と同じように見つめていた。暮葉さんはやがて、硬い声で言った。

「なぜこれを今、わたしに?」

「童子切めの野望、よう存じておろう。これまさに天下の大逆に他なし」

一つ一つの言葉の反応を確かめるように、虎千代は吐きだした言葉を踏みしめた。

「奴の思いが呑みこんだ餌の凄まじさ、釣り上げる獲物の危険さ、それがこの図によく現れておる。無論、言うまでもない、ところかも知れぬが。童子切があまつさえ、将軍義晴の首級を上げたところで、その罪は天下の大逆人としてその係累にも及ぶのは存じておろう」

虎千代が言う、当時の犯罪の罰し方は、本人ばかりでなくその血筋にあたるもの全員に及ぶ。これを連座制と言い、最悪の場合には親類縁者関係なく、その人に関わったすべての人に罪が及んだのだ。

「どうせ罪を得るならもろとも、と弟を手伝うた気持ちは分かるが、その結果がこの無数にして無為の墓標と言うことも、心に刻むべきではないか」

暮葉さんは眉一つ動かさずに、虎千代の言葉を聴いていた。

「罪を問う気はない。知っているにしても知っていなかったにしても、足軽たちは、煉介の話に乗り、ほぼ自発的に弾正の絵図に乗ったのであろうからな。だが、これより先、流れる血は煉介のそれを含めて、誰も幸せにはすまい」

と、虎千代は強い口調で言った。

「あやつを止めたい。このまま犠牲を増やし、大逆人の汚名を引っ被ったところで、童子切煉介の行く先に道はない。確かにあやつは罪を負う道を選んだ。しかし、その目的を達していないうちならばまだ救いがある。だから、我は奴を救おうと思う。そのためにはあなたが知っていることをきちんと話してくれねば、我らとしても手の打ちようがない」

暮葉さんは色のない目をしていた。でもその無表情が、僕からみて少し引き締まった、そんな感じがした。

「わたしは・・・・・嘘は話していないつもりだったんだけど」

「だが、重大な隠し事をしている。それくらいは判る。弟御の身を案ずるなら、このまま奴をゆくだけゆかせるのか、止めた方がよいのか。あなたにも考えを聞きたい」

地図上の赤い印を見つめながら、暮葉さんは一言も発せずに虎千代の言葉を聞いていた。虎千代の声が途切れると、重たい沈黙が場を支配した。それでも虎千代は暮葉さんの言葉を待ってはいたのだろう。しかしそれが得られないことが分かると、小さく息をつき、諦めたように静かに座を立った。

「まだ時間はある。身を養いながらしばし考えてほしい。答えが出たら、ここにいる誰でもよい、必ずお知らせありたい」

暮葉さんには虎千代の思いはやっぱり届かなかったのか。

すると、

「あの二人、本当に古くからの仲間だった。それは嘘じゃない」

と、暮葉さんが言った。

「あなたが調べてくれたこの中にも、わたしたちの古い知り合いが沢山いたと思う。みんな、あの子のために殺されてしまった。あの子がしようとしていることがどれほど罪深いことなのか、これほどの血を流してまでするべきことなのか、わたしも・・・・・分からなくなってきてはいたの。だから、ちゃんと確かめたい。あの子にきちんと聞くべきだったんだ。それ、今からでも遅くはないかな」

「ああ」

と、はっきりとした声で、虎千代は頷いた。大きく息を吸って暮葉さんは言った。

「でも虎千代さん、やはり今はお話できません」

それは意を決したような言い方だった。

「この身体が治ったら必ず、わたしが直接、煉介の元へあなた方を案内します。もしか

したらあなたたちなら、あの子を止めることが出来るかもしれない。虎千代さん、わたしもあなたを信じたいです」

 暮葉さんは僕の方も見ると、ふかぶかと頭を下げた。

「本当に・・・・・ありがとう。わたしたち姉弟のこと、心配してくれて」

「礼には及ばぬ。あやつは連れ戻す。その、約束がある」

暮葉さんの言葉は真に迫って聞こえた。少なくとも、僕にとっては。だったのだが人と言うものは分からない。

その意に反してそのまま。

僕たちが気づかないほんの一瞬にその暮葉さんは姿を消してしまうことになる。それを予見してかしていなかったのか、あのとき、約束は守ると答えた虎千代の声が物堅かったのは、そのせいだったのかと僕は、後で思ったりもしたのだ。


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