煉介さんを探そう。京へ戻ると決意した僕たち、反撃を迫る凛丸たちに虎千代は・・・
「・・・・と、まあ、ここで人が集まってきちゃったので三人は逃げてくれたんだけど」
と、真菜瀬さんは軽く話をしめた。鼻を落とされそうになったのに、いつもながらこの人、なんでのんきなんだ。
「でも、すごいんだね、新兵衛さんて」
絢奈が真菜瀬さんの話を聞いて、信じられない、と言う表情で新兵衛さんを見ている。さすがに僕も驚いた。この人、最初は農夫の格好だったし、いつもにこにこしているから、本当の実力は分からなかったんだけど、やっぱり長尾家の腹心だ。
「新兵衛を侮るでないぞ。この金津新兵衛は我が剣の揺籃の師でもある。父、為景存命の折は各地を転戦し、いくさ場では立小便をしながらも八人をたやすく斬り伏せた、長尾家きっての剛の者」
「おしっこしながら八人も?」
なぜかその話で真菜瀬さんと絢奈は、あわせて眉をひそめた。
「なんかきたない・・・・・」
「え・・・・・」
虎千代は新兵衛さんのために言ったのに、女性陣の感性がおかしいせいで、なんだか残念な逸話になった。そもそも用を足している最中に襲われたと言うのは、もっとも無防備な状態で、そこから八人も斬ると言うのは、相当な凄腕のはずなのに。迫力満点の鬼小島に比べると、新兵衛さんは控え目なので、まったくイメージ出来ないけど、幼い頃に虎千代に剣の手ほどきをしたと言うことからもその腕のほどはうかがえそうだ。
「う、ううん、まあ、話を戻すか。・・・・・・しかし、最初に現れた細川の家人なる二人、後に軍勢が寄せてきたところをみると、偽者とも思えぬが、その異様な仕込み杖の男はいったい何者か」
「本人の言では、検非違使と。名を暮坪道按、夜叉髪結の道按の名が通りがよいと。恐らくは辻冠者原の崩れの放免(刑事のようなもの)にござりましょう。訊けば応仁の頃、骨皮道軒なる印地の大将が目附を名乗って権高にしておりましたならいもありますれば、その道按なるもそのようなもの、と」
「つまりは、童子切めの元、同業と言うことか。武士にみえるか、と言うたのも、その伝であろうな」
虎千代たちは、勝手に頷いている。真菜瀬さんも、納得顔だ。
「・・・・・お兄い」
つん、と、絢奈が僕を突っつく。訊きなれない言葉が出てきすぎてそろそろ話についていけなくなったのだろう。小声で、僕は絢奈に解説する。
まずは暮坪道按という男、名前も格好も奇妙だがどうやら公家だと言うことだ。辻冠者原と言うのは、役職を持たないままふらふらしている公家のこと。進学も就職もしない、いわば公家のニートだ。ちなみにこうした人たちは、中世ちまたに溢れている。
この時代、公家に生れ落ちても、農民や武士より優雅な人生を送れるとはまったく言えず、ちゃんとした伝手がなくてはまともに生活できる職につけることはまずなかった。そしてそうした人たちは路上に出て、犯罪者化するのがほとんどだったようだ。
印地の大将、と言うのはそうしたあぶれ者たちのまとめ役のことだ。不良グループのリーダーと言うと、ちょっと話が軽くなるけど、近い部分はある。仕事にあぶれた人をまとめて、どこかへ駆り出すという点に注目すれば、または日雇いの人足寄場の元締めを想像してもいい。
応仁の乱の頃から武士たちがいくさをするのに自前の兵では足りず、京都に着いてからの現地調達を行った。印地はその人数動員を請け負うことを生業とすることで、武士たちのいくさの下請をするとともに、失業者であふれる都の雇用の受け皿にもなった。傭兵足軽が活躍する当時の京都は、こうした事情を背景に生まれたと考えると、分かりやすい。
そして権力と武力をもった印地たちは、それを背景に正式な地位を買ったのだ。骨皮道軒が目附の役割を細川家から買っていたのもそう言う事情による。
戦国大名たちが朝廷に寄進して官位を買っていたのと同じで、どんな身分であっても事情を通せば、売官してくれるのがこの世の中だ。
暮坪道按もそうして、足軽から検非違使を名乗るようになったと考えていいだろう。その口ぶりでは面識はないようだったが、煉介さんや凛丸のことは知っているみたいだし、その点では実に油断ならない。
「で、この件は童子切めには話したのか?」
「うん、あのあと、ふらっ、と帰ってきたから話したんだけどね」
ああ、その件なら問題ない、と、煉介さんは軽く言ったのだという。
「あれで何事もなかったから、正直、安心してたんだ。煉介が言うには人市は非合法なものだったみたいだし、弾正さんが処理してくれたからあの件は不問になったんだって。でもあんなこと起きちゃったでしょ。凛丸は殺されそうになったし、わたしも不安になっちゃったからさ」
とりあえず一発、煉介さんを殴ったらしい。それはそうだ。いくら深刻さが足りない真菜瀬さんとは言え、店先で刃物を振り回されるような事態になって不安にならないはずはない。煉介さんもさすがにそれで謝ったと言う。
「迷惑掛けて、本当に済まなかったよ。まさか、予想できなくってさ。すぐに弾正さんに掛け合ってくる、そう言って出て行ったんだけど」
「やつめ、そのまま行き方知れずか」
あの戦火の中では、仕方がないが。無事、なのだろうか。
「ともかく、わしらはくちなは屋の皆さんに急を伝えられてようございました」
「しかし新兵衛、お前もよう折りよく居合わせたな」
「細川家がいよいよいくさ支度を整えておること、最前からこのえより報告を受けてござりましたのでその件、お話いたそうと思いまして。そこで、細川家の家人どもがくちなは屋で立ち騒いでおったのでこれはすわ大事かと」
「ほう、やはりいくさを予想したは、このえであったか」
と、虎千代が言ったのでまた驚いた。
えっ、いくらしっかりしているとは言え、このちっちゃい子が?
「このえは新兵衛様はじめちちうえの滞在費用、軍役一切などのやりくりを任せられておりまするゆえこれしきのことは。矢銭(軍資金のこと)の貸付運用の具合や兵糧の買いつけ、物の具売りどもの動きなど、市場の様子や相場を見ていれば、自然といくさの機には目がゆきまする」
難しい単語をすらすらと、でも相変わらず舌足らずな口調で、このえが言う。自分とまったく違う方向性の娘が自慢らしく、鬼小島はこっちでもでれでれだ。
「へへへっ、いくさのやりくりに関しちゃあ、うちの自慢の娘ですから」
「このえちゃん、絢奈よりしっかりしてるね!」
しっかりしてるの範囲を超えてると思うが。兵站輸送や現地での調達、軍資金の運用まで出来る時点で、末恐ろしいにもほどがある。流行の天才子役ってこんな感じか。
「・・・・・景虎様が合力いたす三好家は、畿内では分が悪く、人数も矢銭も集まりが悪いそうでござりまする。当主、孫次郎範長(長慶)、各地に兵を率いて転戦いたすいくさ上手なれども、馴れぬ土地柄にて募兵容易にあたわず、腹心として京を守る松永殿も、大分ご苦心の様子」
「ああ、それはこのえから訊いている。・・・・・恐らく、それゆえ容易に素性知れぬ足軽を容れるのであろうしな」
虎千代は乾いた声で、言った。
「細川方が弾正の力を殺ぐべく、足軽狩りに精を出すは必定の流れなれど、童子切殿にはひとかたならぬ恩義これあれば、景虎様が肩入れするも仕方なしと存じてはおりまする。されど、深入りは危険でござりまするぞ」
「心得ている。だが事情が詳らかになく童子切めが戻らぬことには、これまでの恩も返せぬではないか。ともかくまずすることは一つであろう」
と、虎千代は言葉を切ると、僕たちを見渡した。
「煉介を探す」
そして虎千代は、真菜瀬さんに向かって言った。
「とりあえずはここを拠点に、折を見て京洛にも足を伸ばすしかあるまい。弾正めに合力いたすは別儀の話としてもな」
「ありがとね、虎ちゃん。実家の越後のこととか色々大変なのに、煉介のことまで心配してもらって」
「礼を言われることではない。お前らには借りがあるし、これからも世話にならねばならぬことも多い」
「うん、そのへんは任せてよ。くちなは屋別館みずち屋で、うちの足軽どもも虎ちゃんのご家来衆もまとめて面倒見るから。虎ちゃん・・・・・あ、そうだ本当は景虎様だよね。みんなのことは、とりあえず心配ないからさ」
「と、虎千代で構わぬ。もともと、景虎は武張っていて我に馴染まぬゆえ」
「そっか。うん、なんか虎ちゃんは虎ちゃんって感じだもんね」
真菜瀬さんの中ではやっぱりそんな感じなんだろう。メイド服とか着せてたし。真菜瀬さんはもう一度ありがとう虎ちゃん、と言うと、本当に嬉しそうに微笑んだ。
「ううん、やっぱり虎っちは虎っちがいいよ。絢奈もこのまま虎っちって呼んでいい?」
「あ、ああ・・・・それもまあ、構わぬが」
「うんっ、長尾景虎より虎っちのがやっぱ、かわいいよ!虎っちありがとー」
絢奈はなんの躊躇もなく虎千代に抱きつく。何だかんだ言ってこの二人は、やけに仲がいいのだ。
「滞在時の費用は、このえにお任せください。ことが落着して姫さまが越後に戻られるとあらば、このえも尽力は惜しみましぇぬゆえ」
「その儀も別儀じゃ。越後には戻らぬとさっきから、申しておろうが」
「あう・・・・あの、姫さま、このえは寂しゅうござりまする」
べそをかきそうなこのえの横で絢奈は、にやにやしている。
「あっあー、虎っちやることあるもんね」
「う、うむ。それも後で話さねばならぬな」
虎千代と絢奈は意味ありげに顔を見合わせている。一体何を企んでいると言うんだ。
「なんでござりまするか?このえにもとっくりお話くだされ」
「女子同士の話じゃ。お前はまだ早い」
「ううーっ、姫さまは、なにゆえこのえだけ仲間はずれにしましゅるか」
このえは大きな目に涙を溜めて、短い手足をばたつかせる。まさかこんな子が、長尾家の軍事の裏方を担っていきつつある存在だとは、誰も思わないだろうな。
なんだか和やかになりだした女性陣を眺めていると、
「遅い夕餉の最中、失礼する」
と、戸障子を閉めた向こうから高声が上がった。立ち上がりかけた鬼小島と新兵衛さんを、虎千代は視線で制し、
「問題ない。入れ」
すっ、と障子が開いた。
そこにいるのは、やはり凛丸と七蔵さんだった。武装を解いてきたのかと思いきや、二人はいくさの汚れを落としてきたとは言え、鎧姿のままだ。
「まずは重ね重ね、礼を言う。金津殿には危ういところを助けられた」
「ことの次第は、新兵衛から聞いた」
と、虎千代は言うと二人に座を勧めた。
「頼みごとがあると申したは、何事か」
「ああ、そのことなのだが」
意気込んで凛丸が言う。
「とりあえず、明日の未明をめどに、もう一度集結して細川勢にひと当てしたい」
「反撃か」
虎千代はさっきの腹蔵の読みがたい無表情に戻った。
「下京から逃げてきた足軽どもには声をかけてある。朝暗いうちに駆けて退き陣の最中を狙って細川勢を叩きたい。ぜひとも長尾殿にも兵を出して頂きたい」
二人は指を突いて、平伏した。
「悪いが、断る」
短くでもきっぱりと、虎千代は言った。
「な、なぜだっ」
「やめておいた方がよい。まずは無駄に人死にを出すことになる」
「馬鹿な。越後の龍、長尾景虎ほどの剛の者が臆したかっ!」
じろり、と虎千代は凛丸を見る。その視線にはあの、底冷えするような殺気とも言いがたい迫力があった。でも虎千代はすぐに目を伏せて、
「今の我が名は、景虎にあらず。それに、いかな剛の者とて武士ならば、無意味と判るいくさに人を駆り立てる真似はせぬ」
「無意味とはなんだっ」
「待ってくれよ。おれらにだって意地もメンツもあるんだ。お頭だってどうなったかわからねえ今、仲間の敵を討てんのは俺らしかねえだろ」
逸る凛丸を止めて訴える七蔵さんにも、虎千代の声は冷静だった。
「お頭がどうなったか判らずばその安否を待つが、お前らの役目ではないのか。血気に逸って無駄死にすれば、それこそ一味もろともむなしくなるのだ。煉介は早晩、我らが連れ戻す。それまで足軽衆のことは、お前らに任せるゆえ軽率な真似は考え直すことだ」
「これほど頼んでもだめかっ」
「ああ、結論は変わらぬ」
有無を言わさない虎千代の言葉だ。たった半日で下京にいる足軽たちが散らされてしまったところを見ても実際、兵力の差はかなり過大なものだろう。素人の僕が考えても、勝ち目があるとは思えない。
「・・・・・やはりだ」
堪えかねたように凛丸が言ったのはそのときだった。
「お前なぞに私の気持ちは分からぬ。・・・・・・分かるわけがないのだ」
虎千代はさっきと同じ表情で、凛丸の顔を見つめている。ずっと無言だ。
「お前ら、私たちにどんなことをしたのか、よく分かって物を言ってるつもりなのか。そもそもが、お前らが一味に入ったからこのようなことになったのではないか」
それでも虎千代は黙っている。
「なんとか言わぬかっ、貴様っ」
ここまで詰め寄られても、虎千代は凛丸を見つめたまま一言も発しなかった。それが余計に癇に障ったのだろう、凛丸の声は高くなる。
「私は、反対したんだ!そもそも、ソラゴトビトなどを匿ったりしなければ、お頭が罪人扱いされることなどなかった!お前のような物の怪まがいを身の内に抱えなければ、お頭があまつさえ朝敵扱いされることなどついぞなかったっ!すべてはどこから来たのかも分からない、お前たちのせいだ。お前たちが」
「凛丸っ」
そのときだ。
だん、と、床を叩いて感情を露わにしたのは、真菜瀬さんだった。
「あんた、これ以上は本当いい加減にしな。今さらそんなこと言うなんて、一番、男らしくないぞ」
真菜瀬さんの声はいつもと違って、静かだが厳しく強かった。
「これは煉介が自分で選んだことなんだ。煉介にその身を預けたんなら、あんたはそれに従うと決めたはずだし、その結果起こったことを誰のせいにも出来ないはずなんだよ。違うの?」
凛丸は真菜瀬さんの問いに、答える言葉を持たなかった。
「それに、あんたは虎ちゃんに命を助けられたんだ。自分でも認めたでしょ。あのとき、新兵衛さんがいなかったらわたしもあんたも今頃、こんなところでのんびりなんてしてられない。えらそうに、自分たちのメンツがどうしたこうした、なんて語ってる余裕なんかないんだよ。あんたがそうやって粋がってられるのは虎ちゃんのお陰なんだ。だからこれ以上、虎ちゃんの気持ちを踏みにじるつもりなら、今度はわたしが容赦しないよ」
その声には強い怒りさえ潜んでいた。この人がこんな声を出すのを、僕は初めて聞いた。
いっつも一番、深刻さが足りない感じなのに。煉介さんにもそうだったように、きちんと言うときは言うのだ。思いがけない真菜瀬さんの剣幕に凛丸も七蔵さんも、鬼小島ですらたじろいでいた。さすがって言うか、やっぱり怖かった。
「これだけ言ってもあんたたちが戦いたいって言うなら、好きにすればいい。でもね、虎ちゃんを巻き込まないでやること。いい?」
それに、と、真菜瀬さんは言った。
「凛丸、あんたは虎ちゃんが言ったことを忘れない。ちゃんとお頭が戻ってくるまで、きちんと足軽ども率いて生きてなきゃだめだからね。わたしから言えるのは、それだけ。とにかく、無茶はしないこと。分かった?」
「・・・・・ふん」
それでもなお、不満が胸にわだかまったようだが凛丸はそれ以上、虎千代に詰め寄ることはなかった。
「とめても無駄だ。私たちは出るぞ。明日、すでに人数は集まっている」
結局、捨て台詞を残して、凛丸たちは去った。
「・・・・・ごめんね、虎ちゃん」
真菜瀬さんは本当にすまなそうに言った。
「マコトくんも絢奈ちゃんも。凛丸が言ったことは気にしないで。わたしも煉介も最初からみんなのこと迷惑だなんて思ってないし、そもそもこれは煉介の問題なんだから」
うう、でもだ。確かに、今の煉介さんのことは僕たちが原因で起こっているのだと思うと、凛丸の気持ちだって分からなくもない。僕たちのせいで煉介さんが罪人扱いされているのだ。どうしても、いたたまれない気分もあった。
「さて、と。あいつら、あのままにしちゃおけねえな」
さすが鬼小島が首の骨を鳴らしながら、ゆっくりと立ち上がった。
「すまぬな、弥太。凛丸たちのこと、よしなに頼んでよいか」
「分かってますよ。あれだけ、お嬢に無礼な口を利いたんだ。今から奴らのたまり場にカチ込んでひとり残らずぶちのめしてきます」
えっ? 冗談でなく、鬼小島が岩石のような拳をごきごき固めだしたので虎千代だけじゃない、その場にいる誰もが目を丸くした。今の話の流れ、ちゃんと聞いてたんだよね?
「弥太・・・・お前、何をしにゆく気だ」
「え? だからあいつらに、本来ならお嬢のような高貴なお方と、口も利けねえクソみてえな身の程だってことを身体で分からせてやろうと・・・・・・」
「ちちうえっ」
このえが小さな身体で鬼小島の肩に飛びついて、何やらこしょこしょ耳打ちする。すると鬼小島はみるみる顔を赤くして、
「あ、いや、これはその、お嬢・・・・・・ははははっ、分かってますって。おっ、お、お嬢の大切なお友達が心配だなあ・・・・・明日はせいぜい、奴らがくたばらねえように俺と力士衆がちゃんとしんがりを引き受けますって」
「く、くれぐれも、頼んだぞ、弥太」
虎千代の顔は心なしか、引き攣っている。
無意味な爆笑でごまかそうとする鬼小島は、限りなく空々しかった。
凛丸たちに合わせたのか虎千代は、明朝出発すると僕に告げた。
戦闘地帯の京都で、煉介さんを探す。
これって結構無謀だよな。正直言うとなんの手がかりもないわけだし。
「マコトくん、ちょっと話があるんだけど」
と、真菜瀬さんは僕の手を引くと、何かを手渡した。見るとそれは袱紗の包みを紐で結わえてある、お守り大の大きさの巾着だった。
「これ・・・・・お守りですか?」
「うーんと、そう言うのじゃなくてもしかしたら、ちょっとした助けになってくれるかも、なんだけど」
僕の掌の上のそれを、意味ありげにいじくると真菜瀬さんは言った。
「ともかく何か困ったらこれを持って、六条河原に行ってみて。そこに行くまでは、絶対にこれ、中身を開けちゃだめだよ。すごく、大切なものだから」
ええええっ? そう言われると、めちゃくちゃ気になる。真菜瀬さんはその紐を引っ張ると、ペンダントみたいにして僕の首にかけ、中身を袂の中に隠した。
「ほら、ご神体って中を見ちゃうと御利益が薄れるものだし」
「お守りじゃないんですよね、本当にこれ・・・・・」
寝室を案内されたので行ってみると、廊下で虎千代と新兵衛さんも話しこんでいる。
「下京に着きましたら、明日はこの場所に。手配の軒猿衆を待機させておりまする」
「分かった。こちらのことはよろしく頼むぞ」
「真人殿、明日は景虎様と二人で行っていただきまする。景虎様、先ほどの追手の件もござりまするゆえ。目立つ行動は避け、くれぐれもご配慮くだされ」
「ああ、心得ている」
そうだ。虎千代は国元からの暗殺者に狙われているのだった。僕と二人だけで果たして本当に大丈夫なんだろうか。
「ああ、そうそう、うっかりこれを申すの忘れておりました」
新兵衛さんは僕の手を握ると、なぜか僕に向かってはこう言い聞かせた。
「若い二人ゆえ、道中間違いのないようによろしく頼みますぞ。景虎様が戻るより先に世継が出来ても困りまするので」
「はあ・・・世継って・・ええっ?」
この人は非常時に、何を心配してるんだろう。
とりあえず明日はたぶんすごく早くなるので、もう寝よう。僕は寝室の木戸を開けた。するとすす、と虎千代がなぜか僕の後に続こうと。
「あの・・・・・ここ、僕の寝室なんだけど」
部屋には床が延べられているが、枕は一つだ。でもよく見ると、寝間着の虎千代は自分の枕を抱え込んでいる。
「もしかして、一緒に寝る気じゃないよね」
訊ねると、うう、と、虎千代は自分の枕を抱えながら、もじもじしている。さっきまでの堂々とした口調はなりをひそめ、言いにくそうに、何を話し出すかと思っていたら。
「・・・・・じ、実は、絢奈から聞いたのだが、こ、この旅館、大分古いようなのだ」
「う、うん。そうなんだ」
しばらく考えてから、僕は訊いてみた。
「・・・・・もしかして虎千代、お化けが怖いとかそう言う話じゃないよね?」
「なっ、なぜ分かったかっ」
絢奈め。また虎千代に、余計なこと吹きこんだな。それにしてもベタな。
「正直、虎千代、お化け怖くないでしょ」
「う・・・・・」
どんな強烈な悪霊が現れても、虎千代はたぶん眉ひとつ動かさないと思う。
「な、なれば・・・・」
「雷は鳴ってないし、虎千代、雷も怖くないだろ?」
図星過ぎたのか、虎千代は目を白黒させている。そりゃそうだ。戦国最強の軍神にとって、亡霊は斬り祓うべき魔だし、雷の晩は絶好の奇襲の機会に過ぎないはずだ。むしろ、大好物だったりする可能性すらある。
「あ、ううう・・・・じゃ、じゃあ、どうしてもだめか?」
う、上目遣いで見るなよ。ただでさえ、一緒に寝ようと言われてこっちはどぎまぎしてるのに。
「どう考えてもまずいだろ。布団は一つしかないし、一緒に寝るってことは」
「う、うむ。不慣れだが、わたしが伽を」
最後まで言わなくてもいいのに。
「まずいだろ。もし、もし、だけど・・・・間違って、その、出来るものが出来ちゃったらさ」
「そっ、そのときは、長尾の家にっ」
「それがまずいんだってっ」
上杉謙信には正統の跡継ぎがいなかったはずだ。そこでお姉さんの子供の景勝と北条家から迎えた景虎(あの川越の野戦の猛将、北条氏康の子だ)の二人が後継者を巡って争いになった。御館の乱と言うのがそれに当たるのだが、もし何かの間違いで虎千代にも子供が出来たりなんかしちゃったら、後継者問題は収拾がつかないことになりそうだ。
大体、上杉謙信が虎千代みたいな美少女だったって言うことだけでも驚いているのに。その上、虎千代と間違いがあったりなんかしたら、歴史の歯車を完全に狂わせることになりかねない。よく過去にタイムスリップしてしまってその時代の人と関係を持っちゃったり、まかり間違って結婚しちゃったりって言う展開をフィクションなんかで見た憶えあるけど。自分がなってみるとこれほど恐ろしいことはないと痛感する。
名もない人ならまだいいかも知れないけど、相手は上杉謙信だ。そもそも謙信の行動しだいで、これから江戸期も通じて数百年に及ぶ上杉家の歴史とそれに関わる膨大な関係者たちの人生を左右するとなると、これほど重たい恋愛はない。
だから僕としては、本能がどれだけ身体を傾けようが腰から下が別の意見を言おうが、虎千代の方へ転ぶわけにはいかないわけで。
「あっ、姫さま。なにをしておいででごじゃりまするか?」
僕と虎千代が押し問答していると、折のいいところに来たのは絢奈とこのえだ。絢奈はともかくこのえは、僕と虎千代の仲については反対しているようだし。よし。
「明日も早いし、そろそろ寝なくちゃだろ。虎千代、お姫様なんだからちゃんと、自分の寝室に戻れよ」
と、僕がこのえに聞こえるように言うと、
「そうでごじゃりまするぞ。姫さま、とくとく寝所へ渡らせませ。今宵はちちうえが寝ずの番をなしゃれると申しておりましたゆえ、安心してお眠りくだしゃれ。このえも絢奈殿と、姫さまに添いましゅるぞ」
事情を知らないこのえは、短い手足をぱたぱたさせて虎千代に抱きつく。良かった。
「ほ、ほら、絢奈そう言うわけだからさ。虎千代、さっさと連れてってくれ」
ぽん、と、僕が虎千代の肩を押すと、絢奈はまずったなと言う顔をした。
「えっ、お兄い。いいの、虎っち連れて行っちゃって」
「女は女同士で寝る。ほら」
「あ・・・・うう・・・・絢奈」
虎千代は涙目で絢奈に救いを求めたが、さすがにこのえの前で夜這いを公認するわけにはいかないだろう。絢奈もさすがに観念したようだ。
「まー、しょうがないか。明日から虎っちとお兄い、二人っきりだからなあ。まだチャンスはある!」
「そ、そうか・・・・」
絢奈が虎千代を慰めている。まったく、なんでこいつ、積極的に虎千代をけしかけるんだろう。ようやく一人になれたけど明日以降が心配だった。うう、この調子で迫られると、僕の神経が崩壊しそう。
とは言えさすがに、この事態だ。虎千代も京都に着けば、真面目にやるだろう。そして、煉介さんも見つかれば、これからのことだって何とかなる。
僕はどこか、楽観的に考えていた。
物事のみちゆきが漠然としているのに、そんな風に考えることは本来、不自然なはずなのにそう思っていたのはなぜだろう。煉介さんが無事でないはずないと思っていたからか。そしてあの、楽観的な煉介さんがけろっと帰ってくれば、くちなは屋も、これまでの生活も元通りになるだろうと簡単に考えていたからか。
でもよく考えれば、そんなことはありえないことだったのだ。
実際、そこまでの僕は甘かった。虎千代の長尾家の話や細川家と三好家の相克、果ては足軽たちの争いを目の当たりにしておきながら、どこかで僕はそれを他人事として捉えていた。目の前で展開する、戦国絵巻の物語の一部。知っていても知らなくても結局は、現代の自分と関わりの薄い、ただ通り過ぎていくだけの過去の一部。
でも、それは違った。そこには無数の人間の思惑が絡みこまれていたし、時代はそのすべてを呑みこんでゆっくりと、でも確実に動いていたのだ。虎千代の、僕の、そして言うまでもなく煉介さんの運命も複雑に織り込んで。
このとき僕は煉介さんがどうして僕たちの前から消えたのか、真剣に考えてはいなかった。あのとき、煉介さんを狙って、どうして追っ手が掛かったのかも。ただ何となく煉介さんが弾正の組下にいるからだと思っていた。しかしことはそんなに単純なものじゃなかった。虎千代は別としても、深くは考えなかった僕にはまだ判らなかっただけだ。そして僕は、知らないままにふらふらと足を踏み入れようとしていたのだ。
僕は、もう、激動の戦国動乱のただ中に呑みこまれていた。




