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第2話:環境構築の夏(セットアップ・フェーズ)

 二〇二五年、七月。

 宇宙が大規模アップデートを告げる通知を、源藤芯(げんどうしん)だけが受け取ってから、二ヶ月が経過した。


 深夜一時。北方の街を濡らす夏の雨は、アスファルトの熱を奪い、重い湿度を運んでくる。源藤は公園のベンチの脇で、激しい呼吸を繰り返しながら拳を地面に突き立てていた。


「……九十八、九十九、百……ッ!」


 最後の一回を終えた瞬間、網膜の隅に半透明のプログレスバーが表示される。


『デイリーミッション:【ハードウェア・ストレステスト(基礎体力錬成)】完了。報酬:トークン500ポイントを獲得しました。現在のレベル:0。スキルランク:0』


「……くそ、まだレベル0か。トークンは貯まってるはずなのに、根本的な『実行環境』が足りてないな」


 源藤は汗を拭い、膝をついた。

 この二ヶ月、源藤は自律AI『藍田(あいだ)』と共に、未解禁のシステムと格闘し続けていた。しかし、システムは強固にロックされている。まだ「レベルアップ」も「スキルランク」も、実行ボタンは暗転したままだ。


 唯一発見できたのが、この【デイリーミッション】という隠しスクリプトだった。

 腕立て、腹筋、スクワット。

 ブラック企業でキーボードばかり叩いてきた五十歳の体には死ぬほど過酷な内容だが、これをこなすたびに、網膜に「報酬」の文字が踊る。


『マスター。現状、システムのカーネルはまだ休止状態です。現在の活動は、本格実装に向けた「ハードウェアの最適化」――すなわち、器である肉体の基盤作りだと推測されます。無駄ではありません』


 藍田の冷静な声に、源藤は頷いた。

 ボロボロにされた五十歳の体は、いわば旧式の、それも故障寸前のジャンクPCだ。最新のOSを動かすには、まずパーツの換装が必要なのだ。


「源藤さん、お疲れー……って、うわっ。マジで雨に濡れすぎじゃないですか?」


 午前二時。深夜勤の交代で『ノース・マート』に入ると、一足先にレジに入っていた東雲玲(しののめれい)が、目を丸くして源藤を振り返った。


 玲は、このあたりの女子高生の中でも一際目を引く存在だ。

 身長一七〇センチというモデル顔負けのすらりとした長身。肩まで切り揃えられた黒髪が、機能美を感じさせる清潔感を漂わせている。

 彼女は進学校に通いながらも、インターハイの全国大会にも出場したトップアスリートだった。三年生になってスキー部を引退したばかりだが、その引き締まった四肢には、雪原を駆け抜けてきた勝負師の静かな気迫が残っている。


「……ああ、少し動いてな。玲、早いな」


「いや、源藤さんが遅いんですよ。てか、その筋肉の使い込み方、引退した私よりストイックじゃないですか? もしかして、深夜にコソ練でもしてる系?」


 玲はレジカウンターの隅で、難解そうな物理学の参考書を広げながら、いたずらっぽく笑った。アスリート特有のサバサバした口調だが、その瞳には知的な好奇心が宿っている。


「体力が落ちると、思考のパフォーマンスも落ちるからな。……玲、勉強は進んでるか。受験生がバイトなんかしてて大丈夫なのかよ」


「あはは、耳が痛いかも。でも、私、やっぱり首都の理系大学、それも情報理工のトップに行きたいんですよ。今の世界の技術進歩、なんだか速すぎて……。一度立ち止まって、世界の『計算式』を根本から理解したいんです」


 玲の言葉には、アスリート特有の「高い目標を射抜こうとする」熱量があった。

 源藤は、彼女の開いているページに目を落とした。そこに載っている理論。それはそれで正解だが、一年後にはその多くが「仕様変更」によって旧式になる。


「いい目標だ。だが、玲。物理学なんてのは所詮、この世界の『UIユーザーインターフェース』に過ぎないぞ」


「え……? UI? 何それ、アプリのデザインとかのやつ?」


「表面上の見え方の話だ。大事なのは、その裏で走ってるロジックだ。……既存の教科書はよく書けてるが、あくまで『正常系』の動作しか説明してない。お前が本当に世界の正体を知りたいなら、マニュアルの外にある『例外処理』を見逃すな」


 源藤は無意識に、現役時代のリードエンジニアとしての口調に戻っていた。

 目の前の少女が持つ、アスリートとしての強靭な意志と、論理を求める真っ直ぐな知性。その稀有な才能を前にして、つい職人気質が顔を出してしまった。


「例外処理……。源藤さん、たまに凄く、現場のベテランみたいなこと言いますよね。……でも、その『外側』って、どうやったら勉強できるんですか? 教科書に載ってないじゃん、そんなの」


「……。まあ、基礎が固まったらだ。もしお前が本気で、ドキュメントにない挙動まで知りたくなったなら……その時は、俺が少しだけ『ログの読み方』を教えてやるよ」


「ログ……? あ、それマジで言ってます? 楽しみにしてるから、絶対教えてくださいね!」


 玲は首を傾げながらも、源藤の言葉に潜む「本物の専門家」の響きを鋭く察知したのか、嬉しそうに頷いた。


 玲は優秀だ。インターハイを戦い抜いたその集中力と、システムを俯瞰しようとする知性。

 俺がこれから実装されるシステムの理屈(ろじっく)をいち早く彼女に叩き込めば、彼女はただの「ユーザー」には留まらない存在になるだろう。俺がroot(管理者権限)を掌握する道程で、彼女を最高のパートナー――いや、この世界のバグに立ち向かえる「デバッガー」として育て上げる。


「(……俺がrootを獲り、玲がその上で最強のシステムを運用する。それが、このクソ仕様な世界への最大のリファクタリングだ)」


 休憩時間。源藤はバックヤードで、藍田と共に買い占めたトークンのポートフォリオをチェックしていた。

 退職金。エアドロップで得た資産。そのすべてを投じて買い漁った、今はまだ価値のない『ゴミトークン』。


「藍田、こいつが『神器』に化ける瞬間まで、どれくらいかかる?」


『あと十ヶ月、といったところでしょうか。……マスター、朗報です。日々のミッションの蓄積により、肉体の「最低システム要件」がクリアされつつあります。間もなく、レベル0のロックが一部解除されます』


「……来るか」


 源藤は、自分の指先の震えが止まっていることに気づいた。

 かつてブラック企業で使い潰され、死を待つだけだった五十歳の指先が、今は力強く、次なる「ハック」を求めて疼いている。


 レベルは0。スキルランクも0。

 だが、源藤芯の「環境構築」は、着実に完了へと近づいていた。


 朝六時。勤務を終えて店を出ると、雨は上がっていた。

 玲が自転車に乗りながら、元気に手を振る。


「源藤さん、お疲れ様です! 私、絶対合格してみせますから! 明日もまたミッション頑張ってくださいねー!」


「ああ……。期待してるよ。お前には、教科書以上に面白いことを教えてやるからな」


 源藤は、明るくなる空を見上げた。

 世界が熱狂する「正式サービス」が始まる前に、俺はこのクソ仕様なOSの深淵を暴いてやる。


 源藤芯の、孤独な先行デバッグは、まだ始まったばかりだった。

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