第十七話 君の名は~町人として生きる覚悟~
山東京伝の代筆を申し出た興邦くんは悩んでいた。
実語教幼稚講釈という作品を代筆した後から特に悩みが深まったらしい。
というのも彼の作品の評判は上々で、蔦谷重三郎の手代に推薦するという話が持ち上がったからだ。
武士の身分で手代になる。武家の立場としては落ちぶれたと思われそうだが、戯作者として名を上げるには千載一遇のチャンスだった。
「信乃、私も戯作者として名を上げたい。だから山東京伝師匠の申し出を受けようか迷っているのだ」
以前は高学歴ニートなどと俺も評していたが着々と力をつけていく彼にもうそんな目を向けることはできない。
「父や兄から譲り受けた瀧澤家当主としての誇りを捨てたわけではない」
だが夢があるのだと続ける。
「もはや家を守ると言っても意味はないのかもしれないが」
難しい話になっていく。
「うーむ、武家の誇りというのはわからなくもないのじゃ。じゃが、蔦屋重三郎の手代になれば作者としての知名度は上がるというものじゃ」
のじゃロリさまがこんがらがった話をまとめてくれる。
ついでに手代って何かわからないので俺にはどういう話かさっぱりだ。
「手代は丁稚よりは立場が上じゃ。番頭ほど偉くはないがの」
つまり商家の下につくということか。
なるほど。つまり出向とかそういう感じかな。
フリーランスでいるよりははるかに待遇はよくなるということだろう。
だったら断る理由なんてないじゃないか。
「信乃の場合、元が正体不肖だから問題はないのじゃが」
いわれのある生まれだと何かと苦労するということだ。
「出世街道まっしぐらってことじゃん」
「戯作者としてはな」
脳内彼女ののじゃロリさまの説明のおかげでよく理解できた。
そのまま興邦くんの悩みに耳を傾けていると。
「このまま影武者として生涯尽くすつもりはない。私は文筆家として対等に切磋琢磨創作したいのだ」
山東京伝師匠は筆を置いたが徐々に作品を書き上げるようになった。同時に書画会を両国で開催し、収益を上げていた。
絵の才能がある彼らしい。もとは挿絵から始めた人だから、得意なことで自信を取り戻そうとしていたのだろう。
「こういう時は書を捨て町へ出よう」
悩む男興邦くんの手を引き、深川の町へと歩き出す。
洪水で住んでいた長屋は流されたが思い入れがある。
「しかし長屋暮らしも随分遠い昔のことになったな」
江戸の町は災害が多い。火事と喧嘩は江戸の花なんていうが、水害も多かった。
特に下町は低地にあり、ひとたび隅田川が氾濫すればすべてが川に飲み込まれた。
だが水害から時間もたち、木場では復興のための資材が運び出されていた。
「昔はものを思わざりけりってやつだな」
「小倉百人一首か」
茶屋で甘味を頼んでぼんやりと外を眺める。
深川の町は元の華やかな空気を取り戻し、人でごった返している。
「あら戯作者先生、お久しぶりね」
声をかけてきたのは以前住んでいた長屋の大家さんだった。妙齢の女性で結構濃い化粧をしている。
「長屋からいなくなってしまって寂しい思いをしたのよ。今は仕事はどうなのかしら」
「今は創作一本だ」
だが蔦屋重三郎の手代になることを迷っている。そう告げると彼女はコロコロ笑った。
「あら夢が叶ったのに浮かない顔ね。私はそろそろ大家を引退しようか迷っているのよ。馴染の店子もみんな引っ越してしまってね」
だけど生きているうちは食い扶持を稼ぐ必要がある。
死ぬまで続けるつもりだと笑う。
「もし仮にだけれど、その気があったら大家の仕事手伝うっていうなら大歓迎よ」
あの長屋にいるからと告げられる。
ありがたい申し出だがすぐにうなずけなかった。
「また困ったらご相談させてください」
俺の言葉に大家さんは待っているとだけ言った。
彼女も苦労しているのだろう。
不動産経営は今も昔も大変だ。
「信乃、私はいつでも退路を断つつもりで生きてきた」
興邦くんがぽつりとつぶやく。
「今回ばかりは本当に武家としての人生を捨てるということだ」
以前山東京伝師匠に言われた。家という後ろ盾がある人間に覚悟ができるのかと。
今同じ局面に立たされている。
そして興邦くんの出した結論は。
「私は町人として生きることを決めた。武家としての誇りを捨てたわけではない。ただ父より譲り受けた名前はこれから先捨てよう。新たに瑣吉と名乗ることにした」
誇りを捨てたのではなく、新たに戯作者として出発することを決意したようだ。
「俺も負けていられないな」
そして俺たちは山東京伝の屋敷を出て、蔦屋重三郎の店を手伝うこととなった。
「しかしいきなり商家の手代とは、何かもめそうな予感がするのじゃ」
のじゃロリさまがぼそりと呟く。
「元からいる番頭さんとは仲良くするのじゃ」
俺は以前蔦屋重三郎の店の手伝いをしていたから多少顔見知りではあるが、興邦くんはどうだろう。
彼の性格からしてまた一波乱ありそうだ。
「案ずるより産むがやすしだよ」
俺がそう返すとのじゃロリさまは小さく笑った。
「ずっと暗い生活が続いたから信乃が楽しそうで安心したのじゃ」
山東京伝の推薦はありがたい。
それは彼が俺たちを認めてくれて次のステージへと導いてくれるということでもあったからだ。




