35 透けていくシズカ
一九八二年、冬。
寿ハイツ二〇三号室。
深夜。
部屋にはカップ麺の匂いと煙草の煙が漂っていた。
机には大量の原稿。
民俗学資料。
地方伝承。
メモ。
そして。
「のだぁ……」
小野田レイは死んだ顔で原稿を書いていた。
締切前。
完全に修羅場である。
「海神信仰と共同体圧力……のだぁ……」
ガリガリ書く。
「口減らしと土着信仰を混ぜるのだっ♡」
最近、民俗学知識を仕入れたせいで、レイの怪談はさらに変な方向へ進化していた。
「読者を眠れなくするのだぁ……」
なお。
本人が一番怖がりである。
一方。
部屋の隅。
小さなテレビ。
そこでは古い青春映画が流れていた。
シズカはその前に座っていた。
「…………」
静かに。
本当に静かに。
映画を見ている。
夕焼け。
学生たち。
笑い声。
海辺。
恋愛。
昭和青春映画だった。
レイはペンを動かしながら横目で見る。
「のだぁ?」
「…………」
シズカは映画に夢中だった。
最近。
映画を見るのが好きになっていた。
病院にいた頃には知らなかったもの。
色。
音楽。
青春。
全部新鮮だった。
「…………」
そして。
レイはふと気づいた。
「……のだ?」
シズカ。
少し薄い。
なんか。
透けてる。
「のだぁ?」
レイはペンを止めた。
「シズカぁ?」
「……なに……?」
振り返る。
笑う。
だが。
輪郭がぼやけていた。
薄い。
前より。
「のだ」
レイの顔色が変わる。
「……お主」
「……?」
「なんか薄くないのだぁ?」
「…………」
シズカは少し自分の手を見た。
透けている。
確かに。
「…………」
「……ほんとだ……」
「のだぁ!?」
レイ、椅子から転げ落ちる。
「なんでなのだぁ!?」
シズカは少し困った顔をした。
「……分かんない……」
だが。
なんとなく。
分かる気もしていた。
病院。
孤独。
恐怖。
未練。
それだけだった頃。
シズカは強かった。
でも今。
映画を見る。
外へ行く。
笑う。
名前がある。
少し楽しい。
「…………」
シズカはテレビを見る。
青春映画のラスト。
主人公たちが笑っている。
「……満足してるのかも……」
「のだぁ?」
「……ちょっとだけ……楽しかったから……」
レイ。
完全停止。
「…………」
「……消えるのだぁ?」
「……分かんない……」
シズカは少し笑った。
「でも……幽霊って未練なくなると薄くなるって……映画で言ってた……」
「映画基準なのだぁ!?」
レイはパニックだった。
「ダメなのだぁぁぁぁぁ!!」
机を蹴飛ばしながら立ち上がる。
原稿バサァッ!!
「消えるななのだぁぁぁ!!」
シズカは目を丸くした。
「…………」
レイは本気だった。
かなり。
「のだぁぁぁ!!」
慌ててシズカへ駆け寄る。
当然。
半分すり抜ける。
「うわぁぁぁ!!」
転ぶ。
起きる。
また掴もうとする。
「ダメなのだぁ!!」
「……落ち着いて……」
「嫌なのだぁぁぁ!!」
レイは半泣きだった。
「お主いなくなったら吾輩どうするのだぁ!!」
「…………」
シズカは少し固まった。
「……どうするって……」
「怖い取材いっぱいあるのだぁ!!」
「そこ……?」
「あと映画見る相手いなくなるのだぁ!!」
「…………」
「あとぉ!」
レイは涙目だった。
「吾輩、お主に名前つけたのだぁ!!」
「…………」
「シズカなのだぁ!!」
部屋が静かになる。
テレビの音だけが流れていた。
シズカは少し俯く。
「…………」
「……変なの……」
「変じゃないのだぁ!!」
レイは本気だった。
「お主、消えたら困るのだぁ!!」
「…………」
「吾輩、最近ちょっと慣れてきたのだぁ!!」
「慣れるものなんだ……」
「お主いないと夜怖いのだぁ!!」
完全に本音だった。
シズカは少し笑った。
でも。
輪郭はまだ薄い。
レイは焦った。
「のだぁぁぁ!!」
部屋を見回す。
「どうすればいいのだぁ!?」
そして。
突然。
「のだっ♡」
「……?」
「未練を増やせばいいのだっ♡」
「は?」
レイは閃いた顔だった。
「青春をもっとやればいいのだっ♡」
「…………?」
「映画!旅行!遊園地!ファミレス!」
「発想が雑……」
「満足させなきゃいいのだぁ!!」
「それ解決してない……」
レイは必死だった。
「あとぉ!」
「……?」
「まだ吾輩の書籍二巻出てないのだぁ!!」
「…………」
「最後まで見届ける義務があるのだぁ!!」
シズカは少し吹き出した。
「……なにそれ……」
「重要なのだぁ!!」
レイは真顔だった。
「吾輩、まだ有名になるのだぁ!!」
「……うん……」
「だから消えるななのだぁ!!」
シズカは少し黙った。
部屋を見る。
汚いアパート。
原稿。
映画。
変な男。
昔なら絶対想像できなかった場所。
「…………」
そして。
少しだけ。
輪郭が戻る。
「のだぁ!?」
レイが気づく。
「戻ったのだぁ!?」
「……なんか、騒がしくて……」
「消えるななのだぁぁぁ!!」
「うるさい……」
シズカは笑っていた。
本当に少しだけ。
その夜。
レイは締切を忘れて、延々とシズカへ話しかけ続けた。
「次は北海道なのだっ♡」
「寒そう……」
「温泉あるのだぁ!」
「そればっかり……」
テレビの光。
深夜のアパート。
怪談作家と幽霊。
変な共同生活は、まだ終わりそうになかった。




