後編
午前中の授業が終わり教室に戻ろうと、ひとり廊下を歩いていると見たことある人がいた。
以前はゆるくかかっていたパーマはなく、髪はストレートになっていた。
彼女も私に気付く。名前を呼ぶより先に別の単語がでた。
「彼女さん」
「それはアンタでしょ」
ちょっと不機嫌そうに言うけど怒っている感じはしない。
「西野さん」
「なによ」
「えーと……」
あの後、知った覚えたての名前を呼んでみても後の言葉を考えてなかった。
言ってもいい言葉ってなんだろう。少し考えていると西野さんが先に口を開いた。
「ごめん。叩いて怪我させて」
「あ、もう治ったから大丈夫」
たいした傷じゃなかったから、すっかり元通りだ。
彼女が少しほっとしたように笑顔を見せた。
「私ね、貴方達を時々見かけてたの。見てるとよく分かったわ」
「なにを?」
「あなたは、高津くんに好かれてるのね」
驚いて言葉を失った。好かれてる? そう見えるのだろうか。
「なに驚いた顔してんのよ。高津くんから告白して付き合ってるんでしょ?」
「……そうだけど」
付き合っている。でも、それはフリで。
「ほんと、私に望みなんてないのは分かった。アンタ相当好かれてるのね」
え、なに。まるで本当にそうであるように簡単に言うの。
頭が回らない。最初に彼はなんて言った?
好きになって。そう彼は言った。冗談かと思った。思っていた。
私が誰かを好きになりたいと言ったから、それに対しての冗談かと――
彼女との会話が終わり、また歩き出す。教室の前まで来ると誰かに呼び止められた。
「野川さん」
知らない女生徒だった。3人の女生徒が私を見ている。その中の真ん中の子が口元に笑みを浮かべて言った。
「少し話したいことがあるの。ここじゃ、言いにくいから一緒に来てくれない?」
両手を顔の前で重ねて首を傾げる女の子らしい姿を見て、少し考えてしまう。
いままで話したこともないのに、急に話したいことがあるってどういう内容なのか。
考えている私の腕を彼女は軽く触った。急かすように。
「ね、少しだけでいいから」
腕を掴まれて流れ込んでくる声に、ぞわりと嫌な感じがした。彼女の微笑みも怖く見える。
一瞬だけ聞こえた声は明らかに黒い感情だ。
『どうして高津くんと付き合うのがこの子なの』
すぐに離れたので聞こえた声は少なかったけど、低く重い声だった。
チッ。と誰かの舌打ちと、別の声が聞こえた。
「なに、こいつ」
「喋んないじゃん」
「なんであんたなの。つりあわなねーよ」
「そーそー。高津くんに相応しくないよね」
「やめなよ、こんなところで」
「だって動かないでしょ」
「聞こえてるかわかんないし」
聞こえてる。3人ともそういう話なのか。
この場から立ち去る言い訳を考えていたら、真ん中の女生徒は私を見ていなかった。ひとりの女生徒の顔が青くなる。
私じゃなくて、私の後ろを見ている。
「響音」
いつもより低い声が私を呼ぶ。
女生徒達が慌てて取り繕おうとする。
「高津くん、これはその、」
振り向くと、いつものやさしい笑みが向けられた。
「遅いから心配したよ」
「ごめん。ちょっと話してて」
「怒ってないよ。天気がいいから外で食べようか」
「……うん」
私だけに向けられた瞳。私には怒っていない。
「響音、なにか言われた?」
私を見る瞳の奥で冷たい感情が怒っているように見えた。
私はそのままを言った。
「私が綺一くんの隣は相応しくない、って」
彼が目を細めるとまわりの空気が冷たくなった。
「へぇ。誰が言ったの?」
私の後ろを見る彼の横顔が冷たい。私の後ろに歩き進むと、彼は私に背を向けた。
「綺一くん」
不安になって服の裾を掴む。いつもの表情になってくれないと安心できない。
彼は掴んでいた私の手を握り、振り向いて微笑んだ。
「ん、お腹すいた?」
一瞬で表情が変わったその顔が眩しくて、俯くように頷いた。
「うん、そうだね。響音以外のために使う時間なんてないよ」
ぎゅっと抱きしめられる。真似して私も抱きしめ返してみた。綺一くんの体が驚いたように揺れた。目を閉じると鼓動が聞こえる。
少し安心する。
「やばい」
耳元で小さな声が聞こえる。
「くすぐったい」
私の言った声はくぐもって彼の耳には届いてないと思う。
体をよじろうとすると、彼の体が離れた。
「ごめん、苦しかった?」
「ううん」
苦しくはなかった。
「綺一くん」
「なに?」
フリでいいといったから全部演技なのかと思った。
まるで本当の恋人同士のような演技。演技でこんな表情ができるのだろうか。
「もうフリはしなくていいと思う」
「それは……どうゆう意味?」
パタパタと誰かの足音が遠ざかる音がする。
はっきりと言われていないから、曖昧なままにしていた。
「もし、綺一くんに好きな人がいるなら色々勘違いさせると思うし」
好かれている。そう言った。そう思われたままでいいのか分からなくなる。
「そんなこと言った?」
綺一くんは冷静に見つめ返してくる。彼の瞳はこんなにも冷たい瞳だっただろうか。
「いまはいなくても、これから先好きな人ができたら困るよね?」
「困らないよ。いまだって俺の気持ちが全然伝わってないから」
少しずつ彼の真意を確かめながら話す。彼は本当に私を好きであるかのように言う。本当にそうなのだろうか。
「私のこと好きなの?」
目が見開かれた。そんなに大きく反応されるとは思わなかった。
まるで本当であるように、反応されると私は……。私は?
「いま言わないと駄目?」
彼は少し細めの声で言った。視線を逸らし彼は言葉を続ける。
「さすがに、いま断られると堪えられない」
私の答えは決まっているようで、私の返事を待たずに更に言葉を続ける。
「もう少し幸せに浸りたいな……駄目?」
断られることが前提で語る彼の言葉が重く喉の奥に引っかかる。
思わず自分の胸に手をあてる。心の声が聞こえないからこんなに重いのだろうか。首を振る。
くしゃりと、彼の無理に微笑む顔が見えた。
*
一本の矢が弧を描くと、弓道の的を大きく外れて落ちた。今日は調子が悪い。
部活後も残って自主練習してるのに全然よくならない。的を狙うことを諦めて、壁にもたれるように座った。もうひとり私と一緒に残ってくれた一之瀬さんが励ますようになにか言ったけど、言葉は右から左へと流れていった。
たぶん私は元気のない顔をしている。両頬を指でつまんでみる。心なしか固い。
「なにしてるの?」
自分の頬をひっぱっている私を、一之瀬さんが不思議そうに見る。
頬から手を離し、彼女を見る。彼女は笑って私の隣に座って水分をとっていた。
「……どうしたら上手に笑えるのかな」
「笑いたいの?」
私が少しでも笑えていたら変わっていたと思う。嫌々、付き合っているように見えるのだろうか。嫌ではない。私が楽しそうじゃないから、笑わないから、嫌だと思われているのは分かった。
彼はよく笑う。反対に私の表情筋は固い。
「響音は自然でいいと思うよ。裏表ない感じがいい。他の人は気付きにくいかもしれないけど、笑ったりするし」
「私、笑ってる?」
驚いた。私は笑ってるらしい。
「うん。最近機嫌いいしね」
しかも機嫌がいいって言われた。
あれ? じゃあ、私の表情は分かりにくいけど少しは出てるってこと?
綺一くんの前でも表情はでてる?
「高津くんになにか言われた?」
「え」
「高津くん本人じゃなくても、関係あると思ったんだけど違った?」
一之瀬さんはすごい。どうしてこんなに私の考えていることが分かるのだろう。
私の沈黙に、なにかを考えて慌てて言葉を続けた。
「あ、話したくないのなら話さなくていいよ。でも、私で力になれるのなら言ってよ。人に話したら少しぐらいは、すっきりすると思うよ」
そう言って一之瀬さんは、私の外した的を見た。私も同じように的を見る。
「もし、……もしもの話だけど」
私は未練がましく前置きを重ねて言葉を続けた。
「他人の考えてることが聞こえたらどうする?」
ずっと誰かに聞いてみたかったことだった。
自分自身に何度も聞いてきたことでもある。
「それは……また唐突ね。そうだなー。いいことも悪いこともあるだろうし、極力聞かないようにするかな」
一之瀬さんは考えながらそう言って自分に納得したように頷いた。
「聞きたい人はいる?」
「うーん。……いないかな。そう思ったら直接聞く」
「じゃあ、逆は?」
「逆って私が聞かれるってこと? 例えばどんな?」
「例えば……私が人に触れたら、その人の考えてることが聞こえるって言ったらどうする?」
言ってしまった。怖がられるのだろうか。気持ち悪がられるのだろうか。
怖い。ぎゅっと自分の手を握り締めて返事を待つ。嘘だと言おう。冗談だと。いま言えば間に合うから
。
一之瀬さんの手が私の手にぴとっと触れた。
「私の思ってることも聞こえるの?」
『メロンパン食べたい』
真っ直ぐに私を見る瞳は純粋に疑問しか感じられない。
重なって聞こえる声。私の表情を真っ直ぐ覗き込まれて、言ってもいいような気になった。
「メロンパン……」
カラカラに渇いた口で呟く。一之瀬さんはいたずらがばれた子供のように笑った。
「あたり。お腹空いた」
彼女の笑顔に声に安心した。ほっと力が抜ける。喉が渇いたことを思い出してペットボトルを取り出した。
キャップを開けていると、背後でカタンと木の扉が弱々しく音を立てるのが聞こえた。
「響音、お迎え来たよ」
同じ明るい声なのに少し遠くで聞こえる感覚がする。体が顔が緊張する。
「私、先に帰るね」
手を振る一之瀬さんに同じように振り返す。そうしてやっと彼を見た。
どこから聞かれていたのか分からないけど入り口に彼が居る。
「俺の声も聞こえるの?」
表情から綺一くんの気持ちは読み取れない。私は首を振った。
彼が近付いた来る時間が長く感じられた。その瞳は私を見て、手は私の頬に触れた。
「教えてあげるよ俺の心の声」
少しだけ悲しそうに、寂しそうに彼は微笑む。
「俺はね、中庭で会話をする前から好きだった。ずっと好きだった。本当だよ。でも、君は誰にも興味ないように見えたから理由をつけてどうにか興味をもってほしかった。どういう理由でもいいから、俺を見てほしかった。俺を好きになって。フリでもいいから彼女になってほしい。俺だけを見てほしい。他の人間は視界に入れてほしくない。俺だけに表情を向けてほしい。他の奴に表情を向けないで。響音の色んな表情をもっとみたい。触れたい、触りたい。キスしたい。めちゃくちゃにしたい。大切にしたい。……好きなんだ。愛してる」
最初から本当のことしかなかった。
彼は本当のことしか言ってなかった。
――好きになって
私が勝手に疑っていた。心が聞こえないから嘘じゃないかと思ってしまった。
心だけは嘘はつけないから、それを聞くまで安心できなかった。
勝手なのに。自分勝手なだけなのに、涙が溢れてくる。彼の方が泣きそうな顔をしているのに。
「……ごめん、泣かすつもりはなかったんだ」
涙がこぼれてゆく。でも悲しいのとは違う。
どうしようもない気持ちが私の心からあふれた。彼の心に触れたかったことに気付いた。
視線を落とし、俯いたしまった彼の頬にそっと触れる。
私も本音を口にする。
「他人なんか興味がなかった。関わりたくなかった」
触れてしまうと聞こえるから距離をとる。距離をとると関わる人も少なくなる。
寂しいけど仕方ないと諦めていた。
「でも……綺一くんは、触れたい」
涙で視界が歪む。あたたかな感情が心からあふれる。
私の手から、指から気持ちが伝わればいい。悲しいのではなくて嬉しい。
「こんな答えじゃ駄目かな」
ぼんやりと見えた綺一くんの指が私の涙を拭った。
「駄目じゃない」
そう言って、ぎゅうと抱きしめられる。
聞こえないけど、なにかが聞こえる気がした。
'16.3.10修正