プロローグ 父親
その日も、僕は仕事から帰る途中だった。
疲れていた。
もう若くないな、と最近よく思う。
でも、今日は仕事を早く終わらせたのだ。
右手には、いちごがたくさんの誕生日ケーキが入った手提げ袋。
――僕は観月紀臣、38歳。
妻がいて、娘が2人いる。幸せいっぱいの4人家族。
仕事をして、家に帰って、夕飯を食べて、風呂に入って、娘たちの寝顔を見る。
普段、特別なことなんて何もない。
でも、それが大好きだった。
「ただいまー」
玄関を開ける。
「パパ、おかえり!」
小さな足音が走ってくる。
「おっと」
扉を開けて飛びついてきた娘を受け止める。
「今日ね、幼稚園でね――」
「うんうん」
話を聞きながら靴を脱ぐ。
何を言っているのか半分くらい分からない。
それでも聞く。
妻、朱乃が奥から笑っている。
「のりくん、ちゃんと聞いてあげて」
「聞いてるよ」
「絶対聞いてないでしょ」
「聞いてるって」
そんな会話をする、いつもの夜。
明日もきっと同じだ。
今夜だけは、上の娘の誕生日で、少しだけ特別な日。
そう思っていたんだ。
――この瞬間までは。
道路の向こう。
小さな子供が飛び出した。
知らない子供。
トラックが迫っていた。
「危ない!」
気付けば、走っていたんだ。
怖いとか、死にたくないとか、そんなことを考えるより先に、身体が動いていた。
子供を突き飛ばす。
次の瞬間、凄まじい衝撃。
身体が宙に浮いた。
視界が回る。
痛みすら感じない。
何が起きたのか分からない。
ただ、頭に浮かんだのは――。
家に帰りたい。
妻に会いたい。
娘たちに会いたい。
まだ、何もしていないんだ。
今日は娘の誕生日を祝うはずだった。
明日も一緒にご飯を食べるはずだった。
また娘の話を聞くはずだった。
妻に「絶対聞いてなかったでしょ」と笑われるはずだった。
なのに――。
僕の意識は、そこで途切れたんだ。
――――――――――――――――
目を開けると、真っ白な場所にいた。
「……ここ、どこ?」
目の前には、老人が一人。
「我は地球の世界で言うところの神じゃ。おぬしには選択肢がある」
神様、と名乗った。
だが、僕の視線は神様ではない。
神様の後ろにある大きなモニターだ。
病院で、僕が寝ている。
その手を、朱乃が握る。
上の娘が、朱乃の頭を撫でる。
下の娘が、朝に僕をいつも起こすように腹の上に乗り、ポンポンとお腹を叩いている。
巨大なモニターを見ながら、呟くように聞く。
「選択肢って?」
「今すぐ逝くか、異世界へ行き、魔王を倒すかじゃ。倒せば――」
神様はモニターへと振り返り、僕が一番欲しい言葉を口にした。
「そこへ、帰してやろう」
僕は少しだけ考えた。
怪しいと思ったのは一瞬だけ。
「やります」
「……即答じゃな」
「だって、帰りたいから」
僕には、帰る場所がある。
「その意気や良し。もうじき、大厄災【魔王の檻】が始まる」
僕には、待っている家族がいる。
「檻より出てくる魔王を倒せ。さすれば願いは叶えられよう」
だから僕は、魔王を倒すのだ。
魔王だろうが何だろうが、やってやるんだ。
――いつか。
必ず。
家族のところへ帰るために。




