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魔獣料理人の異世界紀行 ~食べて、旅して、強くなる~  作者: 町田トモ


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1/8

異世界で拾った黒い子犬

「……腹、減ったな」


 厨房の時計は、午前一時を回っていた。


 閉店してから何時間経ったのか、もう分からない。


 ハルは誰もいなくなった店内で、椅子に座ったまま天井を見上げていた。


 今日も忙しかった。


 ランチから客が途切れず、夜は予約で満席。


 厨房に立ちっぱなしで、まともに食事を取る暇もなかった。


 料理人なのだから、自分で作ればいい。


 そう思うかもしれない。


 だが、仕事が終わる頃には、料理をする気力すら残っていない。


「……帰るか」


 ハルは重い腰を上げた。


 厨房の明かりを消す。


 最後に冷蔵庫を確認する。


 明日の仕込み用の食材が並んでいた。


 牛肉。


 鶏肉。


 野菜。


 魚。


 どれもおいしそうだ。


「腹減った……」


 そう呟いて、ハルは店を出た。


 外は雨だった。


 傘を開く。


 疲れた身体を引きずるように、駅へ向かって歩く。


 信号が青に変わった。


 ハルは横断歩道を渡り始めた。


 そのときだった。


 遠くから、クラクションが聞こえた。


 ――キィィィィッ!


 何かがぶつかる音。


 身体が浮く。


 視界が回る。


 そして最後に思った。


 ――せめて、最後に何か食べたかったな。


 * * *


 目を開ける。


「……?」


 最初に見えたのは、木々の隙間から見える青い空だった。


 風が頬を撫でている。


「…………」


 ハルはしばらく黙っていた。


 そして、


「……どこだ、、、ここ、、?」


 身体を起こす。


 一面に広がっているのは、深い森だった。


 見渡す限り、木々が生い茂っている。


 頭上には枝葉が重なり、ところどころから差し込む陽の光が地面を照らしていた。


 風に揺れる木々の音。


 鳥の鳴き声。


 そして、どこか遠くから聞こえる獣の声。


「……夢?」


 頬をつねる。


「痛っ」


 夢じゃない。


 服を見る。


 見たことのない簡素なシャツとズボン。


 ポケットを探る。


 スマートフォン。


 財布。


 鍵。


 何もない。


「…………」


 ハルは立ち上がった。


 そして空を見上げた。


「……異世界転生?」


 そんな言葉が頭に浮かんだ。


 漫画や小説なら、ここで女神が出てきたりする。


 そして、


「あなたには特別な力を授けます!」


 なんて言われたりする。


「……来ないな」


 当然だ。


 女神は出てこない。


 説明もない。


 能力の一覧も表示されない。


 ただの森。


「……まいったな…」


 ハルは額を押さえた。


 腹が減っている。


 水もない。


 食べ物もない。


 道具もない。


 そして、ここが日本でないことだけは確実だった。


「とりあえず……人を探すか」


 そう呟いた瞬間。


 ――グルルルルル。


「…………」


 背後から声がした。


 ハルはゆっくり振り返った。


 森の木々の間。


 二つの黄色い目が光っている。


「…………」


 出てきた。


 巨大な狼だった。


 体長は三メートル近い。


 口からは鋭い牙が覗いている。


 全身を覆う灰色の毛。


 普通の狼ではない。


 どう見ても、普通の世界にはいない生き物だ。


「……嘘だろ」


 狼が一歩近づく。


 ハルも一歩下がる。


「いや……待て」


 ハルは両手を上げた。


「俺なんか食べても美味しくないぞ…」


 当然、狼には通じない。


 さらに一歩。


 距離が縮まる。


 狼が身体を低くした。


「来るな……」


 ハルは身体を強張らせる


「来るなよ……!!」


 狼の足が地面を蹴った。


「うわあああああ!!」


 ハルは走った。


 全力で走る。


 だが、後ろから聞こえる足音はどんどん近づいてくる。


「速い! 速すぎるだろ!」


 人間と狼。


 勝負になるわけがない。


 足がもつれる。


「――うわっ!」


 ハルは地面に転んだ。


 振り返る。


 狼が迫ってくる。


 巨大な口が開いた。


 牙が見える。


 ――死ぬ。


 そう思った瞬間。


「――ガウッ!」


 黒い影が横から飛び込んできた。


 ドンッ!


 狼の顔面に何かがぶつかった。


「……え?」


 小さい。


 黒い毛。


 四本の足。


 犬。


 いや。


 子犬だった。


 体長は五十センチほど。


 黒い毛並み。


 大きな耳。


 そして、金色の瞳。


「……犬?」


 子犬はハルの前に立っている。


 小さな身体をいっぱいに広げて、巨大な狼と向き合っていた。


「お前……」


 子犬が振り返る。


「俺を助けてくれるのか?」


「ワン」


 小さく鳴いた。


「……いやいや」


 ハルは慌てて立ち上がった。


「無理だろ。お前、どう見ても子犬じゃん」


「ワン」


「いや、だから――」


 巨大狼が唸った。


 子犬が前を向く。


 そして。


 ――消えた。


「え?」


 次の瞬間。


 ドンッ!


 巨大狼の身体が吹き飛んだ。


 地面を何度も転がり、十メートルほど離れたところで止まった。


「…………」


 ハルは言葉を失った。


 子犬が戻ってくる。


 何事もなかったかのように、ハルの足元に座った。


「…………お前」


「ワン」


「強いの?」


「ワン」


「……そうか」


 よく分からない。


 だが。


 とりあえず助かった。


 ハルはその場に座り込んだ。


「……ありがとう」


 子犬が尻尾を振った。


「お前、野良なのか?」


「……」


「飼い主は?」


「……」


「いないのか?」


「クゥン」


 少し寂しそうに鳴いた。


「……そっか」


 ハルは子犬の頭を撫でた。


 柔らかい。


 そして、温かい。


「じゃあ、とりあえず一緒にいるか」


「!」


 子犬の尻尾が激しく揺れた。


「……お前も腹減っているのか?」


「ワン!」


「俺もだ」


 ハルは立ち上がった。


 倒れている巨大狼を見る。


「……問題は」


 食料だ。


 ハルは狼に近づいた。


 改めて見る。


 巨大な身体。


 鋭い牙。


 分厚い筋肉。


「なんだ…これ…?」


 しゃがみ込む。


 匂いを嗅ぐ。


「……これは…!」


 料理人としての本能が働いた。


 肉質を見る。


 筋の入り方。


 脂の量。


 色。


「食べられる…!」


 ハルは呟いた。


 すると。


「ワン!」


 後ろから元気な声がした。


「……食べる気満々だな、お前」


 子犬は尻尾を振っている。


「でも、どうやって調理しよう…?」


 ハルは周囲を見回した。


 包丁がない。


 皿もない。


 鍋もない。


 調味料もない。


 火もない。


「…………」


 料理人として、これほど絶望的な状況は初めてだった。


 ハルは立ち上がった。


「まずは火だな」


 森の中を進んでいく。


 薪になりそうな枝を拾う。


 乾いているものを選ぶ。


 しかし。


「……どうやって火をつけるんだ?」


 ハルは枝を二本持ったまま固まった。


 ライターなど持っていない。


 マッチもない。


「……やったことないぞ」


 試しに木の棒を擦ってみる。


 ゴリゴリ。


「…………」


 何も起きない。


 もう一本。


 ゴリゴリゴリ。


「…………」


 汗だけが出る。


 子犬が不思議そうに見ている。


「見るな」


「……」


 ハルはため息をついた。


 そのとき。


 子犬が森の奥を見た。


「どうした?」


 子犬が歩き出す。


「おい、待てよ!」


 ハルも後を追う。


 少し進んだところで。


 木々の間に、小さな開けた場所があった。


「……?」


 地面に石が並んでいる。


 その中央には、黒くなった薪。


「焚き火跡?」


 誰かがここで野営したらしい。


 ハルはしゃがみ込む。


 灰を手で少し避ける。


 すると。


「……!」


 奥の方に、ほんのわずかに赤いものが見えた。


 小さな火種。


「まだ生きてる……!」


 ハルは急いで乾いた草を集めた。


 火種を包む。


 息を吹きかける。


 ふっ。


 ふっ。


 煙が出る。


「頼む……!」


 もう一度。


 ふっ――。


 小さな炎が生まれた。


「……よし!」


 ハルは思わず拳を握った。


「火だ!」


「ワン!」


 子犬も嬉しそうに鳴いた。


 火種を薪に移す。


 少しずつ炎が大きくなる。


 ぱちぱちと薪が爆ぜる。


「……助かった」


 ハルは火を見つめた。


 そして気づく。


「誰かがここにいたんだな」


 つまり。


 人間がいる。


 この世界に、自分以外の人間がいる。


 少しだけ希望が見えた。


 * * *


 次は調理だ。


 ハルは狼の肉を慎重に切り分けた。


 もちろん包丁はない。


 焚き火跡の近くに落ちていた、先の尖った石を使う。


「……切れ味悪いな」


 それでも時間をかけて肉を切る。


 できるだけ厚みを揃える。


 焼きムラが出ないようにする。


 料理人としての経験が、こんなところで役に立った。


「問題は味付けだな」


 ハルは周囲を探した。


 香りの強い葉。


 少し酸味のある赤い実。


 そして、名前も知らない小さな植物。


「……これは食べられるか?」


 慎重に匂いを嗅ぐ。


 少しだけ舐める。


「……苦い」


 これは却下。


 別の葉。


「こっちは……」


 爽やかな香り。


「使えそうだ」


 香草として使うことにした。


 しかし。


「塩がない」


 ハルは呟いた。


 料理人にとって、かなり痛い。


 できることは香草を纏わせ肉を焼く。


 それだけだ。


「……まあ、仕方ない」


 枝で串を作り、肉を刺す。


 火の上に置く。


 ジュウッ――。


 肉から脂が落ちた。


 炎が一瞬、大きくなる。


 香ばしい匂いが広がる。


「…………」


 ハルは夢中になっていた。


 グゥゥゥ……。


 腹が鳴った。


 グゥゥゥ……。


 隣でも腹が鳴った。


「お前もか」


 子犬が肉を見つめている。


 金色の瞳が、完全に肉へ釘付けになっている。


「もう少し待ってくれ」


 表面がこんがりと焼ける。


 香草の香りが肉に移る。


 ハルは肉を火から外した。


「……完成!!」


 ハルは肉に齧り付いた。


「…………」


 噛む。


 肉汁が広がった。


 少し硬い。


 野性味もある。


 塩がないから味も単調だ。


 それでも。


「……うまい」


 腹が減っているから、というだけではない。


 肉そのものに旨味がある。


 香草が臭みを抑えている。


「これ、ちゃんと調理すればかなりうまくなるぞ……」


 料理人としてのスイッチが入る。


 もっと火加減を調整したい。


 もっと良い香草を探したい。


 塩があれば。


 醤油があれば。


 味噌があれば。


「……ないものだらけだな」


 ハルは苦笑した。


 その横で。


「ワン……」


 子犬が限界を迎えていた。


「ごめん、ごめん」


 肉を一切れ差し出す。


 子犬が食べる。


 次の瞬間。


 子犬の耳がピンと立った。


「……?」


 そして。


 身体の周りに、一瞬だけ黒い光が走った。


「今の……何だ?」


 ハルが目を凝らす。


 だが、もう何も起きない。


 気のせいかと思った。


 しかし。


「……あれ?」


 今度は自分の身体に違和感があった。


 胸の奥が熱い。


 心臓から何かが全身へ流れていくような感覚。


「なんだ、これ……」


 頭の中に、聞いたことのない声が響いた。


『スキルを獲得しました』


「…………」


 ハルは固まった。


『《身体強化》を獲得しました』


「…………は?」


 声はそれだけだった。


 ハルは自分の手を見る。


 何も変わっていないように見える。


 だが。


 少し力を込めて近くの木の枝を握る。


 ――パキッ。


「……え?」


 枝が折れた。


「…………」


 もう一度。


 今度は少し太い枝を握る。


 ――ミシッ。


「…………嘘だろ」


 ハルは立ち上がった。


 身体が軽い。


 疲労感もほとんどない。


「まさか……」


 ハルは食べかけの肉を見る。


 そして。


 倒れている巨大狼を見る。


「こいつを食べたから……?」


 子犬を見る。


「お前……何か知ってる?」


「ワン」


「……知らないか」


 ハルは考え込んだ。


 魔獣。


 料理。


 スキル。


 偶然とは思えない。


「もし……」


 ハルは一口残っていた肉を見る。


「魔獣を食べると、その力をもらえるなら――」


 胸が高鳴った。


 怖い。


 だが。


 それ以上に。


 知りたい。


 料理人として。


 そして、この世界を生きる人間として。


「……他の魔獣は、どんな味なんだろうな!」


「ワン!」


「お前も興味あるのか?」


「ワン!」


 ハルは笑った。


 異世界に来てから初めて、少しだけ楽しいと思えた。


 * * *


 夜。


 焚き火のそばで、ハルは子犬を抱いていた。


「そういえば、お前……名前ないよな」


「……」


「黒いからクロ?」


「……」


「却下か」


 子犬がそっぽを向いた。


「じゃあ……ポチ」


「!」


 子犬が顔を上げた。


「……気に入った?」


「ワン!」


「じゃあ、お前は今日からポチな」


 ポチは嬉しそうにハルの胸元へ顔を埋めた。


「よろしくな、ポチ」


「クゥン……」


 ハルは空を見上げた。


 満天の星。


 東京では見たことがないほど、星が多かった。


「……帰れるのかな」


 答える者はいない。


 それでも。


 今は一人ではない。


 腕の中には、小さな黒い子犬がいる。


「まあ……なんとかなるか」


 ハルは目を閉じた。


 ポチも眠った。


 焚き火の炎が、静かに揺れている。


 ――その夜。


 ハルはまだ知らなかった。


 腕の中で眠る小さな黒い子犬が、この世界で一度しか確認されていない幻の魔獣。


 古代の記録にのみ、その名を残す存在だということを。


 ――黒天狼。


 その名を知る者は、今の世界にはほとんどいない。


 ましてや。


 その幼体が、こんな場所で人間に抱かれて眠っているなど。


 誰も知らなかった。


 そしてもう一つ。


 ハル自身もまだ知らない。


 今日食べた一切れの肉が。


 これから始まる、長い旅の最初の一歩だったことを。


 異世界での最初の夜が、静かに過ぎていった。

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