第十六章 ダルジェロの不安
存在の不安・・・
あらゆる聖都の中枢である聖の聖なる学園都市アカデミア。
その神聖蒼古なる儼かしき都は周辺を数百万キロ平方メートルに渉って一万から四万メートル級の大山脈群に幾重にも囲まれ、その凍嚴極寒の荒涼たる峻嶮な土地を、アカデミアに附属する天領として神から直截に授かっている。
その契約の文が古代神代の神聖文字で、神雷の炎筆によって刻印された金剛石のタブレットはウパニシャッド大聖堂の地下に収められている。
神授の天領を侵すことは何人にも許されない。
さて、大山脈群は複雑な形でアカデミアを囲繞するが、大きく東西南北で括られ、西嶺山脈はその名のとおり西側の複数の山脈群をいうものであった。
学校が終わって、日が傾き始める頃、独りの少年の影が長く伸びる。
ダルジェロであった。
彼の住むアキタ村は西嶺の麓にあるマガダ国の片隅、辺鄙な土地であったが、沙門が修行のために山岳地帯へ向かう際の入口にあたり、枯れた賑わいではあったが、少しの賑わいがあった。
憂鬱だった。
その日の朝、登校するときに小石を投げられた。
足に当たったが、昨日、学校で習ったパルメニデスの哲学のことを考えて、想いに耽って入り込んでいた。そのせいで、彼は小石が当たったことが、瞬時に何であったかを理解できず、何が起こったかもわからず、何の反応もしなかった。
「シカトしやがって」
「スカしてんじゃねー」
「俺らは相手じゃねーってか」
同学年の男の子たちが理不尽に逆上した。
ダルジェロは初めて状況を認識したが、認識しただけでまだ理解の手前で戸惑っており、彼らをぼんやり眺めた。
「畜生め、小馬鹿にしやがって」
「相変わらずお高く止まってやがんな、俺らちは精神レベルが違うってか?」
勝手に逆上してエスカレーションしていく。
ダリジェロには、それが弱さから来る逆上であることが見えていたが、巧く言い表すことも、上手く躱してやんわり対応する術も思いつけなかった。
「いや、僕は、そんな」
何も悪くないのにたどたどしくなってしまう。
その弱さが相手の攻撃性を刺激するとともに、さらに逆上させた。その逆上は自分にも在る弱さを無意識に知っていて、怒りが込み上げ、それが逆上させるという二重の感情であった。
ダルジェロにはそれも見えていたが、ただ、咄嗟に何も思いつけない。
「気に喰わねーんだよ、てめーわ!」
蹴られ、倒される。
「殺しちまえー」
その上に乗っかって、ボコボコ殴り始める。
散々殴って気が済んだのか、疲れたのか。
ダルジェロだけが残された。
そこへ。
「何でいっつもやられっぱなしなのかなー、ダルジェロって」
見上げた。
メルセデスだった。ダルジェロは彼女を見るといつもデュマの『モンテ・クリスト伯』を思い出す。エドモン・ダンテスの許嫁の名前が、確か、メルセデスだった。
「わかんない。やってもしょうがない気がして」
「そりゃー、それが正しいけどさ、人間って、それだけじゃ割り切れないでしょ? 理不尽さだよって言って、怒っていいんじゃないの? 怒らないの? 無抵抗主義? 博愛主義? 頬を打たれたら、反対側の頬を差し出すの? それって、崇高かもしれないけど、納得できなくない? 悔しくない? プライドは? 聖人ぶっても人間らしくないよ」
「そういうんじゃないんだ。諸行は無常だし、五蘊は皆空だし」
「そういうんじゃなくないじゃん。聖人ぶってるんじゃん」
「・・・そうかな。なんだろう、僕にはリアルなんだ。だから、不安で・・・。彼らの葛藤なんか、構う気になれないんだ」
「なんだかわかんない、やっぱ気取ってるとしか見えないね。だから、やられるんだよ。嫌味なんだよ。
あーあ、なんか損したあ」
そう言い残して去った。
「そうだね。僕も急がなくっちゃ」
土に汚れて顔が腫れたまま登校しても先生も何も言わない。
「生意気な奴」
言葉には言わなくても、教師もそう感じている。人は自分が認めぬ者から凌駕や脅威を感じると反射的に毛を逆立てて憤るのだ。
彼の身魂から醸されるオーラが、彼自身気がついていないそれが裏目に出ていた。
しょんぼり下校するのも無理はない。
いきなり突き飛ばされた。
「何だよ、女子かと思ったらダルジェロかよ」
「てめー、なよなよしいんだよ」
「男だろ、臆病モンが。ついてんのかよ」
ぎゃはははと笑う声。
既に周囲に五、六人いて、囃し立てる。
今朝の件で、少年たちは苛立っていた。
凄い報復をしなければならない、するべきであると感じていた。
「ダルジェロのくせに生意気なんだよ」
「死ねよ、臆病もん、死ぬ勇気がないか、臆病モンがあ」
ダルジェロは相手を見つめた。
現象の架空を虚しく感じていた。
それがまたもや少年たちの怒りに火をつける。精神的な優越を見せつけられたように感じ、その行為をわざとらしくてあざとくて、嫌らしい行為と感じ、同時に自己の尊厳を傷つけられたように捉えて、逆上するのである。
もう一人が同じように突き飛ばし、その次が蹴り、その後は次々殴られた。倒され、馬乗りになって殴る者、その周りから蹴りを入れる者、馬乗りの者が退いても、次々殴る蹴る、石を投げ、棒で叩く、額が割れて血が流れた。
ダルジェロには怒りも恐怖もない。自分も彼らも現象に過ぎず、それは儚い。
「叔母さんに見つからないように部屋へ入ろう。また心配するから」
次の朝も繰り返しだ。
「てめーわ、女だろ? ダルジェロ。いつもうるうるした眼をしやがってよ、泣いてんのかよ」
泣いているんじゃない。胡桃色やセピア色の虹彩が交互に織りなす双眸はもともと深い内的な翳りを帯びているが、長い睫毛とカールして少しボリュームのある前髪とによってさらに翳されていて、それが曙光を鏤めた湖面のようにきらきら揺らいで、潤みのように見えるのであった。
「女なら、女子トイレに入れよ」
むりやり入れられそうになる。
「や、やめて」
「かー、やめてだってよ! まじか、女だな、お前」
「ぎゃはははっ」
始業のチャイムが鳴る。
「さあ、急げ、小便垂れは残して、教室行こうぜ」
教室へ行くと。
「せんせー、今日、ダルジェロが女子便所に入ろうとしましたー変態でーす!」
朝のホームルームでそう言われた。
ダルジェロは無抵抗で、遠い眼をしていた。その様子は、憮然としているかのようであった。
すなわち、あまりのことに失意し、呆然したかのような様子、又は、期待が外れてしょんぼりしているかのような様子であった。
「ダルジェロ、放課後、職員室に来なさい」
女性教師はそう言った。
放課後、職員室へ向かおうと教室を出る間際、こんな話が聞こえた。
「なあ、殉真裂士って知ってるか、ネタフ」
「とーぜんだろ、タニヤン」
「すげーよな、一騎当千って、ほんとらしいぜ」
「かっちょいー、英雄だよな」
「なりてえな」
「ばーか、お前がなれるかよ」
「ち、ダルジェロみたいな臆病モンより、俺の方が遙かにましだぜ」
「そりゃあ、ちげーねや」
「底辺と比較してどーすんだよ」
「ぎゃははは」
ドナルドが振り返る。
「見ろよ、そこにいるのに何も言わねーぜ。けっ、勇気のねーやろーだ」
「がはは、みっともねー」
「あんな臆病なら、俺だったらもう死ぬわ。生き恥。はあ、死ね死ね」
そう、僕は臆病だ。勇気の欠片もない。ダルジェロはそう反芻する。しかし、心はもっと別のことを気にしていた。
深夜、ダルジェロは家を出ることを決した。
いじめから逃れるためではない。
そんなことで外に出たら死は免れない。ここは都会ではない、峻酷で苛烈な大自然の真っ只中だ。
なぜだろう。自分でもはっきりわからなかった。
どうにもならない不安に駆り立てられていた。
この不安を何と説明したら良いのか。
寄る辺はない、人間はいない、ただ、作用のその都度その都度の縁り結びがあるだけ。それは一瞬で解ける。
人間は動植物のように自然現象でしかない。主体も主観も自意識もない。存在者はいない。不在だ。
いったい、ここはどこなのか。
いったい、誰なのか。精神が破綻したり、痴呆になってしまうと、もうその人はその人で無くなってしまう。セロトニンが不足したり、シナプスが減って神経細胞が萎縮すれば人は変わってしまう。人格は化学現象が作る束の間の現象に過ぎない、そのバランスが少しでも崩れれば、別の現象になってしまう。
人間はどこにいたのか? どこに在るのか?
自然は善人も悪人も惨殺する。どこにも安全な場所はない。いつ災害が襲うか。事故になるか。病に罹るか。戦争で殺されるか。隣人は簡単に虐殺者になる。人間の復讐や怨みや憤りや不満はなくならない。いつもどこかで勃発する。運命は避けられない。ただ、現実しかない。力だけしかない。正義はなく、物理法則しかない。何もない。非情で、ドライだ。
何が起こっても不思議はない。
存在の不安とでも言うのだろうか。
あゝ、そんな言葉じゃない。言葉なんか上っ面だ。何も救わない、何の助けにもならない、何の足しにもならない。不安、不安、不安・・・・・
いや、そんなに簡単なものじゃない。この不安は言い尽くせない、説明できない、どんな説明も表面的で大したことない説明にしかならない、言葉は虚しい。リアルがない。切実がない。
彼は心に叫ぶ。
ともかく行動を。行動、ただ、只管行動しかない。
ダルジェロは大きな防寒着を幾重にも着て、分厚い三重の手袋、大きめの長靴にたっぷり乾いた藁を詰めていた。靴底には控えめなスパイク、カンジキを背負い、数日分の食料と水、テントとナイフ、最低限の装備しかない。
月明かり皓々と、路は凍った雪。
まず学校の寮に忍び込んだ。遠隔地の寮生がいるのだ。辺境には学校が少ない。
施錠のないところを知っていた。物置に丸まって寝て早朝、アルダの村へ向かうことにした。
そこから沙門の集まる基地となっている村へ向かおうと漠然と考えていた。
沙門になると決めたわけではない。
未明の凍える朝、学校の敷地を出た。凍った雪を踏む。
舗装のない細い森の道をとぼとぼと歩いた。
いくらか心は軽い。
「やっぱり沙門にでもなろうかな。
何だか、悠々壮大な気分になってきたな。沙門でなければ、憧れの騎士に、いや、さすがに、それは無理か、生まれ育ちが卑し過ぎる。
傭兵ぐらいにしかなれない。いや、いや、それも無理、体力も気力もないよ」
静かだ。黎明の予兆が感じられた。
そのときだ、遥か遠くから、激しい人の悲鳴、絶叫が。いったい、何が起こったのか。
虐殺の日へ




