第2章 最初の相談者
「失礼します……」
控えめなノックの後、扉がゆっくりと開いた。
入ってきたのは、少し緊張した様子の男性社員だった。年齢は悠真と同じくらいか、少し上だろうか。スーツの襟元を何度も直しながら、落ち着かない様子で室内を見回している。
「どうぞ、座ってください!」
彩乃がすぐに立ち上がり、柔らかい笑顔で椅子を勧めた。
「は、はい……ありがとうございます」
男性はぎこちなく腰を下ろす。
悠真はその様子を観察しながら、向かいの席に座った。こういう場面には慣れていない。だが、不思議と逃げたいとは思わなかった。
「それで、ご相談内容をお聞きしてもよろしいですか?」
彩乃がノートを開き、真剣な表情になる。
その切り替えの速さに、悠真は少しだけ驚いた。
「あの……実は……」
男性は一度言葉を詰まらせた後、意を決したように顔を上げた。
「同じ部署の先輩が好きなんです」
その言葉に、部屋の空気が静かに引き締まる。
「でも……なかなか気持ちを伝えられなくて」
「どれくらい前から想ってるんですか?」
彩乃が優しく問いかける。
「半年くらいです。仕事でよく話すんですけど、プライベートな話になると緊張してしまって……」
「なるほど……」
彩乃は丁寧にメモを取りながら、うなずいた。
悠真は腕を組み、少しだけ考える。
——よくある話だ。だが、その“よくある”の中にこそ、難しさがある。
「告白したいとは思ってるんですよね?」
悠真が口を開く。
「はい。でも……もし失敗したら、今の関係も壊れてしまいそうで……」
その言葉には、はっきりとした不安が滲んでいた。
悠真は小さく息を吐く。
「まあ、それはそうだな」
現実は甘くない。成功もあれば失敗もある。
だが、その横で彩乃がすぐに言葉を続けた。
「でも、何もしなければ何も変わりませんよね」
「……え?」
男性が驚いたように顔を上げる。
「気持ちを大切にすることって、とても勇気がいることです。でも、その一歩を踏み出せた人だけが、未来を変えられると思うんです」
まっすぐな言葉だった。
悠真は横目で彩乃を見る。
さっきまで明るく笑っていた彼女とは別人のように、真剣な表情をしていた。
「……そう、ですよね」
男性は少しだけ表情を和らげた。
「じゃあ、まずは準備をしましょう!」
彩乃は勢いよく言った。
「準備?」
「はい!いきなり告白するんじゃなくて、その前に“距離を縮める”ことが大事です」
「距離を……」
「相手の好きなものとか、休日の過ごし方とか、知ってますか?」
「えっと……少しは」
「それをもっと増やしていきましょう!」
彩乃は楽しそうに説明を続ける。
「例えば、共通の話題を増やしたり、自然に二人で話す時間を作ったり……」
「それ、ちょっとやりすぎじゃないか?」
悠真が口を挟む。
彩乃は一瞬だけこちらを見た。
「やりすぎですか?」
「相手のことを調べすぎるのは、逆に引かれる可能性もある」
「でも、何も知らないまま告白するよりはいいと思います」
「バランスの問題だ」
二人の間に、少しだけ緊張が走る。
男性は不安そうに二人を見比べている。
その様子に気づいた悠真は、小さく息を吐いた。
「……まあ、完全に間違ってるわけじゃない」
「え?」
彩乃が目を丸くする。
「情報はあった方がいい。ただし、“自然に”な」
「自然に……」
「会話の中で引き出すとか、共通のきっかけを作るとか。そういうやり方なら問題ない」
少しだけ言葉を選びながら説明する。
彩乃は数秒考えた後、ぱっと表情を明るくした。
「なるほど!それなら違和感なく距離を縮められますね!」
「そういうことだ」
「さすが先輩です!」
突然の賞賛に、悠真は少しだけ戸惑う。
「別に……普通だろ」
「いえいえ、すごいです!」
素直に笑う彩乃を見て、悠真はそれ以上何も言えなくなった。
その後、三人で具体的な作戦を立てていった。
昼休みに自然に話しかけるタイミング、共通の話題の見つけ方、さりげない誘い方。
一つ一つを丁寧に整理していく。
男性の表情は、来た時よりも明らかに明るくなっていた。
「……なんか、少し自信が出てきました」
「よかったです!」
彩乃が嬉しそうに笑う。
「まだスタートラインに立っただけだけどな」
悠真が現実的な一言を添える。
「それでも、大きな一歩です!」
彩乃はそう言い切った。
その言葉に、男性はしっかりとうなずいた。
相談が終わり、男性が部屋を出ていく。
扉が閉まった後、しばらく静寂が流れた。
「……どう思います?」
彩乃がぽつりと聞く。
「何がだ」
「この仕事です」
悠真は少しだけ考えた。
「……正直、まだよく分からない」
それが本音だった。
「でも」
「でも?」
「悪くはないかもしれないな」
自分でも意外な言葉だった。
彩乃は一瞬驚いた後、ふわっと笑った。
「ですよね!」
「まだ決めたわけじゃない」
「でも、少しはそう思いましたよね?」
図星だった。
悠真は苦笑する。
「……まあな」
そのやり取りの中で、ふと気づく。
さっきまで感じていた違和感が、ほんの少しだけ薄れていることに。
窓の外を見ると、いつの間にか日が傾き始めていた。
何も変わらないはずの一日。
だが、確かに何かが動き出していた。
それは小さな変化だったが、確実に。
——この部署での仕事は、ただの業務では終わらない。
そんな予感が、悠真の中に芽生え始めていた。
そしてその中心には、いつも明るく笑う一人の後輩がいる。
「次の相談、来るといいですね!」
彩乃の声が、静かな部屋に響いた。
悠真は小さくうなずく。
「……そうだな」
その言葉には、ほんの少しだけ前向きな気持ちが混ざっていた。




