第三章 和装の死神 (2)
突然の言葉に、しばしの間口が動かなかった。顎の筋肉に意識を集中して、かろうじて喉から音を出す。
「死神?」
絞り出すような声が出た。急に、自分が現実から剥離されたような気分に陥った。真夜中の路地に、和服を着た紫の瞳の少女。まるでおかしな光景だ。酔いのせいで幻覚でも見ているのだろうか。頭も朦朧としている。
僕が想像する死神とは彼女は似ても似つかない。それ以前にこの科学の発達した世の中に死神なんて、あまりにも馬鹿げている。だが、死神と名乗る少女は、冷たい空気のよう雰囲気を纏って、そこに存在している。
僕の混乱を無視して、少女は淡々と話を続ける。
「そう。あなたには思い出してもらわなければならないことがあるのです」
「ちょっとまってくれ」
何が何だかわからない。この少女は何者だ。酔った頭が作り出した幻覚か、それとも現実にいるのか。そうだとしたらこの娘は悪戯に僕をからかっているのだろうか、それとも本当に死神なのか。そんなものが存在するとは、思ったこともない。
「疑っていますね」
少女は表情を変えずにそう言った。僕はその問いに頷く。もし本当に死神の少女であるのならば、その願いとは僕の命を奪うことだとでもいうのか。それもいいかもしれない。この世は生き地獄だ。あの世の方が楽だろう。そんな考えを知ってか知らずか、少女は調子を変えずに話を続ける。
「まあいいです。あなたに思い出してもらいたいのは、川合里奈に関する事」
それは予想外の言葉だった。なぜこの少女は里奈のことを知っている?里奈の生前の知り合いだろうか。混乱した頭は明確な答えを導き出せない。それに少女の言った僕が思い出さねばならないこととは何だ。
「僕がなにか忘れているのか?」
たっぷり時間をかけて出てきた言葉はそれだけだった。無表情のまま、死神は答える。
「それは言えない。あなた自身が思い出さないと意味がないから。私はその手助けをするだけです。そうでなければ川合里奈の魂は救われはしません」
死神の言葉は、ますます僕の理解の範疇から離れて行く。里奈はもう死んだ。それなのに魂が救われない。どういうことだろう。彼女が幽霊になっているとでもいうのか。
「一体どういう―?」
「私は死神。でもあなたが想像するものとは違います」
僕の言葉を遮るように、死神の少女は話し始める。
「死神は命を奪うものだと思っているでしょう。確かにそういった仕事もあります。でも、もうひとつ重要な仕事がある」
少女はふぅ、と息を吐き出した。春の夜にも関わらず、その息は白く染まった。
「それは、この世に思いを残して死んでいったものの魂を救済すること。そうしなければ未練のある魂は永遠にこの世をさ迷うことになるのです」
死んだ者の魂を救う。そんなことが現実にあるとはにわかには信じられない。しかし、オカルト商法や手の込んだ悪戯には思えなかった。どこのインチキ霊能者がこんな深夜に酔っぱらった男を捕まえて、こんな話をするのだろうか。
「里奈は六年前に死んだ……」
「そうですね。でもあなたはその過去を受け止められず、避け続けている」
少女の言葉に僕はたじろいだ。分かっている、そんなことは。でも分かっていても、僕は里奈の死を受け止めることなんてできない。僕は弱い。ひびの入ったガラス細工のようなものだ。少しの刺激で簡単に崩壊するような人間なのだ。自分でも情けない。みんなにも、里奈にも申し訳ない。だけどそこから戻る方法を僕は知らない。
「このままでは川合里奈の魂はずっとこの地上に縛られ続け、昇天することができなくなります。その鎖を解く鍵はあなたしか持っていない」
死神は言った。僕は何も言わず、ただ彼女を見ていた。顔に当たる涼しげな夜風が、これを現実だと僕に知らしめる。
遥か遠くで、車のブレーキ音が響いた。少女が静かに口を開く。
「私を信じるのなら明日、あなたがここへ初めて来たときに降りた駅に来てください。そこで待っているいます。明日が最後の機会です」
彼女がそう言い終わった直後、急に意識が遠のいた。かすかな視界のなか、里奈の影のようなものが死神の横に一瞬見えた気がした。