第一章 穂村正志 (2)
一人黙々と仕事をし、それを終えた頃にはもう、部屋に残るのは僕一人だった。時計を見れば、短針が十二の数字を通り過ぎようとしている。僕はため息を漏らして鞄を手に取ると、電気を消して暗い職場を一人後にした。
夜でも東京の町は明るい。人工の電気がきらびやかに町を繕う。僕はそれを尻目に、ただコンクリートの地面を見つめながら駅へと急ぐ。昼間は暑かったが、今は夜風が冷たい。
改札を抜け、人もまばらな駅のホームに立つ。無機質な夜の町を線路越しに眺めながら、ぼんやりと線路に飛び込む自分を想像する。この無意味なこの人生に終止符を打つ自分を。きっと痛みは一瞬だろう。僕という人間はただの肉片になって、電車を遅らせるただの迷惑な物体に変わる。簡単なことだ。だが、もちろんそれを実行したことは無い。だから僕はここに立ち、明日を待っている。
こんな僕を見たら、里奈はなんと言うだろう。六年前、僕を置いてこの世を旅立ってしまった、僕の幼馴染。あの日から、僕の日々が変ってしまった。だが、今それを考えても仕方がない。
もうあの頃には戻れない。もう会うことは許されない。だから僕はこれ以上行き場のない思いを増やさないために、記憶に蓋をした。
やがてけたたましい金属音とともに電車が到着し、ドアが開く。朝のラッシュとは打って変わってがらんとした、真夜中の車内が顔を覗かせる。
僕は空いた席のひとつに座ると、眼を閉じた。何も考えず、眠りもせず、ただ視界になにも映したくなかった。ドアが閉まる音が聞こえて、電車が動き出す。
もうすぐ彼女の命日だ。ふと頭にそんな考えが浮かぶ。川合里奈。物心ついた時には一緒にいて、ある日突然消えてしまった。それは確か、五月十八日だった。その日の出来事を思い出しそうになって、僕は頭を横に振った。彼女の笑顔が一瞬ちらついて消えた。
考え事を浮かばせては消しているうちに、電車が駅に着く。僕は電車を降り、いつものように帰路についた。入社した当時から住んでいる、駅から十五分ほどの距離にあるワンルームのアパート。 六畳ほどの広さのそれは、趣味もなく、付き合いもない僕が住むには十分すぎる部屋だった。
鞄から鍵を取り出し、鍵穴に突っ込む。がちゃりと音がして、扉が開いた。電気を点けて中を確認する。当然何も変わってはいない。妙にきちんと整頓された、家具が少なく生活感のない部屋。あるのは小さなテーブルにテレビ、それにノートパソコンぐらい。そして窓側の壁につくようにして置かれたベッド。
僕は背広をベッドの上に投げ捨てると、緩慢な足取りでユニットバスへ向かう。すぐにでも眠りに就きたいが、汗だけでも流しておきたかった。
Yシャツに手をかけたとき、ズボンに入れておいた携帯のバイブが鳴った。また仕事のことかと、ため息をつきながら待ち受け画面を開く。だが、そこに映っている名前は予想外のものだった。
「メール一件 大隅健」 僕の小学校以来の友人。そうだ忘れていた。明日古い友人たちで集まることになっていたのだ。内容にさっと目を通し、明日のことであるのを確認すると、服を脱いでシャワーへ向かう。
彼らと会うのは久しぶりだ。僕が地元を出て大学に行ってからは滅多に会えなくなった。それはちょうど里奈が居なくなった時期と重なる。いつも五人だった僕らはあの頃にばらばらになってしまった。
風呂から出てタオルで体の水分を拭き取ると、僕はまっすぐベッドへ向かう。寝巻を着るのも適当に、ベッドに横になった。
僕は視界を閉じて音だけの世界に入り込む。窓の外からトラックの走る音が聞こえてきて、やがて遠くなり、消える。
うとうととする間もなく、すぐに僕の意識は闇の中に溶けた。