第二章 旧友たち (1)
その日目が覚めたのは、午前十時を過ぎたころだった。五月十日、土曜日。今日は珍しく休日出勤はない。午後六時に大隅たちと会うことになっているが、それまでは自由な時間がある。だが、特にやることが思いつかない。とりあえず起き上がって洗面所へと向かう。
歯を磨き終え、顔を洗っていた時、ふと鏡に映る自分の顔が気になった。タオルで顔を拭き、改めて己の顔を、鏡を通してじっくりと見つめてみる。無精髭を生やした生気のない顔、目はまるで死人のようだ。我ながらひどいと思う。今の僕は過去の友人たちにどのように映るだろうか。あまり考えたくなかった。僕は短いため息をついてから、せめて髭だけでも剃ろうと、長い間放置していた使い捨ての髭剃りを手に取った。
時間は遅々として進まない。約束の時間までがとてつもなく長いものに感じられる。それは楽しみで仕方がないからという分けではなく、することが何もないという無気力さから出る部分が大きい。それに、彼らに会うのは不安でもあった。僕以外の皆が送る、ありふれた、だが充実した毎日。怖いのだ、その現実を突き付けられるのが。こんなことに怯えなければならないとは自分でそんな自分が情けなくなる。
寝巻のままでいても仕方がないので、とりあえず服を着替えた。時間はまだ十時二十分。六時まであと八時間弱もある。やはり家の中にいても何もない。僕は財布と携帯電話だけを持つと、当てもなく外へ出ることにした。
天気はどんよりと曇っていて、昨日に比べれば幾分か涼しかった。これなら歩くのは苦ではない。ただ、傘を持ってきていないのは気がかりだった。
自宅から少し歩けば、駅前の繁華街に出る。平日とは違って、仕事ではなく遊びのために来ている人々が多い。そのため、どこか僕には多少居心地の悪い活気に溢れている。
騒がしい人々の雰囲気に気後れしながら、やはり家でテレビでも見てじっとしていた方が良かったかと思い始めた時、一つの小さな美術館が僕の目に入った。
こんなものがこの周辺にあったとは、知らなかった。白くこじんまりとしたその建物は、まるで街の中に埋もれてしまって、喧騒に隠されてしまっているような印象を与えた。この時勢、ゆっくりと芸術に目を向けるような人間はほとんどいないのだろう。だが、騒がしい雑踏にうんざりしていた僕にはそれがとても魅力的な建物に見えた。
僕はふらふらとその建物に近づくと、入場料を払う。どうせすることもないのだ。ここで時間をつぶそう。そう考えた。
入ってみると、建物内は小さいながら、なかなか立派だった。白い壁に赤い絨毯(絨毯)の廊下、その両側にロープと警備員に守られた美術品が展示してある。
僕は様々な展示品を眺めながら、ゆっくりと足を動かして絵画の展示場所に向かった。そこで、しばし足を止める。大小様々な壁にかかった絵画を見てみれば、日本人の描いたものから遠い外国のものまで、少ないなりに展示してある。風景画に人物画、色々な種類の絵が僕を見返してくる。だが、昔は絵が好きだったのに、今の僕の心はそれにもほとんど反応を示さない。学生の頃はこうして絵を見るのが好きだったはずなのに。虚しさが心を過ぎる。
僕もかつて絵を描いていたことがある。中学、高校と美術部に所属し、一時は本当に画家を目指そうと思ったこともあった。あの時は絵を描くのが楽しかった。白いキャンパスに自分の世界が作り上げられていくのに心を躍らせたものだ。だがそれはもう過ぎた夢。もう何年も筆にも絵の具にも触っていない。もしもう一度それらを使えば、あの頃を思い出してしまうだろう。それが今の僕には一番辛いことだった。思い出は思い出としてしまっておくのが一番いいのだ。今の僕は、昔とは違う。
歩きながら、他の絵や芸術品も眺めて行った。だが、何一つとして僕には響かない。僕の心は隙間だらけなのに、誰も、何もその穴に近づくものはいない。結局その隙間は広がるしかないのだ。そして最後には心が無くなり、無に還る。それが、僕の人生というものなのだろう。
とりとめもなくそんなことを考えながら歩いていたとき、僕の目にふといくつかの絵が飛び込んだ。
まとまって壁に掛けられたそれらの絵は、何故か妙に僕の関心を惹いた。理由は分からないが、どこか懐かしい感じがする。僕は絵の前で立ち止まって、じっくりとそれらを観察する。
一つは、海の絵だった。夕日が海原に沈んでいく様子が、色鉛筆のようなもので丹念に描かれている。次は、冬の林だった。木の幹が突き出た雪原に、二人分の足跡が残されている。ただ、それだけの絵なのだが、白い雪の冷たさや美しさが水彩によって見事に表現されていて、思わず僕は唸った。その次は、紅葉の絵だった。太陽の昇った空を背景に、紅葉が雪のように降っている様子が描かれている。あまり見ない構図だが、太陽の光を受け、赤く輝く紅葉の様子が綺麗に描かれていた。最後は、一本の桜の絵だった。緑の木々に囲まれて、一つ悠然と咲いている桜の木。そこで、僕の頭に記憶の渦が迸った。これはまるで……。
僕はその絵から目を逸らした。あの絵は、僕が子供のころに見た景色にそっくりだった。気が遠くなる感じがして、僕はその四つの絵の前を急いであとにした。
僕はしばらく美術館の中にいたが、それ以上に関心を惹くものは無く、外へ出た。約束の時間まであと約五時間。とりあえず僕は近くのファーストフード店で食事を買い、近くの公園へ向かった。
「桜、か……」
一人そう呟く。また、桜だ。この公園は桜並木が有名で、四月には見事な桜が見られる。だが、今は五月中旬。花を散らした、満開とは言い難い桜の木が僕を出迎えてくれるだけだ。
ベンチに座り、ハンバーガーを一つ取り出して頬張る。今日初めての食事だが、あまり空腹は感じていなかった。桜の季節が終わったこの時期に、ここへ来る人間はあまりいない。そのため、ここは静かで心地よかった。
僕はふと、座っているベンチの隣に生えた桜の木を見やった。里奈は桜が大好きだった。子供のころからずっとだ。僕の地元では春になると桜祭りなるものが開かれる。今もまだやっているのかどうかは分からないが、そこに一緒に行ったときの彼女のはしゃぎっぷりは目に余るほどだった。
確か一度、なぜそんなに桜が好きなのか、理由を聞いたことがあった気がする。里奈はなんと言ったのだろう。
そこまで考えて、僕はまた記憶に蓋をする。これ以上思い出せば、また立ち止まってしまう気がした。彼女はこの桜の花びらように散って、この世からいなくなった。僕は代わりに、あの日のことを思い出していた。そう、僕という存在が変わってしまう切っ掛けとなったあの日。あれは六年前の丁度今ぐらいの頃だった。
僕と里奈は首都圏の同じ大学に入った。学部は違ったが、お互い初めての一人暮らしということで、頼りあっていた。その日も二人で会って、軽く相談事などをした後、それぞれの家に戻るために別れた。綺麗な夕焼けの日だった。
その時僕は普通のアパートに、里奈は安全性を考慮して女子専用の学生マンションに住んでいた。だが、悲劇は住居ではなく、帰り道に起こった。
何も変わらないと思っていた日々は、簡単に打ち砕かれた。
彼女はその時、歩道を歩いていた。そこにトラックが突っ込んだ。即死だった。弾き飛ばされた里奈は全身を強く打ち、琴切れた。原因はトラック運転手の居眠り運転。里奈はそんなもののために、辿るはずの人生を奪われたのだ。
僕が次に里奈に会ったとき、その顔には白い布が被せてあった。信じられなかった。もう動かない、冷たい体。幼い頃から一緒に遊び、喧嘩し、笑い、怒り、泣いた彼女はもうそこにはいなかった。それを見たとき、僕の中で全てが崩れたのだろうと思う。
僕はみっともなく、散々に泣き崩れたあと、すべての過去から逃げ出した。思い出の中にいたら、ずっとそのなかに浸ってしまいそうな気がして、眼の前の必要最低限のことしか見なくなった。そう、それが今の僕だ。だがそうするしか、僕には前に進む方法が分からなかった。
食事を終え、ゴミをベンチの隣にあるゴミ箱に捨ててから立ち上がる。そしてその時に初めて、僕は自分を見つめている存在に気がついた。
「穗村正志さんですね」
春の空の下に、凛としたその声は良く響いた。
その少女は僕を見ながらそう言った。今時珍しく青紫の和服を着た、色白の少女。歳は一六、七歳ほどであろうか。腰までありそうな黒髪が風に靡いている。だが、僕を見つめる彼女の瞳は、普通ではありえない紫色に輝いていた。
「君は……」
そう問いかけたとき、彼女は口元に小さく笑みを浮かべたように見えた。その瞬間、突然つむじ風が吹き、思わず目を閉じた。そしてもう一度目を開けると、もうあの少女は居なくなっていた。まるで煙が風に飛ばされたように。僕は茫然と、彼女がいたはずの場所を見つめていた。
一体何だったのだろうか。あの少女がいた場所を見るも、その形跡はかけらもない。幻覚でも見たのだろうか。僕は頭を軽く押さえる。仕事のやりすぎかもしれない。疲れているのだ。自分にそう言い聞かせて、僕はその場を去った。だが、この出来事は妙に頭から離れなかった。まるで、あの少女がなにか重要なものを、笑みの中に残していったかのように。




