第四章 いつか見た世界 (1)
気が付くと、僕は広々とした場所にいた。この場所が先程までいた駅のホームではないことは、遥か先に広がった、陽炎に揺れる青い大海原が教えてくれている。いつの間にか僕は大海原を前に、熱く焼けた砂浜の上に立っていた。雲ひとつない空からは白い太陽の光が降り注ぐ。人の姿はない。聞こえるのは穏やかな波の音だけだ。
死神の少女は確か、記憶の旅と言っていた。それで分かった。僕はこの光景を知っている。高校最後の夏休み、僕はここへ来た。里奈と、そして皆と。
僕は砂浜の上を歩き出した。里奈を救う手掛かりを探し出さなければならない。海辺には人の姿は何もない。現実感のない光景だが、足を踏み出す度に感じる柔らかな砂の感触が僕がここに確かに存在することを教えてくれた。
僕は歩き続けて、そして見つけた。
古い、白い電車が線路を走って行くのが見える。その車窓の向こうに、昔の僕の姿があった。
鼻を擽る潮風の匂いが、少しずつ僕の記憶を呼び覚ます。僕は自分を見ていた。電車に乗り、海を目指していた高校生の自分を。
体から力が不意に抜けた。まるで眠りに落ちるような感覚がして、僕はかつての自分に重なるように心を委ねて行った。あの日の記憶が、体の奥から洪水のように広がって行く。
僕らを乗せた、たった一両の電車が目的の駅に着いた。立ち上がると同時に、僕の背中からポキポキと音が鳴る。長時間座っているだけというのも結構疲れるものだ。忘れないように、持ってきた絵描き道具を持ち、僕は電車を降りた。
「やっとついたか、結構長かったなー」
Tシャツに短パンと動き易さを重視した格好の大隅が、腕を上に伸ばしながら言った。薄暗い電車から降りてきたせいで太陽の光が目に痛い。高校三年の夏休み、僕と里奈、大隅、中津川、秋野の五人は思い出作りにと、どこか遊びに行くことになったのだが、そこで大隅が見つけて来たのがここの海だった。中学卒業以降は皆別々の進路を辿っていたので、こうして五人集まるのも久しぶりだった。
今僕らが住んでいる街から電車に揺られること一時間半、大隅によると観光ガイドにも載っていない穴場ということだったので、期待半分不安半分でやってきたのだが、第一印象は悪くない。無人の木造の駅舎を出ると、線路の向こうに白い砂浜と青い海が広がっているのが見える。僕は手で顔に影を作りながら、空を見上げた。こちらも雲ひとつなく澄み切っている。良い天気だ。カモメが二羽、寄り添うようにして青い空を横切った。
「綺麗なところね」
僕の隣で里奈が言った。少し茶色の混ざった黒い髪が肩に垂れれいる。白いワンピースに麦わら帽子と、夏らしい格好がよく似合っている。
「うん。正直大隅の情報だけだと大分不安だったけど」
僕は里奈に言った。彼女は微笑みながら「そうだね」と言う。
「ふん。でもこれで俺が正しかったと分かったろう」
後ろで聞いていたらしい大隅が言った。その顔は大分得意げだ。その大隅に秋野が言う。
「何言ってんの、あんたが曖昧な情報しか言わないからこっちも心配になるんでしょうが」
「まあ結果オーライじゃないか」
中津川が言った。汗で眼鏡が曇るのか、しきりにレンズを拭いている。その格好はジーパンにYシャツとあまり涼しそうではない。
「でも貴重な夏休みなのに勉強しなくていいのかなあ」
「なに、固いこと言うなよ中津川。来たからには楽しまなきゃ損だ」
大隅は豪快に笑う。中津川は地元の国立大学を受験することになっているのだが、大隅は高校を卒業してすぐ親の店を手伝うことになっている。やはりそこに意識の違いがあるのだろう。僕はというと、まだ受験する大学を迷っている。本当のことを言えば美術大学に行き、絵画を学びたいのだが、僕の腕や家の経済状況では厳しい。どこかの国立大学が精一杯だった。
「そうそう海よ海!早く泳ぎましょうよ!」
青い海原を目の前にして、子供のように秋野がはしゃいでいる。だが目の前は線路だ。どこか踏切を渡らなければ向こう側へは行けない。僕は左右を見回してみて、二、三百メートルほど先にかろうじて見えるそれを見つけた。
「あそこに踏み切りがあるよ。あそこから渡ろう」
それを聞いて秋野が不満そうな声を漏らす。
「あそこまでいかなくたってこの線路突っ切っちゃえばばいいじゃない。電車なんてそうそう来なさそうだし」
「でも危ないわ。こんな日に事故なんて嫌だし。万が一のことがあったら……」
里奈が言う。秋野も彼女には逆らえないのか、しぶしぶ折れた。
「もう、心配性なんだから里奈も穗村も……」
「まあ用心に越したことはないよ。ここあんまり人がいなさそうだし」
中津川が言う。彼の言う通り、この辺には民家はほとんどなく、広い砂浜にも海水浴をしている人影はポツリ、ポツリといるくらいだ。やはり電車が一本あるだけでバスも駐車場もないという交通の便の悪さのせいだろうか。しかも近くに泊まる場所もなく、僕らは大隅の提案でキャンプをすることになっていた。こんなところで怪我でもしたら、助けを呼ぶのに普通の数倍の労力を必要としそうだ。
「十分も掛かんないだろ、いこうぜ」
いかにも楽しそうな声で大隅が言う。彼はスポーツ万能で泳ぎも得意だったはずだ。彼は一人でキャンプ道具やクーラーボックスを持っているのに、重そうな様子は微塵もしない。体力に自信のない僕としてはその力は羨ましい。
僕たちは駅舎を後にして、太陽に焼かれたコンクリートの上を歩き出した。道路を挟んだ海の向こうは背の高い深緑の草が生い茂り、そのずっと向こうには大きな山が聳えている。
歩いているうちに、すぐに汗が噴き出してきた。時折吹いてくる潮風が濡れた額に心地よい。
「暑いわね~」
不満そうな声で秋野が言った。里奈が彼女をなだめるように言う。
「ほら、もうすぐ海だから」
里奈の言うとおり、僕らはもうすぐ踏切を渡るところだった。その向こうにはすぐ、白い砂浜が広がっている。僕は踏切が沈黙したままのを確認しながら言った。
「大丈夫みたいだね」
「よし、思いっきり泳ごうぜ」
大隅は少年のような顔でそう言うと、いきなり走り出した。そしてそのまま砂浜に突っ込んで足を取られ、見事なこけっぷりを披露する。
「ばっかね~あんた」
「まったく、危ないなあ」
秋野は笑いながら大隅に続く。次に中津川、そして里奈、最後に僕が砂浜に入った。コンクリートとは違う細かな砂の柔らかな感触に、改めて海に来たと実感する。解放感を覚えて、僕は潮風を思い切り吸い込んだ。




