9
「僕はもう無理です!」
叫んでガバッと布団から身体を起こす。
見渡して気付いたのは夢だった。
でもこんなセリフが出るくらいには色々負荷がかかっているのだろう。
身体全身が痛い。特に腕がだるい。
壁にかかっている時計を見る。
十時という事実に驚く。
結構寝てしまっている。
急がないと。
部屋の戸を開けると目の前に仁王立ちする巨人……いやスカーレット。
「何が無理なんだ?」
ものすごく真剣な眼差しで僕の目を見る。
試されているかもしれない。
「え?あ、夢を見たんですよ」
実際そうだしそれ以上何も言えないし。
「そうか。ただ、かなり寝言が聞こえていたぞ。やめろーとか、できないーとか。夢の中で何していたんだよ」
ああ、からかってきただけだったかと胸をなでおろす。
でもその代わり恥ずかしさが一気に込み上げる。
「いや、覚えてないです。本当に。ただ、たった二日で僕の常識が覆りすぎて疲れたんだと思います」
「そういうものなのか。ところでなんだが、浴室がやたらと寒かったが何かしたか?」
「……換気扇つけたまま入りました?」
「なんだそれは」
知らないとか噓でしょ?
「換気扇回さないと浴室カビますよ……浴室の水気飛ばしているんですけど……」
「庶民はそんなこと気にするのか……いや、カビは困るな……とかく次からはその換気扇を切ればいいんだな?」
「もちろん、出た後はつけてくださいね」
驚いた、ほんとに生活力皆無だ。
彼は小さくつぶやく。
「庶民の知恵も捨てたものではないな」
しかし、すぐに表情を変えて言う。
「後洗面所に血まみれの布があったがお前のだな?忘れるくらいなら置くな。見栄えの悪い」
「あ、洗おうと思って忘れていました!すみません、すぐ片づけます」
立ち上がろうとしたところを言葉で制止する。
「いや、今は洗面所に行くな。十時~十時半まではあいつの自由時間だ。だから先に買い出しへ行くといい。これも買っといてくれ」
おつかいメモを渡される。
見慣れないアイテム。
「これって何に使うんですか?」
「あいつの餌だ。洗面所の適当な棚に突っ込んどけ。勝手に探して勝手に食っている」
「人間って固形物メインで食べるんですね」
色々食べるらしいけど、メインは液体だとずっと思っていた。
「お前それ真面目に言っているのか?」
呆れられてしまった。
「え、常識なんですか」
「いや、それでよく世話するのかって聞いたな」
「するっていうなら、どうしたらいいですかって聞くつもりでした」
「ポンコツめ。もうちょっと本読め、本」
「そもそも本ってどこで買いますか?」
ちょっとむかついたので噛みついていく。
「B層だが、そこなら入れるだろ」
庶民にそんな資産的余裕は基本ない。
「それ真面目に言っていますか?」
「黙れポンコツ。さっさといけ」
蹴り飛ばされる。まあ、普通に僕が悪い。
そういって彼はリビングに戻っていった。
僕は着替えて……ちゃんと代理印章も持ちまして、行ってきます。
もうB層に買い物へ行くワクワク感は少し薄れていた。
人間の餌売り場へ。見慣れないものがたくさんある。
中に何が入っているかわからない金属の筒。
魚の絵が描かれている。
筒の側面に輸入品って書いてある。
……アンスロポリス産と。
確かに人間主体の国だし十分な生産はされているだろうけど……敵国なのに。
よく見たら輸出元はケントロン・シミオ。中立国が間に入っていた。
だからか、この金属の筒は他より高い。
逆に僕らの国から輸出するようなものってあるんだろうか。
こういうのもまたスカーレットに聞いたら本読めっていわれそうだな。
必要なものを買って家に戻る。
「ただいま戻りましたー」
今日はいきなり走りだしたりしないでくれよ。
時間は調整して十一時。
確実に入って大丈夫なはず。
とりあえず危険因子の僕らの食べ物を連れていく。
なんで小分けの飲み方流行らないんだろう。
その方が変な情も湧かないし、楽なんだけどなあ。
生の方がおいしいのは間違いないけれど。
今日は特に問題なく部屋まで押し込めた。
でもスカーレットが見当たらない。どこ行ったやら。
気にせずあの金属の筒を洗面所の棚に入れていく。
さて、洗面所に置きっぱなしの僕の血まみれの布はそれ用の洗剤……高級版で洗う。
やっぱいい匂いだし、汚れが落ちる落ちる。
僕はもしここから追い出されたとき、前の日常に戻れるのだろうか。
中途半端に上流の味を知るのが一番危険な気がする。
洗って絞って……どこに干そうか。一旦思いつくまで蛇口にかけておこう。
洗濯物も回し、済んだ服やらタオルやらは棚に直す。
何度棚をパカパカしただろうか。
全部同じ見た目のせいで全く覚えられない。
あの紅い扉の女性も同じことをやっているんだろうか。
でも掃除機が入っている場所は唯一縦長いので覚えている。
一通りかけたところで、彼の寝室にも突撃するか少し悩んだ。
しなくて怒られるなら、して怒られる方が言い訳はしやすいはずだと、扉をゆっくり開ける。
彼の趣味全開の光景に口が開いていた。
書斎の机と椅子の雰囲気が更に高級感を増して現れたような感じだ。
ベッドがやたらとでかい。
三人は寝られるぞこれ。
逆に一人で寝るには広すぎて寂しくなりそうだ。
布団もクソデカいしまた高そうな生地だ。
ちょっと触る。
……これは羨ましい。ふわっふわの手触り。
僕の布団もぜひこれに変えたいところ。
ベッドの脇の机に本が数冊。
プライベート空間に持ち込んだ本は一体……。
『マーケティング戦略』と『交渉心理学』。
ちっとも面白くない。
隠れて薄めの本が一つ。
『女性とのコミュニケーション』
思わず吹き出した。
こういうのだよこういうの。
僕が言えた試しはないけれど、あの歳でまだ結婚してないってなるとそろそろ気になる時期だろう。
僕もそろそろ考えないとなとは思ってはいるけれど、こんな生活していて女性に巡り会える気がしない。それに、させてもらえないかもしれない。
それは彼も同じかもしれない。
……じゃああの紅い扉の女性は本当になんなんだろう。
本当に謎が謎を呼ぶ家だ。
じゃあ、掃除機かけよう。
家具が多くてあまりかけるところは少ない。
ただ、ベッド周辺は少し埃っぽく見えたので掃除機を入れ込む。
その瞬間、ゴッという音が嫌に重く聞こえた。
釣れたのは開封済みの封筒だ。
ルフス・フォン・アルビオンという人宛にむけて。
もしかしてこれスカーレットの本名?
ここまできたら中身も見たい。
今日は自分の中の悪魔の方が強かった。
周囲を確認して……よし、読もう。
『ルフスへ。そろそろ長男として家を継ぎなさい。いい加減にしないと受け入れてくれる家も減ります。今回のお相手は十分条件がいいと思います。一度実家に戻りなさい。あの事はサンディークスに任せておけば大丈夫です。仕事が回らないなら、少し損益が出てもこちらから補填します。来年の春までに返事がなければ使用人を送ります』
情報量に頭がオーバーヒートする。
政略結婚を迫られている。
しかもかなり怒られているのは返事を返してないんだろう。
サンディークスって誰だろ……弟さんの本名?
推測ばかりだ。
このままだとスカーレットが危ない気がする。という事は僕も危ないのでは?
これは由々しき問題だ。
僕、解雇ありえるんじゃないだろうか?
流石に返事は返した方がいい。
この件を聞くのはとても怖い……蹴りで済むだろうか。
その手紙を元の場所に戻した。
その時、ベッドの下には大量の似たような紙。
他にも手紙をここに隠している。
もう他のを読む元気も、勇気もない。
彼も苦労しているんだ。
「掃除は終わったか?」
ひっ、と声を出してしまった。
「何かやましいことでもしていたのか」
「ちょ、ちょっと掃除していたら掃除機が大きいものを吸ってしまって」
「まさか読んだか」
「……そのまさかです」
沈黙。今朝見た夢をたった今思い出した。
日常に戻ってそれを受け入れられない夢。
正夢に一歩近づいた気がした。
スカーレットは静かに問いかける。
「……どう思った」
思ってもない質問。
正しく答えられるだろうか。
「まず、本名に驚きました。次に家を継ぐ重責を感じました。最後に僕は……返事を返したほうがいいと思いました」
言葉に嘘はない。
それだけが僕にできる最大限の敬意。
「一つ、アルビオン家をお前は知っているのか?二つ、それはどの程度?三つ、俺はそうしたくないと言ったら?」
嫌な汗が伝う。
全力で言葉選びに集中する。
「まず、知っているかというと知りませんでした。ただ、名家なんだろうなというのは感じました。次に、自由恋愛が出来ず、家のために己を捧げる必要があるということについて、僕はこんな社会があるのかとまた常識をひっくり返す程度です。最後に、僕は……」
そこで言葉が詰まってしまった。
でも、彼は最後まで言い切るのを待っている。
「僕は、返事を返すまで毎日聞き続けます」
周囲環境の圧力によって出てきた言葉はかなり強気な言葉だった。
集中はしていたはずなのに。
「そうか」
それだけを言って彼は踵を返した。
手ごたえのない反応に僕は気持ちのガス抜きができない。
僕も部屋を出る。
彼は書斎の椅子に座りながら頭を抱えていた。
ただ、何をするでもなく、両手で自分の頭を包んでいる。
地雷踏み抜いたことだけはわかる。
十二時半。どうする。
こんな状態で仕事なんてできるんだろうか。
だけど、そんな僕のパニックの後ろで予想外のセリフ。
「なあ、俺はどうしたらいいと思う?」
彼はものすごく弱気な声。
普段じゃ考えられないくらい。
その質問は、彼自身解決したくてもできない問題すべてに対する解答を求めているようだった。
そんな万能な解答、僕が持っているとでも?
でも、何か言わないと。
「僕は……嫌なら直接嫌っていうしかないと思っています。それが決して通らなくても、意思を見せることに意味があると思っています」
彼に背を向けたまま小さく言った声は、ちょっと震えていた。
彼の姿を見たら、いけない気がして。
「それを言って、全てが壊れるとしてもか?」
難しいことばっかり。
僕はそんな複雑に考えて生きてない。
考えても、考えても、いい言葉は見つからない。
さっきから僕も不安でつぶされそうなんだ。
簡単な答えにしか行きつかない。
気が付けばそんな言葉が口から漏れていた。
「なんでも持っているのにまだ何を求めるんですか。一度落ちるところまで落ちてみたらいいじゃないですか。僕は一度全てを失いましたよ?失ったら今度、持っている人が拾う。結局そうなんじゃないですか」
自分の語気は思ったよりも強くなっていて、吐き捨てる様だった。
感謝するべき相手に当たっている自分を醜く思う。
もう死んでもいい。殺されても文句は言えないと思う。
「今までそんな言葉を俺にぶつけてきたやつは初めてだ」
もうどうにでもなれ。
突然机を叩く音。背後で続きの物音。気配を感じる。振り向こうとした瞬間にはもう背中に痛覚。多分スカーレットの蹴り。
思わず痛みに叫ぶ。その痛覚が現実を見せる。心臓が飛び出そうだ。そのまま姿勢を崩す。恐る恐るスカーレットの方を見る。
「つくづく使用人のくせに生意気な奴め」
語気にその怒りはまだ乗っている。彼は自分の足を見下ろし、目を閉じ、歯ぎしりをしている。
僕はその歯ぎしりの音に血の気が引いていく。
しかし、彼は急に怒りを押し殺すように深呼吸を始める。一拍おいて身体の力を緩めて話し出す。
「ならお前のお望み通り返信してやる。だが、手紙じゃない。直談判だ。お前が言ったことだ、最後まで責任をもってついてこい。使用人としてお前を買っていられる余裕がなくなるかもしれない。つまり今日が最後になるかもしれない」
僕も彼も、人生の大きな岐路に立たされた。
「着替えろ。行く準備だ。ただ俺の実家は結構距離がある。車だと時間がかかりすぎる。列車で行く。昼からか……親に頼むのは癪だが宿も含めて夜通し戦いになると思う。勘当されたときは野宿のつもりでいろ」
落差に嘘だろってなったけれど、落ちるってそういうことだろう。
返事して、急いで準備した。これもまた僕の言葉の責任。
着替え終わってリビングに戻ってきたとき、彼は電話していた。
「事情が変わった。代理やってくれないか。実家に帰る。ああ、そうだ。わかった」
受話器が下りる。
でも僕の方を見ずにもう一度受話器を上げ、電話帳を開く。番号を入れるその指は少し震えている。
接続までに息を吐く。
「ルフスだ。父上か母上はいるか。……取り次いでくれ」
こっちまで緊張してくる。
「お久しぶりです母上。……お話は後で伺います。今からそちらへ赴いてもよろしいでしょうか?ええ、列車で。夜になるかと。構いませんか?……はい。承知の上です。いや、ですからそれは後ほど直接……。父上も参集可能ですか?……失礼いたします」
こんなに弱腰な彼を僕は見ていられなかった。
ただ、これは序章。実家に帰ったらもうそれは当たり前の光景にきっとなる。
僕は経営者としての強い彼の背中と、重責の圧に負けている弱い彼の背中も、どっちも受け止めなきゃいけない。
そうこうすると勢いよく扉を開けて弟さんが乗り込んでくる。
「ルフス、どういう風の吹き回しだ!仕事ほったらかして、急に実家に帰るだ?俺はただでさえやることが多いんだぞ!」
完全に修羅場。
家族総出で喧嘩になっている。
いや、どんだけしがらみあるんだよ。
水面下で醜い感情たちのぶつかり合い。
それは僕も彼も弟さんも親御さんも、みんなで。
「気が変わった。また気が変わらないうちにやらなければならないケジメをつけに行く。それがたまたま今日だったというわけだ」
「気が変わった?気分で決めんのか。いい加減にしろよ。何でもかんでも俺に押し付けて」
弟さんも、仲良く見えて、心の内は煮え切らない思いでいっぱいだった。
「ああ、この際言うけどさ、正直、ずっと経営判断は俺がやったほうが絶対良くなるって思っていた」
弟さんは言葉の勢いに合わせて手ぶりは大きくなっていく。
「それに俺の方はディーラーとして、プレイヤーとして、経営者として、密偵としてなんでもやってきた。そんな俺がいつまでたっても評価されないのは、ルフスのせいだよ」
深い嫉妬がこの空間に満たされる。
完全に頭に血が上っていて、すべて言い切るまでは止まらない暴走列車と化している。
「……サンディークス、俺が……お前を……歪ませていたのか……」
詰まるルフスに対して迫るサンディークス。
「別に謝ってもらおうだなんて思っていない。ただ、俺にもケジメつけてから帰れ。やる気ないなら全権を俺に寄越せ」
「すまない、今は判断できない」
そんな判断、こんなすぐにできる人なんていない。
もう決定事項ならともかく……。
「いい加減にしろよ!いっつもいっつも先延ばしにしてさあ!」
火に油を注ぐ。
「俺は……ずっとサンディークスに感謝していた。していたつもりだった。でもできてなかったんだよな。申し訳ない。怒るのもごもっともだ。俺はいつも先延ばしにして、色々失格だと思う。だが、少し、あと少しだけ待って欲しい。それが決まったら全部清算する。だから、今はここを通してくれ」
今ルフスは必死に自分の弱さに向き合っている。
その中で、優先順位を決めている。
それに、今全権を譲って親に顔向けできるだろうか。
仮に政略結婚を受けることになったとして、その先にあるのは真っ暗闇だ。
たとえ受けないことになっても仕事を持たない彼に人権があるだろうか。
多分、ルフスは心が折れそうになりながらも冷静に状況を判断しているんだと思う。
「……行くぞ」
僕は黙ってルフスについていく。
「ルフス!……戻ってきたら必ず返事しろ」
その返事はない。
ただ、玄関の扉が閉まる音はサンディークスへの返事になっただろうか。
その後の僕らの旅路が如何に窮屈で苦しいものになるかなんて、想像に容易くて。
列車も一番上のグレードの席に座ったことも、素直に喜べなくて。
確かにすごかった。すごかっただけ。
車窓を見つめるルフスの顔に夕日がかかって彼の名前を表す色をしていた。
その紅の深さは、そろそろ僕にも手が届きそうだった。
ずっと超人だと思っていたけれど、そんなことはなくて。
取り繕っていただけだったから。




