隠蔽されたグラスハートⅢ
しかし参った。宝生から逃げるようにして教室を出たはいいが、これじゃ戻れない。何か良い言い訳を取り繕わなければ、色々とバッドエンド直行ルートだ。
「さて」
トイレの壁に寄り掛かり、天井を見上げる。タイルの隙間に黒苔が着いているのが見えて、これじゃ壁も汚いかと思い至り、すぐに背中を起こした。
代わりに視界に入るツキヒのアホ面。……ぶん殴りてぇ……。
ノリでここまで来ちまったが、考えてみれば一度、宝生から離れる必要はあった。ツキヒがしでかした以上、俺がアドリブで誤魔化すにも限界がある。ツキヒと口裏を合わせなければならないが、ツキヒにアドリブを期待するのは酷だろう。それが嘘ならなおさらだ。
カードも見られた以上はどういった趣向の店かもある程度バレてる。知り合いが居る店だから懇意にしている、というのも、宝生が行きたいと言っている以上はリスクが高い。
状況の優先度を修正する必要がある。
まず最優先事項は、俺たちがヲタクである事がバレないようにすること。
次の懸案事項は、カガミに寄生したピクシーを処理すること。
そして次席に、宝生が得てしまった俺達の情報を偽造すること。
一つ目と三つ目が同じに見えるかもしれないが、これがまた微妙に違う。宝生はあの性格だ。不用意に俺達の情報を他者に流したりはしない。だから、宝生から学校の皆に俺達の情報が流れる心配はほぼ無いと言える。つまり、俺達自身の秘密保持と、宝生が得た情報は、別物と考えても構わないだろう。
最優先事項を達成するためには、学校内でこれ以上の情報収集をしなければいい。既に色んなやつから「店員と仲良くなるためには」に直結する質問をしてしまっている。頭の回転が速いやつ、そう、例えば石動みたいなやつがこの状況を見れば、一発で『ダブル~グラスの店員と仲良くなろうとしている』とバレるだろう。これが一番まずい。
次の事項に関しては一端保留。学校での情報収集が出来なくなったのだから、異なるアプローチを考えなければならない。
最後の問題については……。
「久志」
思いつくと同時に、俺はその名を呼んでいた。
「ん? なに?」
暢気にクビを傾げた大馬鹿野朗に、俺は一言こう告げる。威圧的にならないよう、なるだけの笑顔を作ってから口を開く。
「――失敗の責任を取ってもらおうか」
その言葉に、ツキヒは血の気を失っていく。
威圧的にならないようにしても高圧的には出来る。人間ってのはまぁ器用な生き物だ。
「えっと、どういうこと、かな? 僕、日本語ちょっと解らない」
「安心しろ。お前が喋る必要は特に無い。ただちょっとおとなく死ね」
「その日本語は本当に解らない! おとなくし死ねってどういうこと!?」
「細かいことは気にせず死ね」
「悪かったから! 本当に悪かったと思ってるからどこに行こうとしてるのさまだ話は終わってないけれど!」
「終わったさ。何もかも全部」
「まだ大丈夫だから! 孝一郎が本気を出せば僕が死ななくてもなんとかなるはずだから!」
「そうだな、あすなろに頑張る」
「明日から頑張ろう! じゃない! 今から頑張ろうよ!」
うるさいやつだ。ともかく構わず、俺は便所から出た。袖に纏わりつく形でツキヒも続く。すると、宝生もそこで待ち構えていた。俺達に詰め寄る気満々だなこいつ。しかし、こんなところに居るなら、さっきの大声のやりとり、つまりツキヒが俺を止めようとする声とかも聞こえてたわけだ。
結構だ。
「さて、フジサン、観念して、私をダブルブラクロスに連れて行って!」
名前を覚えてないなら脅威度を落としても問題無かったかもしれない。
だが、決めた事は決めた事。ツキヒの犠牲の元、先の優先度から順に解決していく。
まぁ、多分、このやり方は色々な物を失う事になるだろうが、本当に、色々な物を失う事になるだろうが、失うのは基本的に俺じゃない。だから問題は無い。
「宝生」俺はなるだけ真剣な面持ちで宝生に近付く。「頼みがあるんだ」
すると宝生は一歩身を引き、生唾を飲み込んだ。いきなりテンションが落ちたため動揺しているんだろう。
「なら、急須も、あったほうが、良い……?」
「湯のみは無い」
動揺しているせいだろう。いつもフリーダムなボケが今回は迷子になって解りづらくなっていた。
「ね、ねぇ孝一郎、ちょっと待っ」「久志は黙ってろ」
駄々を捏ねるツキヒの言葉は切って捨てて、宝生の肩に手を乗せる。
「こんな話がある。最近久志の家は電化製品が軒並み故障してんだが、安く良い物を手に入れようとした久志は秋葉原に赴いた。秋葉原はアニメとかでも有名だが、何より電化製品の聖地だからな」
そこで一度言葉を切る。宝生を唇を尖らせて小首を傾げている。どうしたら良いのかまだ解らずに困っているらしい。
俺は続けた。
「しかし、電化製品を買おうとしたその日、久志は財布を落とした。困っていたところ久志の携帯に電話が来た。出るとそれは素知らぬ女。その女はこう言うんだ『あなたの財布を拾ったので、入っていたカードから携帯の番号を調べさせてもらいました。このお財布どうしましょう』とな」
宝生は「ほへぇ」と反応を示した。まぁ、美談だろう。嘘だが。
「久志が『取りに行きます』と言うと、その女は『仕事中なので、職場に来て頂くか、交番に届けようと思うのですが』と答えた。久志は職場に行くと告げて、走った。そして辿り着いたのが、ダブル~グラスというメイド喫茶だったんだ」
あの時の久志は焦っていたから、多分まともにこの時のことを覚えていないだろうがな、という弁護を挟むことで、口裏合わせの必要性を弱くするのも忘れない。
「そのカードはその時に作ったもんでな……いや驚いた、家電を買うために言った秋葉原でああいう店を体験することになるとは思ってもみなかったからな。……と話が逸れたか」
ともかく、と、俺はいくらかの間を置いてからこう付け足した。
「相応しい恩返しとは何か、宝生は何が良いと思う」
「へ? お、恩返し……?」
ここで首を傾げる宝生・ならばと俺は追い討ちを掛ける。
「そう、財布を拾ってもらった礼に相応しいものは何か、だ」
「えっと、それってつまり……」
なおも首を傾げ、宝生は自分の唇に指で触れる。そこからさらに考えるような仕草を数秒した後、白々しく閃いたような態度でこう言った。
「一目ぼれ、とか……?」
「はぁぁ! な、な、宝生さん何を言っているのかなそんなわけがないじゃないか!」
「という久志の慌てふためきぶりから察してやってくれ、宝生」
「そ、そんなツッキー……ツッキーはこう、恋愛とは無縁の人だと思ってたのに!」
「それはそれで酷い!? 前提も結末も全く事実と違うのだけれど孝一郎これどう収拾つけるのさ!」
「収拾はつけない」
「断言!? あれ、これ僕、理不尽な活用をされた上に見捨てられた感じ!?」
「大丈夫だよツッキー、当たって砕けろだよ! 骨はちゃんとおじいちゃんのお家で育ててるタイマの肥料にするから!」
「びっくりするほど大丈夫ではないのだけれど! え、待って、僕のことはもうどうでもいいとして宝生さんちの家庭事情が気になる!」
「え、それは困るよツッキー、両親への挨拶はまだ百年早いって思うな……」
「え、ここで真顔……?」
宝生と久志がほぼ同時に黙った。ふむ、良い感じに温度が下がったのはまぁ良いんだがそれにしても宝生の自由さは自由過ぎてあれだな、もうツキヒのツッコミスキルでは追い着かなくなってるしな。個性的な人間ってのは大変だ。
言いたい事を言う。やりたい事をやる。当たり前のようでありながらその実、非常に難しい事だ。それを、今の宝生はやってのけている。恥も外聞も捨てて、他人なんて気にするのを辞めた宝生優莉という人間。
その人格を考慮すると、だ。今陥っている事態というのは、よく考えずとも俺達に有利な状況だった。
「ともかくだ宝生、この月島久志がな、そのダブル~グラスに居る店員とお近付きになりたいそうなんだが、何か良い方法が無いかと思ってな」
「良い方法かぁ……えっと……」
答えあぐねる宝生。その真正面でツキヒが苦笑している。そりゃ、何を言い出すか解ったもんじゃないが故の冷や冷やだろう。だが、ツキヒはここいらで気付いても良いはずだ。
宝生という人間を、その人格を理解しているのなら到達する答えがある。
宝生は今まで、個性的過ぎる内心を隠し、人のためにと明るさを振りまいてきた。それを、表向きではツキヒが説得し、辞めさせた、傍から見たら変化など見えないかもしれないが、宝生は確かに、自分のやりたい事をやるようになった。
その他人に合わせるのを辞めた宝生が何故ダブル~グラスに行きたがるか。可能性はいくつかある。
ひとつ、元々そういう店に興味があった。
ふたつ、話題を合わせるため。話題作りのための社交辞令。
みっつ、当人に興味があるから。
二つ目については、先述した通りだ。ツキヒが辞めさせることに成功している。
残る一つ目と三つ目。
一つ目だったら俺達としては隠れヲタクの同士か! と喜びたいところだがそこは一先ず置いておこう。肝心なのはどちらであるかではない。どちらも共通して利用価値があるという点に注視すべきだ。
元々そういう店に興味があったのだとしたらそれはそれで構わない。宝生の事だ、カガミ本人からカガミの個人情報を聞きだせる程度に仲良くなるのは、造作も無いだろう。
もしも当人に、つまりツキヒに興味があるのだとしたら、すなわち良き知人として――願わくばいつかの恋人候補としてツキヒに好意を抱いているのだとしたら。
その場合は二択になる。好きな人の恋愛相談など受けられないからと断られる、つまり宝生がダブル~グラスに行くのは辞めると言い出すか、もしくは徹底的に親身になって協力するかだ。
好意を寄せている相手が他人と交際するための協力をするって時点でお人よしにも程があるだろうが、残念ながらこの世の中、お人よしほど苦労するシステムになっていて、お人よしはいかなる理由があろうと、好意を寄せている相手の頼みを断る事は殆ど出来ない。
そもそも、宝生は先日まで他人に心を開かない人間だった。だが、ほんの数人を限定に心を開いて見せた。ありていに言えば本当の友達。その友達に、ツキヒも含まれているだろう。その数少ない友達が思いを寄せている相手だ。知りたいとは思わない、なんていいだすほどに宝生が薄情だったのなら、きっと他人の幸せがどうこうで悩んでいたりはしなかっただろう。
なんにせよ、これで罪。ひとつひとつは不確かでも、言い訳もこれだけ揃えば理由のロイヤルストレートフラッシュだ。宝生は俺達に協力しない道理は無い。
「えっと、とりあえずなんだけど」宝生は自分の頭を掻きながら、苦笑して言う。「その人に会ってみないと、何も解んない、かな?」
事態の本質に気付いていないのであろうツキヒは恨めしそうに俺を睨んでいる。俺は素知らぬフリをして、廊下の外を見た。
安堵している俺が居る。
何にって、そりゃ、石動と話をせずに済んだことに、だ。
なんだろうな、あいつ、こえぇんだよな。それに事実、この場に石動が居たら、宝生のこの暴走は止められていただろう。強いては、宝生の暴走を利用した、とある彼女の感情の隠蔽を。
本当に、あいつが居なくて良かった。