最後の夜に
注意:性的描写があります。
「ごめん、遅くなって。大分待った?」
「ううん、私もさっき帰ってきたところ」
ポテトサラダを作り終えた頃、樹生がバイトから帰ってきた。よほど急いで来たのか、息が上がっている。
「帰り際になって雨が降り出したから、急に客が増えてさ。帰るに帰れなかったんだ」
樹生は部屋着に着替えており、頭からかぶったバスタオルで頭を拭きつつ手伝いに台所にやって来た。
「あれ? 今日、何か雰囲気違うね」
「そう? 昨日と一緒だよ」
私は彼の指摘を受け流し、自分の部屋から持ってきたカレーを樹生の台所で再度温めなおした。化粧や服に気合を入れているのがバレそうになって、少し、照れくさかった。
「スーパーでトンカツ買ってきたよ。カツカレーにしようかと思って」
「いいね。俺、カツカレーも好き」
樹生が顔をくしゃりと崩して満面の笑みになったので、つられて私も微笑んだ。ポテトサラダも披露すると、目を丸くした後でとても喜んでくれた。
少し早目の夕飯を食べ、2人で片づけをする。昨日と同じように私が皿を洗い、樹生が布巾で皿を拭く。そんな何気ない時間がとても幸せだと思えた。あと少しだと分かっているから、余計に。
「樹生はどうして美大に入ったの?」
食後に樹生はホットコーヒーを入れてくれ、私はそれを両手で持ちながら尋ねた。
「どうしてって?」
「だって、美大って入るのすごく大変でしょ? それに……」
美大を出ても絵で食べていくのは難しい、という言葉は飲み込んだ。言われなくても分かっているはずだ。私は言葉を探して黙り込んだ。
「……そうだね。でも、俺には絵を描くことしか出来なかったから」
私の失言を咎めもせずにコーヒーカップを見つめながら彼は話し始めた。
「俺、実はクォーターなんだ。祖父がアメリカ人。今はそうでもないけど、子供の頃はもっと金髪で、近所の子供にいじめられててさ。それで体も丈夫じゃなかったから、小さい頃から家にこもって絵ばっかり描いてたんだ」
突然の告白に私は彼の顔を見つめる。とてもそんな風には見えない。礼儀正しくて悩みなんて何もない明るい人だと思っていたのに。私が見つめた彼の表情は夜明けの海のように凪いでいた。
「だから、美大に進むのは俺にとってはとても自然なことだったんだ。他には何も出来ないから。小さい頃から色々な賞を貰っていたから、家族も応援してくれた。でも……」
そこで一端言葉を切った樹生は、コーヒーを一口飲んで話を続ける。
「意気揚々と東京に出てきた俺は、入学してすぐに思い知らされたんだ。自分がいかに狭い世界で生きてきたかを。ちょっとばかり絵が上手いだけで、才能なんてこれっぽっちも無かったってことをね」
「そんな……」
何かを言おうとしても、何の言葉も出てこない。彼の絵を見ていない私には何も言う資格がない。彼もそんな私の言葉は必要としていないだろう。
「それが分かってから、……絵を描けなくなった。スケッチブックやキャンバスを前にするとどうしても色々と考えてしまって、筆を乗せられないんだ。この構図で本当にいいのか、この色で本当にいいのかって。でも……初めてさくらを見た時、久々に描きたいって……思えた」
部屋の端にある画材が目に入る。確かに、長い間使われた形跡は無かった。
私は持っていたカップを置き、彼の手の甲に自分の両手を包み込むようにして乗せた。
驚き一瞬手を引きかけたけれど、思い直したようにその手を留め、樹生は私に向かってかすれた声でこう言った。
「さくら。君の絵を、描かせて欲しい」
縋るようなその目に、私は無言で頷いた。
いつのまにか外は雨がひどくなり、風が窓を叩いている。それでも、2人の居る部屋の中には樹生がスケッチブックに鉛筆を走らせる音だけが響いていた。
樹生の真剣な瞳。その目に射すくめられたかのように私は身じろぎ一つ出来なかった。どの位経ったのか、樹生が大きく息を吐き、鉛筆を置いた。窓際でポーズを取っていた私は固まった体を伸ばした。
「出来たの?……見てもいい?」
樹生の了承を得て、私はテーブルの上に置かれたスケッチブックを手に取る。その絵を見た途端に、私は感嘆の溜息を漏らした。
「……素敵」
「そう? ありがとう」
「私って、こんなに物憂げな表情をしてるかしら?」
「俺から見たさくらはこんな感じだよ。いつもどこか遠くを見ていて、心ここに在らず。すぐ傍に居るのに、なんだかこの世の人じゃないみたいに現実感がないんだ」
彼のその言葉に動揺が走る。確かに、この姿は仮初の姿だ。この姿で居られるのもあとわずかなのだろう。……どんなに一緒に居たいと願っていたとしても。
「そう、かな?」
「そうだよ。だから、初めて会った時から目が離せなかったんだ」
樹生の頬が赤みを帯びる。彼が照れているのが分かり、私は少し大胆になっていた。
今夜が最後。そんな思いが後押しをしてくれたのかもしれない。
「ねぇ、デッサンって、ヌードではやらないの?」
「ヌ、ヌード!? 授業ではやったことあるけど、俺は描かないよ」
「そうなの? 描いてほしかったなぁ」
断る樹生にそう残念そうに言うと、私はベッドに座る彼の隣に腰掛けた。そして樹生の目を見つめながら、自分の胸のあたりを指す。
「私のここ……ほくろがあるの」
「……」
「……見る?」
私たちは束の間見つめ合い、気付いた時には唇を重ねていた。それが最も自然なことのように思えた。その少しかさついた唇が幾度も私の唇と重なり合う。
私は胸元のボタンをひとつひとつはずしていく。樹生はその指の動きをつぶさに見つめている。ボタンが全てはずされると、彼の唇が探し当てた私の胸元のほくろをきつく吸い上げる。
甘い声をあげると再び唇を塞がれ、下着を脱がされる。彼の服は口づけを交わしながら私が脱がせた。そのままベッドに優しく押し倒される。
性急に、しかし愛おしむように。彼の稚拙で丁寧な愛撫に身を委ねる。胸を揉みしだかれ、その頂を舌で刺激されて思わず仰け反る。
至る所にキスを受け、悦びともどかしさが全身を駆け巡る。
彼の熱を帯びた視線に焦がされる。その目に彼の欲情を感じ、私も彼に欲情する。
男の裸に欲情するんじゃない。男のその目に、女は欲情するのだと初めて知った。
そして長い愛撫の末に、濡れる体の奥深くに彼が侵入してきた時、あまりの痛さに息を飲んだ。ぎゅっと唇を噛み、彼の背中にしがみついて爪痕を残す。
浅い動きを繰り返すうちに、痛みだけではない悦びが呼び起された。刹那的な快感にのめり込んでいく。繋がった部分から、溶けて一つになれたらどんなにいいだろう。
お願い、もっと。もっと、深く。
「さくら、さくら……」
彼が私の、そして私のではない名前を耳元で何度も甘く切なげに囁く。
あぁ、これは嘘をついた私への罰なのだろうか。
もしそうだとしても、私はこの幸せな罰を受けるだろう。何度でも。
私は彼の与える快感に耐え切れなくなり目を瞑る。
閉じた瞼から、一筋の涙がこぼれた。
目が覚めると、私は樹生の腕の中にいた。少しの間眠っていたらしい。
隣を見ると、樹生が子供のように安心しきった顔で眠っていた。
その寝顔をしばらく見つめ、彼を起こさないように起き上がり床に散らばった服を拾い上げた。全身が熱を帯び、気怠く力が入らない。それがさきほどの蕩けるような情事のせいなのか、発熱のせいなのかは分からなかった。
テーブルの上に置いたままのスケッチブックを開き、何も書いてないページにメッセージを残す。その上に紅いリボンが付いた油絵の具を乗せて、私は部屋を後にした。
『ありがとう』
そのメッセージだけを、残して。
その晩、嵐はますます激しさを増し、私は再び原因不明の高熱にうなされた。関節が痛む。みしみしと音を立てるように。外では雷鳴と稲妻が絶えず轟いた。
そして―――。
夜が明けると、嵐と共に私の高熱も下がっていた。まるで、熱など最初から無かったかのように。
私は机の上の鏡を覗き込む。その中には以前の私の姿があった。20代のさくらではなく、40代の楓の姿が。
「やっぱりね……」
さくらはもう、どこにもいない。分かっていたことだ。
束の間の素敵な夢だったのだ。夢はもう、終わったのだ。
しばらく鏡を見つめた後、鏡を伏せると、カーテンを勢いよく開けた。
朝方までの雷雨が幻だったかのような晴天だ。
私は大きく伸びをすると、会社に向かう準備を始めた。
いつも通りに仕事をこなし、会社から帰ると、玄関の前に樹生が所在無げに立ちつくしていた。彼は、私を見ると遠慮がちに話しかけてきた。
「こんばんは。あの……すみません。さくら……さんはいらっしゃいますか?」
彼の手には紅いリボンの付いた油絵の具が握られている。
「……さくらは、今朝早く実家に帰って行ったわ」
彼の手から無理やり視線を外し、私は平坦な声で彼に告げた。
「えっ……。あの、何とか連絡を取りたいんですが」
必死で詰め寄る彼に、私は無言で首を振って見せる。
「彼女はもう、あなたとは会うつもりはないわ。……ごめんなさいね、連絡先も教えるなと言われているの」
「そんな……」
茫然と立ちすくむ彼に声を掛けずに玄関を開けて家に入る。鍵を閉め、内側からドアに凭れかかった。しばらくすると、隣のドアが静かに閉まる音が聞こえ、私はその場に崩れ落ちる。
……これで良かったのだ。これで。
だって、何て言えばいい?
あのさくらは、実は私だったんです? 誰が信じるって言うの。私ですら信じられないのに。おばさんが馬鹿なことを言ってると思われるだけだ。その時、彼の嫌悪に満ちた表情を思い浮かべるだけで震える。
「はは……」
おかしくもないのに、笑いが込み上げる。その笑いが次第に嗚咽に変わる。
ごめん、今だけ……今だけだから……。
そう自分に言い聞かせて、私は子供のように声を上げて泣きじゃくった。
*
一年後、木々の葉が青々と茂る初夏。
「立花さん、あの、ここなんですけど……」
「はいはい、どうしたの?」
佐倉さんが書類を手に話しかけてくる。最近の彼女は私を頼るようになっていた。一年前の態度が嘘だったかのように。
あれ以来、私は野暮ったいグレーのスーツを着なくなった。化粧も毎朝入念に施している。会社の人達も最初は驚いていたものの、すぐ慣れてくれた。佐倉さんは私の変身した姿を見て「やるじゃん」と笑った。
樹生とはあの日以来会っていない。間もなく家を引き払い、どこかに越して行ったのだ。私も会社近くのマンションに引っ越したので、今となっては彼がどこで何をしているのかも分からくなっていた。まだ絵は続けているのだろうか。美大は辞めてしまったのだろうか。……私が考えてもしょうがないことだ。彼と会う事は、二度と無いのだから。
「立花さん、悪かったねぇ」
「いいえ、大丈夫です」
並んで歩く課長が私に向かって礼を言う。
「ほんと、こんな重要な日に書類を忘れるなんて、どうかしているな」
今日は大事なプレゼンの日だったのに、課長が机の上に種類を忘れて行ってしまった。電話を取ったのは新人の女子社員で地理に疎く、仕方なく私が代わりに持ってきた。
その書類は先方に渡すだけの物だったようで、ほどなく会議は終了した。不備があった時対応するために会議室の廊下で待機していた私に、課長は何度も頭を下げた。
こんな私で役に立つならどこにだって行きますとも。
エレベーターで1階に降りると、奥のギャラリーが賑わっているのが見えた。
「あれ、何でしょうか?」
「え? ああ、絵画コンクールの受賞作品が展示されているんだろう。ここがスポンサーだから場所を提供しているらしい」
「そうなんですか……」
そのまま課長とビルの入口にある自動ドアを出ようとして―――足が止まる。
「……課長、少し見て行きたいので、先に社に戻っていていただけますか」
「え? 立花さん、絵に興味あるの?」
「はい。少し……」
「そうか。じゃあ、先に戻っておくから、ゆっくり見ておいで。ついでに昼休憩も取って戻るといい」
「ありがとうございます」
課長達と別れ、私はギャラリーに向かう。
ギャラリーに入ると、油絵独特の匂いが私を包む。壁には優しい雰囲気の絵や心を揺さぶられるような絵など、様々な力作が一定の距離を置き整然と並んでいる。絵にあまり詳しくない私でも分かるほど上手な絵ばかりだ。
一つ一つを丁寧に鑑賞しながら奥に進むと、突き当りに人だかりが出来ている。最奥にあるのはきっと大賞だろう。人の波が引くのを待ち、絵の前に進んだ私は、その絵に釘付けになった。
大賞 森本樹生
題名 「ラピスラズリの恋」
そこには、美しい女性の姿が描かれていた。
深い夜の暗闇から夜明けの空に向かって手を差し伸べている。白いワンピースを着た女性は、淡い光に包まれていてとても幻想的だ。その横顔には柔らかい微笑みが宿り、繊細なタッチにはモデルに対する深い愛情が伺える。
その女性は……私にそっくりだった。
そしてグラデーションの美しい空は、紅いリボンのついた、あの油絵の具の色。
あぁ。
絵、描けるようになったのね。まだ、描き続けているのね。
この世のどこかで、彼が絵を描いている。
それだけでこんなにも心が満たされる。
あの時、私は彼に好きと言わなかったし、彼も言わなかったけれど。
誰が何と言おうと、あれは確かに恋だった。
私にとってはたった一度きりの、恋だった。
私はその絵を目に焼き付けるために、今、ゆっくりと目を閉じる。
一年前に書いた作品で、「ままならない恋」の二人の原型でもあります。よろしければそちらもぜひ読んでいただけたら嬉しいです。
ありがとうございました!