第0話「“Nir”の目覚め」
「判決。被告を死刑とする」
厳かな法衣の裁判官が木槌を叩く。
無情な宣告に、俺はただ被告人席で歯噛みした。
聖暦16世紀、ブリタニア王国。腐った潮の匂いが満ちるこの港町にて執り行われた魔女裁判。
町を治める『聖女』に楯突いたのが全ての始まりであり、終わりだった。
俺は、貧しい農村に生まれた十人きょうだいの末っ子だった。
何の取り柄もなくて親族に「ニル」と呼ばれた。木屑混じりの黒パンを奪い合うような暮らしにおいて、子供など家畜以下の価値しかない。やがて母親は当然の口減らしとして、俺を港町の娼館へ売り払った。
染みだらけの寝床で、汚い男達の欲望を処理するだけの毎日。安酒を煽り、阿片を吸っても苦痛は紛れない。果てのない泥濘の中、いつしか女性の身で自らを「俺」と呼ぶようになった。
男になりたかったわけじゃない。ただ、女であるだけで搾取を受ける境遇に対して、せめて言葉だけでも牙を剥きたかった。虚勢如きで環境は覆らないと分かってはいる。でも、意地を張らなければ心が死んでしまいそうだった。
『聖歌』を歌い、聖女にでもなれば救われるのだろうか。煤けた天井を仰ぎ、荒唐無稽な夢に浸る。聖歌とは奇跡の力。聖女とは聖歌を歌う女神の代行者。今の女王も、野戦病院で働いている最中に神の啓示を受けたと客が語っていた。俺にもチャンスはあるはずなのだ。生きてさえいれば、きっと……。
代わり映えのない生活に転機が訪れたのは数ヶ月前のことだ。
ひとりの男が、手を差し伸べた。彼は俺の境遇を憐れみ、まとまった金を用意して、娼館から身請けしてやると言い出した。
「ニル、君はここで死ぬべき人間じゃない」
彼が女として俺を愛していたのか、単なる同情だったのかは分からない。それでも彼に縋った。この地獄から抜け出せるなら何でも良かった。俺自身も、こいつに対して抱いた感情が愛なのか、単なる逃避への渇望だったのか理解できない。だけど彼を「好き」と思い込むには十分すぎる希望だった。
だが、逃走計画は破綻した。
どうやら港町を治める聖女様が、あろうことかその男に懸想していたらしい。彼女は“敵”を排除すべく権力を行使した。
行き着いた先が、今回の異端審問である。
聖女側が用意した証拠は、全て滑稽なほどに捏造されたものだった。やれ被告が夜な夜な悪魔と交わり町に呪いをかけているだの、男達を黒魔術でたぶらかしただの。裁判中に俺へ向けた聖女の目線で悟った。これは単なる『女』の嫉妬だと。
俺は必死で無罪を訴えた。だが聴衆も、裁判官も、彼女へ盲目的に従うだけ。身請けを申し出た男すらも権力に臆し、嘘の証言を語る。酷薄な裏切りで目の前が真っ暗になりそうだった。
判決は死刑。僅か一週間の審理だった。
そして処刑の日。
じりじりと肌を焼く真夏の太陽の下。
町の広場の中心で、俺は満身創痍で断頭台に括りつけられている。
無論、やれるだけの抵抗はした。だが全て無駄だった。麻縄の締め付けは容赦なく、爪の剥がれた手先は動かない。
聖女が観覧席から醜悪な笑みを浮かべる。処刑台を囲む民衆が熱狂的な歓声を上げ、俺に向かって石を投げた。誰もが『魔女』の首が落ちる瞬間を今か今かと待ちわびている。
ひりつくような喉の渇きと、首筋に押し当たる木の冷たさが、現実を痛烈に突きつける。
(ふざけるな……)
奥歯を噛み、口内に血の味が満ちた。
俺は何もやってない。黒魔術なんて知らないし、悪魔の顔なんて見たこともない。
泥水を啜ってでも生きようとしただけの、ただの人間だ。
なのに、なぜ死ななければならない?
俺を陥れたこの女が聖女だと?
ふざけるな!
あんな奴、ただの嫉妬に狂ったメスだ!
聖女も聖歌もクソ喰らえだ!
お前ら全員殺してやる!
怒りと憎悪で視界が赤く染まる中、処刑人が大斧を振り上げた。
空気が重く震える音。
――あぁ。
くだらねぇ人生も終わりだ。
もう、腐った世界へ憤る必要もない。
安堵の息を吐いた、その時だった。
脳内に、突如として『歌』が響き渡った。
夢にまで描いた聖歌の旋律。だが神聖さなど微塵もなかった。
鼓膜を直接引っ掻くような、重く、金属的で、禍々しいうねり。
万象が静止した。
次の瞬間、『鉄の雨』が降り注いだ。
火薬の臭い。
耳を劈く轟音の連続。
何が起きているのか、全く理解できなかった。
眼球だけをどうにか上へ向けると、空に無数の魔法陣が浮かび、そこから見たこともない武器が現出していた。
弓でも弩でもないそれの射出する物体が空間を裂き、群衆の肉体を粉砕する。聖女は甲高い悲鳴を上げ、処刑人の頭部が破裂し、血飛沫が俺の顔面に飛んだ。広場は一瞬で地獄と化した。神の裁きと呼ぶにはあまりにも理不尽で、暴力的な蹂躙。
――これが、聖歌の力だとでも?
惨劇をただ呆然と眺めることしかできない。
血の匂いと、脳内で鳴り止まぬ旋律だけがいやに鮮明だ。
やがて処刑台の破片が右目を貫き、意識が途切れた。
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