赤鬼の旅行日誌~世を揺蕩う五指の鬼と神々の恋慕事情~3
「いや~面白かったさ!」
快活な蝋梅殿の声が響いた。
「そんなに気に入ったのですか?」
「ああ妖のくせにこんな甘酸っぱい恋愛をするなんて、最高じゃないか」
「失恋を笑うなんて、趣味が悪いですよ」
「笑っちゃいない、面白かっただけだ」
何が違うのだろう。
「だってさ人間様が好きなら素直にそう言えばいいんだよ、取り繕う様なことじゃない」
「山彦殿の声は、女子には届かなかったのですよ?」
「そんなことは分かっている、せっかく聞いてもらえる奴に出会ったのだから聞いてもらえばいいじゃないかと思ったんだよ」
「誰も彼も、蝋梅殿の様に明け透けに誰かに言う事は出来ませんよ」
「私だって私の言葉が分かる奴にしか、自分の言葉を伝えたいとは思わないさ」
蝋梅殿は軽口を言いながら体を起こし、私を見つめた。
「妖が人間様に自分の気持ちを伝えたいなら、人間様に迷惑を掛けない方法を探すしかないのさ」
「人との関わり方を探す、という事ですか?」
「そうだ、人間様は理解できないものを理解する為に時間と労力が掛かるものさ? だから私達もそれに倣って悩まないといけないのさ」
「……そうですね」
考え方も生き方も十人十色である、分かり合うのに時間が掛かるのは仕方がない事だと思う。
だが――蝋梅殿も分かった居るのだ。
私達は、理解されないからこそ存在しているのだという事を。
「じゃあセキよ、次の話に行こうか」
仕切り直した蝋梅殿が先を促した、それに応える様に〝過去世の書〟が映し出した物語は――。
とある湖にいる、おしどり神様のお話であった。
『とある夫婦神の日常』
これは〝過去世の書〟から見た、とある神様の記録である。
あぁ、口惜しい。
あなたは、優しすぎる。
何故、あなたはこの仕打ちを何とも思わないのですか?
私は、悔しい。
あなたが、心無き言葉に傷ついていることを知っている。
あなたが、握りこぶしを作っていることも知っている。
なのに、あなたは何も言わない。
これでは、私が間違っているみたいだ。
あなたの為に怒っている事を知っているくせに、いつも私の事を諫めるのだ。
あぁ苦しい、怒りで腸が煮えくり返る。
もう、ここには居たくない。
このままでは、旦那様の事を嫌いになりそうだ。
「八坂さん、困りますよ」
課長の柔和な声が、私に向けられる。
「……すみません」
私は八坂、発注書の入力ミスが見つかり嗜められている神様です。
「旦那さんの事で気を病んでいるのは知っているけど、流石にこのミスは困ります」
「…………すみません」
苦い顔になる。
普段は滅多に怒らない課長にここまで注意されてしまうとは、我ながら情けない。
「少し、休んだ方がいいかもしれませんね」
「いや、私は――」
「ダメです、普段優秀な八坂さんの調子が悪いのですから休むべきです」
流石はホワイト企業の中間管理職、仕事ができる。
けど、今はその優しさが心に刺さる。
自分の未熟を突かれて萎縮してしまう、神様ながら情けない。
「すみません、失礼します」
「ミスの修正や手続きはやっておくから、ゆっくりしてくださいね」
初老の男性に見送られながら、会社を後にする。
同僚も後輩も先輩も、誰一人として私を責めない。
本当に、良い人達である。
だからこそ、気持ちが揺らいでしまう事に情けなさを感じてしまう。
人の子らの世界に馴染みすぎたせいだろうか、今では人間以上に人間らしいと思っている。
だが――神の責務を忘れた事はない。
でも、あの人は神の責務を忘れてしまっているのだろうか。
そんな事はないと否定をしたい、なのに彼に言われた言葉が頭の中を反芻してしまう。
『君は、何も分かっていないよ』
そう、言われた。
別居中でよかった、あのままあの人の顔を見ていたら本当に嫌いになりそうだ。
だって――あなたの方が傷ついているのに、あなたは私も傷つけて心で泣いているじゃないか。
私以外の誰が、あなたの心を救えるというのか。
私はあなたの妻なのだ、なのに何が分かっていないというのか。
「お客様?」
「……えっ?」
目の前から声を掛けられ、意識が引き戻された。
どうやら、会計が終わったようである。
「2500円になります」
「あぁ、カードでお願いします……」
最近は便利になった、物々交換じゃないし会計なんて数秒で済む。
「ありがとうございました~」
事務的な感謝の言葉を聞き、思考が目の前を酒の缶に注がれる。
気が付いたら私は、コンビニで酒を爆買いしていた。
「さて……飲むか、今日は飲まなきゃやってられないわ」
だが、宅飲みじゃ私の気が晴れないし景色のいい所で浴びる程に飲もう。
幸いコンビニの前には諏訪市民が愛する諏訪湖が広がっており、少し歩けば水辺公園という羊の彫刻が立ち並ぶ開けた広場がある。
そこで座りやすい平らな石に腰かける。
流れる風を、憂いを帯びた視線で見送りながら酒の入った袋に手を入れる。
無造作に掴んだ缶のプルタブを開け、カッシュっと炭酸の抜ける音を聞くとそれを口に運ぶ。
白桃の甘さとアルコールの味を喉で感じながら、それを胃に流し込んでいく。
正直、こんなもので酔えるわけはない。
私を酔わせたいなら、八塩折之酒くらいの物を持って来いという話だ。
だが、今は酔ったふりをしなければ保てないのだ。
現代人は逞しい。
それは、神様である私が保証しよう。
「そうよ、私は間違っていないわ」
この地に生きる人の子らを守るのが、私達の役目なのだ。
人間を守るためならば、神々とだって戦うべきである。
「それなのに、あいつときたら!」
思い出して来たら、段々と腹が立ってきた。
誰かにこの愚痴を聞かせたいが、傍から見れば私は危ない奴である。
それに、人の子に迷惑を掛けたくはない。
どうしたものかと視線を彷徨わせた時、視線の先2~3メートル先に変わった人影を見つけた。
いや、人影と呼称するべきではないかもしれない。
何故ならそいつは――
「鬼、か」
それも、本来あるはずのない五本指を持って生まれている。
さぞ、人の世でも妖の世でも生きにくかろう。
そんな同情心も芽生えた私は、袋を抱えてそいつに近づく。
「こんにちは」
そして、諏訪湖からの風を受けながら挨拶を投げかける。
鬼は最初、自分に語り掛けているとは思わなかったのか視線だけを私に向けた。
数秒間、私を見つめていた鬼の目が僅かに見開かれた。
どうやら、挨拶が自分に向けられていると分かったらしい。
「こんにちは」
低く、よく通る声であいさつが返された。
諏訪湖を見ていた古臭い着物を着た鬼は、私に向き直った。
「君は、鬼か?」
「そうですが、貴女は?」
柔和な表情とは裏腹に、私が只者ではない事を悟っているようである。
「そう警戒しないでほしい、怪しい者ではないわ」
そう言いながら、隣に腰かける。
「貴女は、私が見えているのですね」
鬼の問に、私は酒を煽りながら答える。
「そうよ、君が暇そうだったから声を掛けたのよ」
「……成程」
相変わらず私を見つめる鬼は、私の手に持った缶を見て何かを悟ったようだ。
「君、鬼らしくないね」
「よく言われます、ですが貴女も妖らしくはないですね」
「よく言われるわ、まぁ人間に擬態してるからそう言われるのも仕方ないわね」
「人間に擬態?」
何故、という鬼の疑問の顔。
「理由は簡単よ、私は人間が好きなのよ」
「好き、ですか?」
「そんなに以外?」
「いいえ、人間と結ばれた神を知っていますし珍しくはないと思います」
確かに人の子と結ばれる神は珍しくはないが、この辺りではあまり見かけない気はする。
「まぁ君は色々彷徨ってそうだものね、色々と知ってそうだわ」
「あの――所で」
アルコールを口に運ぶ私に、鬼が何かを言いたそうにしている。
「何よ、あげないわよ」
「いや、そうではなく」
「じゃあ何よ」
「あの、貴女のお名前は?」
そう言えば、名乗っていなかった。
本来、本名を名乗る事は禁忌であるがこの鬼なら大丈夫だろう。
「申し遅れた、私は――」
そして、諏訪湖から吹く風に乗って私の名を告げた。
瞠目する鬼の顔を見ながら飲む酒は、思いの外美味しかった。
長野県 諏訪市 諏訪湖周辺
「ほんっとに、うちの旦那は甘すぎる!」
快活な女性の声が、風に負けないほど大きく響いた。
周りの人間達に奇異の目で見られているが、見られているのはこの女性だけだから問題はない。
如月の風、湖から吹く風が私の着物を強くなびかせる。
天気は晴天なのに、吹く風は針のように鋭い。
その鋭利な風が私の体に突き刺さり身を竦ませようとするが、鬼である私は暑さも寒さもあまり感じない質である。
だが、身を竦ませないのは私の隣にいる――。
「ちょっと鬼! 聞いてるの⁉」
隣にいる、酔っ払ったこの女性も同じだ。
容姿はとても整っている。
白い肌に、黒い絹のような柔らかい髪を馬の尾のように後ろで縛っている。
目は少し細く怖い印象を与えるが、微笑んだ時の顔を思い浮かべるととても可愛らしいのだと思う。
だが、今の彼女を見ると微笑んだ顔を想像するのは無理がある。
何せ見た目は二十代の会社員の格好をしているのに、片手に持っているのは度数の強いお酒でありベンチ代わりに座っているのは羊の銅像だ。
銅像の制作者も、酔っぱらいの椅子にされるとは思っていなかっただろう。
酒類の匂いと、甘い白桃の匂いが私に向かって飛んでくる。
正直、湖から吹き付ける風よりもきつい。
「聞いてるのかって、聞いてるのよ!」
酔った女性の罵声が耳を打つが、無下には出来ない。
何せ、だらしなく昼間から酒を飲むこのお方こそ――。
「聞いていますよ、八坂刀売神」
諏訪大社下社におわす神、八坂刀売神であらせられるのだから。
「全く、鬼は礼儀を知らないんだから!」
「人間に扮してこんなところでお酒を飲む、貴女様に言われたくはないですよ」
「私はいいんです~! 午後休取ったし、神様だし!」
唯一の救いは自分の事を神と喧伝しても、酔っぱらいの戯言と人間達が聞き流してくれることだ。
「それで、八坂刀売神はどうしてこんなところでヤケ酒を嗜んでいるのですか?」
「八坂でいいわよ、私の名前――言いにくいでしょう?」
「日本の神の名前は、どれも言いにくいですよ」
「確かに! うちの旦那の名前も言いにくいのよね!」
段々と上機嫌になってきた八坂様は、隣の銅像の背を叩く。
「いいから隣に座りなさい、神の隣に座れるなんて名誉なことよ」
「……分かりました」
時間は無限にある、そう自分に言い聞かせながら羊の像に腰かけた。
「それでいいのよ、諦めて私の愚痴に付き合いなさい」
隣に座ったことで上機嫌になったのか、口調が少し柔らかくなった。
でも、直ぐに酒を呷って口臭を撒き散らす。
八坂様が、ここまで荒れる理由は――。
「……荒れている理由は、建御名方神ですか?」
「そうなのよ、まったく! うちの旦那は甘すぎるのよね!」
建御名方神、それは古事記に登場する男神の名である。
確か争いごとに負けて命を取られそうになったところ、この地より出ないから許してくれと懇願した神であったと記憶している。
一見すると情けない神であるように思えるが、不毛だったこの地を八坂様と共に繁栄させた偉大な神であったはずである。
「しかし、甘いとはどう言う事なのですか?」
「そのままの意味よ、最近――洩矢神が言い掛かりをつけにきているのよ」
「洩矢神、確か建御名方神がこの地を収めるときに最後まで争った神ですね?」
「そう、この地の現人神の始祖よ」
神は時折、人の姿を取って人間達の前に現れることがある。
また、信仰を集めた人間も神に至る事がある。
それらは現人神と呼ばれ、信仰と畏怖の対象になる。
「けど洩矢神が言い掛かりとは、どういう事なのですか?」
「何か最近の私達が怠慢をしているせいで、この地のバランスが乱れているんじゃないかって言ってきているのよ」
「問題が起きているのですか?」
「何も起きてないわよ、洩矢の奴が怠慢と報告してきた内容だって森の強者の対応がなっていないんじゃないかっていう内容だったわ」
「あの北山の異変ですか? 確か、森の管理は八雲様のお役目ですよね?」
「あら、八雲を知っているの?」
「はい、以前あの森に行ったことがありますので」
「あの子、新しい旦那と上手くやれてる?」
「大丈夫だと思いますよ、ただ人間側がどうなるか分かりませんがね」
「まぁ子供さえ出来ていれば問題ないわ、後は夫婦の問題だしね」
夫婦問題を抱えているこのお方が言うと説得力が違う。
このお方は些細なケンカをして以来、建御名方神のいる上社から下社に移り住んでいるのだ。
「それよりも旦那の事よ! あいつ、洩矢神に好き勝手言われても言い返さないのよ!」
「何を、言われたんですか?」
夫婦という言葉が引き金になったのか、酒の入った女神様が再び憤慨し始める。
「やれ私がこの土地を譲ってやっただの、お前は神に相応しくないだの言われたい放題なのに何も言わないんだから! これじゃまるで頭にきてる私が悪いみたいじゃない!」
空になった空き缶が、無残にひしゃげる。
自分を擁護してくれなくて怒っているのは理解できるのだが、所々に主人愛が垣間見える所がこの神様が愛される理由なのだろう。
「藪原を切り開いて繭の紡ぎ方や狩りの仕方を村人達に教えて、人の子たちと一緒にこの地を守ってきたんだ! それが出来たのはあの人がいたからだ」
腹が立ち、酒を呷る。
人間の様な振る舞しながらも、神としての役目を忘れてはいない。
だからこそ、洩矢神の真意が分からない。
八坂様を怒らせて、一体どういうつもりなのだろうか。
「あぁもう! 愚痴ってたらもっと腹が立ってきた!」
「……どちらにですか?」
「両方よ!」
怒りながら袋の中に手を入れるが、袋から出てきたのはひしゃげた空き缶だった。
「あ~無くなっちゃった、あんた買ってきなさいよ」
「私は鬼ですよ?」
「冗談よ、私が行くわ」
「……まだ飲むんですか?」
ふらふらとした足取りの八坂様に私は語り掛ける、流石にこれ以上の飲酒は見過ごせない。
「知っているでしょう? 日本の神なんて、ざるなん――」
酒豪と豪語する八坂様は数秒と経たないうちに芝生に倒れこみ、聞こえてきたのは規則正しい寝息だ。
「やれやれ、ですね」
うつ伏せで倒れこんだ八坂様を、流石にそのままにはしておけない。
彼女に近づき、体を起こそうとした時だった。
私の持つ〝過去世の書〟が、仄かに熱を帯び始める。
神の過去を覗くのはまずいと制止しようとしたが〝過去世の書〟は、とある場面を映し出した。
それは、建御名方神と洩矢神の会話の場面だった。
「突然の訪問、申し訳ありません」
薄暗い上社の本殿に、暗い男の声が響く。
見た目の年齢は四十歳を超えた長身の男、平安貴族のような黒の着物着た男。
彼こそ、この地の現人神である洩矢神である。
「かまわないよ、君の方から会いに来てくれるなんて珍しい事だしね」
一方、癖っ毛を揺らし子犬の様に喜ぶ青年のような男。
人間の着る洋服に身を包み小顔に乗った丸渕のメガネが似合う彼こそ、私の旦那でありこの地を収める建御名方神である。
「僕の方こそ私服で申し訳ない、今住んでいる所から急いで来たものでね」
「あなた、ここが神聖な場所だって分かってる? 私だって急いで来たけど正装で来たわよ?」
にこやかに訪問者の対応をする旦那と、強張った顔をした私。
顔が強張っているのは、旦那のだらしなさを気にしているだけではない。
私は洩矢神があまり好きではない、私の旦那と最後までこの土地の主神の座を争った神である事もそうなのだが瘦身で暗い雰囲気を纏っているこの空気感が私は苦手だ。
だが、私の旦那はそんな彼の事も気に入っているらしく偶に飲みに誘うらしい。
勿論、全て断られているみたいだ。
「いや~酒でもあったら飲みたい気分だよ」
旦那はこの場を包む空気の重さを知ってか知らずか、陽気に言葉を続けている。
結界で見えなくなっているとはいえ、ここで酒盛りは勘弁してほしい。
「あなた、洩矢殿も忙しいでしょうし本題に入るわよ」
私が助け船を出す。
旦那は少し残念そうに肩を竦め、洩矢神は薄く笑った。
「お気遣い感謝します、八坂様」
「いいのよ、この人の話し長いから」
苦手とはいえ、この能天気神様に場を任せていたら本当に酒盛りが始まりかねない。
「まぁ酒盛りと世間話は別の機会にしようか、それで友よ、今日ここに来た理由は?」
旦那の一声に、薄く笑っていた洩矢神がもう一段口角を上げた。
その笑みには、喜の感情を感じず受け取った感情は恐怖であった。
「では、単刀直入に申し上げます」
恐怖の笑みのまま、洩矢神はその一言を放った。
「建御名方神、私に主神の座を譲っていただきたい」
時が、凍り付く。
凍り付いた刻が一瞬か、数分経ったのか分からない。
だが、今の発言がどれほど危険な事かはこの男以上に分かっているつもりだ。
「洩矢神、何をおっしゃっているのか分かっているのですか?」
「勿論です、八坂様」
「分かっていてなお、その発言を取り下げる気はないと?」
「ありません、彼はもう引退するべきだ」
私も旦那も知っている、彼は決して冗談を言う神ではない。
「あの藪原と無秩序だったこの地を、ここまで美しくしたのは彼と私です! その努力を掠め取ろうなんて恥を知りなさい!」
頭に血が上り掴みかかろうとしたが、私の腕を旦那が優しく掴んでいる。
何で、ここで私を引き留めるのでしょう。
あなたが、一番悔しがっているはずじゃないですか。
けど、直接手を下せないなら言葉で真意を問い詰めるまでだ。
「それにこの地を収める事を許したのは〝高天原〟です、洩矢殿も神を名乗る以上はその方針には従うべきです――」
「八坂――ちょっと待って」
言い足りなかった私が更に言葉を重ねようとした時、旦那が私の口を塞ごうとする。
流石にそれは看過できない。
「どうして黙っているのですか! ここまで言われて黙っている理由は私にはない」
「いいから、落ち着いて」
私を止める旦那の手に、少し力が入る。
いや、震えているのだ。
旦那だって、ここまで言われて何も感じないほど能天気なはずがない。
だからこそ、なぜ何も言わないの?
「友よ、何故その結論に至ったのか教えてくれ」
「理由は簡単さ、友よ〝高天原〟は力を持ちすぎたんだ」
そう、洩矢殿は言った。
「力を持って当然さ〝高天原〟こそ、この国の力の根源だ」
旦那の言う事は正しい。
信仰という力を生み出しているのは、天照様を筆頭にした〝高天原〟の神々の功績が大きい。
「だが、その大きな力が大きな膿を生み出した時――それを処理することが出来ると思うか?」
「……」
旦那が考え込むのを見て、私が口を開く。
「どんな厄災が来ようと、そんなものは私たち神々が何とかするわ」
「その処理をするために、辛い目に合うのはこの国に住む人々だとしてもですか?」
「どういう事ですか? 洩矢殿は何を言いたいのですか?」
「どんな崇高なモノにも、封じておきたい過去があるという事ですよ」
「だから、それが何かという事を聞いているのです!」
「この先の話は、友が私に主神の座を譲って貰えたら話しましょう」
「話にならない、あなた! 今すぐ〝八咫烏〟に連絡を入れましょう」
「……」
「あなた、何を躊躇っているの? いくら功労者といっても、この発言を放置していてはいずれ〝高天原〟の脅威になります」
「……」
旦那は何も言わない、ただ洩矢殿の眼を真っすぐ見つめている。
「どうだろう、君だっていい加減に肩書から解放されたいだろう?」
洩矢殿が、旦那に問いかける。
「国譲りから刻も経ち、人の世は目まぐるしく変わっているのに〝高天原〟はあの時のまま何も変わらない」
辛辣な言葉が投げかけられる。
洩矢殿の感情が読み取れない。
もともと感情が表情に出ない質でなのだろうが、今は殊更に感情が読み取れない。
「君だってそうだ、建御雷神に負けてこの地に逃げてきたあの頃と何も変わっていない」
それは私よりも付き合いの長い旦那が一番困惑しているかもしれない、それを物語るようにただ洩矢殿の言葉に耳を傾けている。
「神の世界にも変革が必要だ、そう思わないか?」
一刻の沈黙が厳かな本殿を包み込む。
「……言いたい事は、それだけかい?」
沈黙を破ったのは、静かな旦那の声だった。
「結論から言おう、僕は君に主神の座を譲るわけにはいかない」
「そうか、残念だ」
洩矢殿も、静かな口調で答えた。
「なら交渉は決裂だ、私は力づくでその地位をいただくことにしよう」
語りたい事だけを語り、洩矢殿はこの場を去ろうとする。
それを止めようとする私を、旦那は手に力を込めて止める。
「なぁ友よ、教えてくれないか?」
背を見せたまま、洩矢殿は歩みを止める。
「何故、今なんだ?」
「……」
「変化を求めるならもっと早く行動を起こす事だって出来たはずだ、なのになんで今なんだ?」
「さぁ? どうしてだろうな」
振り向くことなく洩矢殿は最後までこちらの問に答えることはなく、謎を残して洩矢殿の気配は闇の中に溶けて行った。
残された私と旦那は、何も言えずに時だけが過ぎる。
「これから、どうするつもりですか?」
絞りだした私の問を、旦那は静かに受け取る。
「この件はまだ〝高天原〟には報告しない、僕がしばらく預かる」
「何を悠長なことを言っているのですか、あの洩矢殿が〝高天原〟を敵に回すと言っているのですよ? 急いで行動しなければとり返しのつかない事になります!」
「だからだよ、あの洩矢殿が僕を三大軍神と知って挑発してきたんだ」
「……何か、裏があると?」
「そうだ、だからしばらく様子を見よう」
「……分かりました」
この地の主神は旦那だ、なら私はその決定に従うだけだ。
例え、どんな結末になったとしても。
「なら、私も失礼します」
私は今、どんな顔をしているのだろうか。
「そうだあなた、一言いっておきます」
「……なんだい?」
私は今、旦那の顔を見られない。
「もし洩矢殿がこの地の人々や私の大切な人々を傷つけることをしたら、あなたも含めて絶対に許しませんから」
見てしまえばきっと、私はあなたを嫌いになってしまいそうだ。
それは、時間にして数分の出来事だった。
神々の会話を聞いてしまった後ろめたさから、一刻も早くこの場を去りたかったが八坂様をこのままにはしておけない。
とりあえず、彼女を起こそうと体を揺すろうとした時だった。
「その必要はないよ」
私の背中に、声が掛かった。
振り返ると、優しい笑みを浮かべた青年が立っていた。
だが、私は彼が人間ではない事を知っている。
「どうも、建御名方神」
私が名を呼んでも、動揺を見せることなく私に近づいてくる。
「僕の妻が、迷惑を掛けたね」
八坂様の寝顔を見ながら、愛おしそうに頬を撫でる。
「……いえいえ、そんな事はないですよ」
私の苦い表情を横目で見て、申し訳なさそうに頭を下げる建御名方神。
「いやぁ……申し訳ない、彼女荒れてたでしょう?」
「はい、それはもう……」
「すまないね、今は夫婦喧嘩中でさ」
苦笑いを浮かべながら、軽々と八坂様を背負う。
そして、建御名方神は私の方に向き直る。
「理由は、聞かないんだね」
「いや、それは……」
「隠す必要はないよ、君の様子は見ていたからね」
どうやら〝過去世の書〟の存在も知られているようだ。
「不思議な書物を持っているね、それは〝高天原〟の宝物庫の品だ、君はそれをどこで手に入れたんだい?」
「そんな大層な代物だとは知りませんでした、これは天女殿から頂きました」
「天女? それは、どんな人なんだい?」
私は、思いつく限りの天女様の特徴を上げていく。
それを聞いていた建御名方神は、僅かに目を見開いた。
「天女、彼女はそう君に名乗ったのかい?」
「いいえ、私が彼女を見かけた時にそう感じたから今でもそう呼んでいます」
「そうかい、なら僕が名前を教えるのは無粋かな」
悪戯っぽく笑った彼は、そのまま私の横を通り過ぎていく。
「鬼である君にこんな事を言うのは変な気分なんだけど、妻をありがとう」
「……では、その礼というわけではないですが一つ伺ってもよいですか?」
「なんだい?」
建御名方神が、八坂様を背負い直しながらこちらに向きなおる。
何を聞くべきだろう。
私の正体?
〝過去世の書〟が見せた、出来事について?
天女殿の名前?
日本の神に問える機会なんて、もうないかもしれない。
一瞬の逡巡の後、私は問うた。
「あなた達の、最初の夫婦喧嘩の原因は何だったんですか?」
目を丸くする、日本三大軍神。
そして、妻を起こさぬように静かに笑う青年の姿がそこにはあった。
「君は、鬼らしくないね」
気の済むまで笑った建御名方神は、朗らかに笑いながら言った。
「何てことない理由だよ、ただの痴話喧嘩さ」
それだけ言うと踵を返し、その場を去っていった。
どうやら神様も色々大変そうである、そう思えた出会いだった。
〝過去世の書〟がその過去を見せ終わった時、時刻は黄昏時を迎えていた。
ヒグラシが鳴き、人々に帰宅を促しているようだ。
だが、この鳴き声を聴いても蝋梅殿は帰ろうとせず黙ったまま天井を見上げている。
その表情は、何かを思い詰めているように見えた。
その表情に違和感と既視感を感じた私は、その横顔に話しかける。
「蝋梅殿?」
私の掛け声に、横目で応答した蝋梅殿が声を上げる。
「あの洩矢とかいう現人神、ちょっとまずいな」
独り言のように呟いたその言葉の意味を取り損ねる。
「どういう事ですか?」
「あいつは私と同じ臭いがする、私と同じ死の中に生きている臭いさ」
蝋梅殿の言葉は、意味ではなく直観に近いものだ。
分からないという私の表情を読み取った蝋梅殿は、勢いよく体を起こして体を持ち上げた。
その元気があるなら、早く仕事に戻ればよかったのではないか。
その言葉を飲み込んだのを横目で確認した蝋梅殿は、そのまま私の横を通り過ぎた。
「辛気臭いっていう事だよ、あと何か磯臭そうだった」
「それは完全に偏見ですよ、それよりも洩矢殿が気になるのですか?」
「そうだ、私の方で少し調べてみる、何か分かったら教えてやるさ」
その言葉が聞こえた時、蝋梅殿の体は黄昏時の闇に飲まれていた。
どうやら、仕事に戻ったようである。
「やれやれ、ですね」
私は〝過去世の書〟を開きながら、黒と静寂に包まれた空気に耳を傾けた。
それは蝋梅殿が去り際に残した言葉のせいなのかもしれなし、森のざわめきがそう聞こえさせただけのかもしれない。
だけど私の耳には、静寂と木々の空気に混じって何処からか波の音が聞こえた気がした。




