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赤鬼の旅行日誌~世を揺蕩う五指の鬼と神々の恋慕事情~2

 


 〝山彦(やまびこ)の声は誰のもの?〟


 山で騒いではならない、山ではよくそう言われている。

 その理由は動物たちを驚かせてしまうという事もあるが、山で大きな声を出すと妖怪に惑わされるという言い伝えがあると紗代殿に教わった事がある。


 まぁ紗代殿には申し訳ないが、私は妖怪なので気にしない。


 息を思いっきり吸う、私の胸が森の空気に満たされていく。

 そして、臨界に達した肺の空気を声と共に押し出した。

「ヤッホ~!」

 自分の声が、静寂の森に響く。

 自分の声が反響するこの感覚は、何とも言い難い高揚感がある。

「なるほど、面白いですね」

 感傷に浸る私。

 そんな私に、声を掛けてくる物好きが現れた。

「おい、うるさいゾ!」

 木の上から声が聞終えた。

 声質はしゃがれた老人なのに、言葉遣いは小さな童の様だ。

 振り向いて、声の主を探す。

 それはすぐに見つかった、それは木の太い枝に腰かけていた。

 体長は小学生の低学年程度の大きさで、服装は江戸時代の農民を思わせる茶色の木綿の着物を着ている。

 顔はどこにでもいる童のものだが、今のこの森にいることから人間ではない。


 きっと、私と同じ類の者なのだろう。


「おい、聞いているのか?」

 童の姿をした妖が、眉を吊り上げながら声を荒げている。

「? 私、ですか?」

「大きな声を出しているのはお前だろうが!」

「あぁ申し訳ない、一度やってみたかったもので……」

 どうやら、私でも大きな声を出してはダメなようだ。

 世の中は儘ならないものだ。

「全く、今のこの森で狼藉を働くなど何を考えている?」

 童は腕を組み、怒っている。

 その光景は、事情を知らぬものからすれば随分と微笑ましい光景に映るだろう。

「今この森は危険だ、何処の誰かは知らんがさっさと去れ」

 童に邪険に扱われるがこの妖からは陰湿なものを感じない、むしろ何故か親しみを覚えてしまう。

 きっと私は、無邪気な者が好きなのだろう。

「近頃は森の生態系が崩れてしまっている、八雲(やくも)様の庇護が薄れてきておるし余計な面倒ごとはなるべく排除せねばならぬ」

「八雲様? ひょっとしてこの森の主様でしょうか?」

「そうだ、八雲様の一族がこの森を収めてきたおかげで摂理を乱すことなくやってこれたんじゃよ」

 まるで、自分の手柄の様に誇るその姿は微笑ましい童そのものである。

 けど、この者が妖である以上人に名付けられた名前があるはずだ。

「ところで、貴方は?」

「オイラか? オイラは山彦(やまびこ)だ」

「山彦? 確か山で騒ぐ人間を惑わす妖怪でしたっけ?」

「いつの話をしておる、そんな悪戯はとうの昔に止めたわ」

「何故です?」

「人間なんてろくなものじゃない、そう悟ったからだ」

 妙に達観している。

 何か、あったのだろうか。

「そう言えば、お前は何者だ?」

 その過去を聞く前に、今度は、山彦殿が私の名を問うてきた。

「申し遅れました、私はセキと申します」

「セキ? ひょっとして、鬼か?」

 視線が自然と、私の手に向けられる。

「五本指の鬼か、さぞ生き辛かろう」

 少しだけ、山彦殿の態度が柔らかくなった。

 きっと、私の立場を理解してくれたのだろう。

「ひょっとして、ここに居を構えるつもりか?」

「違いますよ、通りかかっただけです」

「では、ずっと旅をしているのか?」

「はい」

「それは、何時まで続く旅だ?」

「……答えが、見つかるまでです」

「……そうか、見つかるといいな」

 山彦殿が微笑んだ。

 それは見た目相応にも、不相応にも見える無邪気で達観した笑顔だった。

「ありがとうございます」

 わだかまりが解ける。

 きっと、初夏の山の空気が溶かしてくれたのだろう。

「⁉ あいつら、また!」


 けど――山の風に乗って耳に届いた人間達の声が、解けた空気を再び固まらせた。


「ちょっと行ってくる」

 険しい山彦殿の表情。

 それは、私と相対した時とは明らかに違う。

「どちらに行かれるのですか?」

「なぁに、森に住む者の務めを果たしてくるのさ」

 それだけ言い残して、山彦殿は山風と共に消えた。

 しかし、時間にすれば十分も経っていない。

「待たせたな」

 息を乱すこともなく、山彦殿は再び姿を現した。

「何をしてきたのですか?」

「近頃やたらと人間が森に入ってくるのでな、適当に驚かして追い出しておるんじゃよ」

「……お優しいのですね」

「言っただろ、人間なんてくだらないと」

 肉体の疲労はなくとも、気疲れがあったのだろう。

 山彦殿が座り込む、その隣に私も静かに腰を下ろす。

「何か、あったのですか?」

 山彦殿の表情からは、言いたい事を読み取ることは出来ない。

 でも、目は正直である。

 愁いを帯びたその目は、口ほどにものを語っている。

「……お前は、自分の言葉が届かないと感じたことはあるか?」

「言葉が、ですか?」

「そうだ、この距離で会話していて()()()()が届かないと思ったことはないか?」

「ない、ですね」

「そうであろう、だが……オイラはある」

 どういう事なのだろう、この距離ならば自分の声なんて届かないはずはない。

「オイラの声は、人間達からすると大層怖く聞こえるみたいだ」

「私には、そうは聞こえませんが?」

 そう疑問を口にした時、何かを悟り無意識に自分の手を見つめていた。

 自分の境界が曖昧だから忘れがちだが、我々は怪異だ。

 人間は私達を理解する上で、恐怖というものと一緒に解釈する事が多い。

 だから、人間に寄り添いたい妖からすれば自分の存在が何とも恨めしく思ってしまうのだろう。

 私の失言を庇うかのように、山彦殿は話を続ける。

「昔な、小さな女子がこの森で迷ったことがあってな」

 この苦笑いにどれだけの思い出が詰まっているのか私には分からないが、それを受け止める事が出来るのはきっと私だけなのだろう。

 人と妖の狭間に立つ私だけなのだろう。

「昔のオイラはそりゃ悪戯好きでな、山で女房の愚痴を言っていた男の声をその女房に届けてやったりしてたしな」

 頬を掻き、当時の事を悔いているようである。

 何とも微笑ましい所作だ。

「八雲様にも注意された事もあったけど、止める気なんてなかったんだが――」

 遠い目で、思い出を見ている。

「ある時、森で小さな女子が泣いているのを見かけたんだ」

 即興で語るはずなのに、言葉は淀みなく流れていく。

 まるでそれは、用意されていた台本を読むかのようだった。

「小柄な女の子で多分十歳くらいの子だったかな、きっと薬草でも摘みにきたんだろう」

 籠いっぱいに野草摘んでいた様を、山彦殿は嬉しそうに語る。

「本当に大きな声だった、この森中に響いてオイラみたいな妖や動物達や八雲様まで見に来たくらいだった」

 身振り手振りで当時の事を思い出す山彦殿は、何処か楽しそうだ。

「誰も助けに入ろうとしなかったし、何よりこのまま泣かれては堪らなかったものあってオイラがその女子に近づいた」


「そして、その女子の泣き顔を見たんだ」


 目を細める、口元は笑みを作っているのに何故かその表情には哀愁が感じられる。

「綺麗だった、零れ落ちる涙が宝石みたいに光っていた――泣く人間はたくさん見てきたけどあんなにきれいな涙を見たのは初めてだった」

 哀愁の眼差しのまま、山彦殿は思い出を語っていく。

 苦い筈の思い出を、優しく噛みしめるように紡いでいく。

「オイラは無意識にその涙に触れようとして手を伸ばした、いやオイラはその涙を止めたかったんだ」

 綺麗なものに触れたいのは、妖も人も変わらない。


 だけど――。


「結果は散々だ、余計に怖がられて逃げられた」

「その女子は、山彦殿の姿は見えていたのですか?」

「見えてはいない、現にオイラと目が合う事はなかった」

 綺麗なものに触れたかった、でも同時に綺麗な者から拒絶されてしまった山彦殿はその時に感じたのだろう。

 人と妖の間にある、壁を。

「視線は交わらなかったけどあの綺麗な涙を浮かべたまま恐怖に歪んだ顔を見た瞬間に悟ったよ、あぁオイラはそっちには行けないんだって――オイラが、あの涙を拭ってあげることは出来ないんだって思い知った」

 それ以来、山彦殿は悪戯を止めたという。

 その後、気になって調べた。

 どうやら山彦の声は、人間が聞くと世にも恐ろしい声に聞こえるという伝承があるようだ。

 道に迷って不安な状態で、そんな音が聞こえたら怖いだろうと思う。

 山彦殿がなぜ悪戯――いや人間に干渉する事を止めたのか、はっきりとした理由は教えてくれなかった。

 だが思うに、彼が悪戯をしていたのはきっと人間に気付いて欲しかったのではないだろうか。

 彼は、人間が好きなのだ。

 そして、人間の女の子に恋をしたのだろう。


 そう――これはきっと、妖の初恋の話なのだろう。


 私は感情というものは理解している、だがそれは理解しているだけだ。

 これからもっと人の世と関わることで、もっと知見を広げられるに違いない。

 その先に、私の求める答えがある。

 そんな期待を胸に山彦殿と別れて山を下りている道中、山歩きの格好をした青年と出くわした。


 その青年は、神に見染められた青年だった。


 だが、そのお話はまた別の機会にしようと思う。



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