15話後半 その夜は花の火に照らされる
目が覚めると、自分の目の前にとても綺麗な女性がいた。
青みのある銀髪に、雫を閉じ込めたような瞳。
一瞬男性かと思うくらいの体格だけれど、豊かな胸元やしなやかな腰つきが性別を教えてくれる。
「名前、分かるか?」
その女性が私に尋ねた。
名前…なんだったかな…。
「マナ。多分…」
私は寝起きみたいな声で答えた。
最近、誰かにそう呼ばれていた気がした。
愛称かもしれないし、本名かもしれない。
「なにか覚えていることは?」
その女性は大きな椅子に座る私の傍まで来て、膝をつけた。
本当に綺麗な人だ。
氷を繊細にカットしてつくられたような冷たさと美しさに目を奪われる。
「…誰かといた気がするけど、覚えてない。ここはどこ?」
少しずつ、不安な気持ちがせり上がってきた。
椅子自体が機械なのか、私は見たこともない椅子に座らせられている。
女性は私をじっくり見つめた後、私の手に自分の手を重ねてきた。
重ねた、というより置いた、みたいな不器用さを感じる。
「ここはあたしの組織の部屋だ。お前にギフトが宿ったから保護したんだが、内陸で随分な目に遭ったんだな。記憶が飛んでいるみたいだ」
組織、ギフト、内陸…なんだろう。
黙り込んでしまった私に、彼女は苦笑を浮かべた。
「悪いな…。あたしは説明が下手なんだ。説明はこの椅子がやってくれる。傍にいるから、ちょっと付き合ってくれるか」
彼女は椅子をぺん、と軽く叩いた。
名前もおぼろげで。
なにをしていたのかも分からなくて。
なにができるのかも忘れてしまった私の瞳には、彼女だけがいる。
断る理由なんて全然思いつかなかった。
私が黙って頷くと、椅子がゆっくり倒れて私を仰向けにさせた。
私はやっぱり不安が募り、焦るように彼女に「あの、あなたは名前なんていうの?」と尋ねた。多分、怖いって言いたかったけど、頭がハッキリしなくて的外れに口走っている。
彼女は切れ長い瞳を丸くさせて、「…名乗ってなかったか?」と逆に聞かれた。
彼女は私の前髪を目にかからないように指先で撫でて、教えてくれた。
「あたしはニーナだ。…これから、お前に色々教える…そうだな、先生とか、教官とか、上司みたいなものだ」
あぁ…なんていい加減な人だろう、と思ったらちょっとおかしくて笑ってしまった。
そのまま目を閉じられたのは、彼女から打算的な冷たさを感じなかったからかもしれない。
―---------・・・・・・・
自分にできることは、あの日から〝ボア〟とニーナが教えてくれる。
それがマナの指針だ。
狂わない、真っ直ぐの針路だった。
この学校の生徒の命なんて知らない。
従順にできないサクタは射殺せねばならない。
真っ直ぐの針路はいつだって分かりやすかった。
分かりやすかったのに。
アロンエドゥによる開戦の花火の直後。
サクタはマナにすがった。
「マナ‼アロンエドゥだ‼みんなが危ないよ‼」
この学校の人間なら――いや、周辺住民も、この馬鹿みたいに華やかで光の強い爆発がアロンエドゥのせいだとすぐに思い当たるだろう。
彼の…。
助けを乞うその手はマナの肩を掴み、震えていた。
「ごめん…俺、なにも戦えなくて…ギフトもろくに使えなくて…。でも、やだよ。死なせたくない。ここは、こんな風に戦いたくない人たちが、必死に辿り着いた場所なんだ。痛いことも怖いことも嫌いな人たちがいる場所なんだ…。お願い…助けてあげて」
こらえきれずどうやら落涙しているようだ。
彼の頭しか見えないので定かではないけれど。
声を聞けば泣いているかどうかくらい、マナにだって分かった。
マナは冷え切った声で言い放った。
「君がなにもできないなら、誰も助からないよ」
そうして彼を押し返し部屋の玄関へ向かう。
冷ややかな彼女の態度に、サクタは涙を流したまま俯いた。
「防犯カメラの位置、教えて」
冷ややかな声のまま。
けれど。マナの声に、サクタはハッと顔を上げた。
〝ボア〟はどんな信号でも介入できる。
本来ならばこの騒動に乗じてサクタを回収しなくてはいけないところ、違う行動に出るのなら。
その〝目〟は潰しておかなくてはいけない。
ささやかな時間稼ぎ程度にしかならないが。
でもそのために、マナは彼に尋ねていた。
彼女の意図を正確に理解しているわけではないけれど、彼女が自分の助けに応えていることはすぐに理解できた。
乱暴に自分の涙を拭いて、まずこの6階から防犯カメラの位置を彼女に伝えた。
―-――――
3階にいる生徒と教師は防弾シェルターで籠城したまま。
6階は空き階なので、4階から5階の生徒は5階の防弾シェルターに身を潜めた。
4階にいた彼らは流未からの無線を受けて上に上がることにしたようだ。
教師が3人、生徒が12人、そしてマナとサクタが揃っている。
しばらくすると、流未の無線から「2階のメンバーは外からの応援と共に教室のシェルターに到着できた」とあった。
そして3階では「アロンエドゥなのか分からないけれど、通路で誰かが戦っている音が聞こえる」とある。
マナはその情報と〝ラダル〟で感じ取れる情報を整理する。
(この気配…〝エア〟に〝イリュジオン〟。やっぱり監視下の二人を出してきた。あとこのあいだの〝ブースト〟と〝エスタ〟ももういる。…それに)
屋上から5人の侵入者の気配を感知する。アロンエドゥだ。
二階の流未たち曰く、この襲撃に使われている銃弾は防弾シェルターを壊せるらしい。
籠城の安全は秒刻みで失われつつある。
屋上からの襲撃を防ぐ必要が出てきた。
マナが黙って防弾シェルターから出ようとすると、二人の教師が止めに入った。
「マナ!出るのは駄目だ!」
「応援を待とう!これは今までにないくらい大きな襲撃なんだ。外の応援がここに来るまで――ッッ」
二人の教師は後ずさった。
マナが腰に隠していた拳銃を向けてきたからだ。
生徒も含め、声を飲み込んで静まり返る。
この二人の男性教師は内陸出身でウォームアース育ちだ。荒事はそれなりに経験しているだろう。
だからこそ、マナの持つ武器がただの内陸の武装には見えなかった。
教師の一人が生徒を背に庇ったまま、マナに尋ねた。
「…まさか、君、アロンエドゥの仲間なのか?」
いつも朗らかに笑う少女は、鉄のような表情だ。
「そういうことでいいよ。でもひとまずここから出ないでもらえる?上から新手が来てる。心許ない扉だけど、廊下で突っ立っているよりかはマシだからね」
生徒の中には年少のゆりんもいる。
朝礼の流未の言葉があったからか。
どうやら年長者の部屋で気持ちを落ち着けていたようだ。
裏切られたような眼差しでマナを見るゆりんに、マナは一度だけ視線を合わせた。
しかしすぐに逸らしてドアを開ける。
銃口を彼らに向けたまま防弾シェルターから出ようとした時。
生徒の中をかきわけ、教師たちの間を縫って、…サクタも出てきた。
「サクタ‼」
教師や生徒が呼び止めたが、サクタはいつも通りのぼんやりした笑顔で首を振った。
「マナは俺達の味方だよ。俺もみんなの味方だから。大丈夫。待ってて」
サクタが出てきたことに驚くマナを押し出して、サクタはそのまま扉を閉めさせた。
数秒、その扉の前でマナとサクタは静かに見合った。
彼は、もうここにはいられないと覚悟を決めたのだろう。
このまま防弾シェルターに残っていれば、移住試験を受ける未来が残ったかもしれない。
沈没都市にさえ行ければ、彼の生存は保証されるのに。
最良の目的を捨てた彼に、マナはかける言葉が見つからなかった。
その静寂をサクタがやんわり終わらせる。
「…えっと、どうしよっか…」
まったく締まらない発言だが。
マナは小さく、短いため息を吐いて、上を指差した。
「屋上に出る」
一度、5階のマナの自室に戻り武器を装備してから、二人は6階に繋がる階段へ向かった。
階段を一段上がろうとした時、マナはサクタに向かって止まれという合図を示した。
アロンエドゥは一つ一つの部屋の扉を開けて怒鳴り散らしていた。
「おい‼5階と6階は女の部屋なんだろ⁉誰もいねぇじゃねぇか‼」
「ぐッッ‼ご、ごめんなさいっ」
誰かが数人から暴行を受けているようだ。
階段の影でサクタを庇いながら、マナは眉をひそめた。
(5と6が女子階だと知られている。…情報源の誰かが殴られてるのかな)
それならば今の内に全員射殺していこうと、静かに引き金を引く。
アロンエドゥは誰かの膝を思い切り蹴って床に転がし、腹部に何度も蹴りを入れた。
「防弾シェルターはてめぇが声かけろよ‼助けに来たって‼知ってる声なら開けるだろ。行けよ早く‼」
「いっ、痛ッ…ごめんなさい!やります‼やります‼」
銃口を体中に押し付けられ、恐怖で苦しいほど体が痙攣する。
その悲鳴は、――はっきりとサクタにも聞こえた。
殴られた彼は震える足を必死に動かして、6階の防弾シェルターの扉に張り付いた。
マナから見て、その彼が手前だ。
先にその彼を仕留めるため、マナは音も無く銃口を向ける。
「駄目だマナ‼日色の声だ‼」
サクタが叫んだことにより、日色の奥にいたアロンエドゥが一斉にマナに気が付いた。
「――チッ‼」
マナは廊下に躍り出た。
月明かりとアロンエドゥの持つ電灯であちこち中途半端に照らされ見えづらいが、〝ラダル〟から視覚以上の情報が伝達され、彼らからの発砲を器用に避けていく。
日色という少年はアロンエドゥの銃弾を二発ほど肩と脇腹に掠めたが、しゃがみこんで急所は免れた。
脅威の弱い日色を通り越し、マナはSIG M18でアロンエドゥたちをたちまち射殺していく。
その間。
サクタは階段の壁に身を隠しながら――怒りと悲しみから声を振り絞った。
「日色‼お前‼なにやってんだよ‼」
サクタの大声に、彼はハッと恐怖から我に返る。
発砲音が消えたのでサクタは通路に出て来るが、それと同時に日色がサクタに体当たりをした。
尻餅をつくサクタを置き、階段を上っていく。屋上に出るつもりだ。
サクタは立ち上がろうとして…、視界に入った血痕を見て動きを止める。
そして、キッと階段の上を睨み上げた。
気持ちのまま立ち上がり、駆け出そうとしたところ――その腕をマナに捕まれる。
感情が高ぶっていたサクタだが、マナの氷の剣のような怒気に血を引かせた。
「私を殺す気?」
その怒気が突き刺さったサクタは、自分の行いを振り返って青ざめた。
完全に理性が戻る。
「そ、そうだよね…あの、ごめん。本当にごめん。でもアイツは…」
「君が前に言っていた友達、なのかな。しょうがないな…行くよ」
日色という少年はこの学校のことを知っている。
放っておけば余計な動きをされる可能性は大きい。
即座に射殺したいところだが、サクタはそれを止めるだろう。
マナは一つ忠告した。
「君の説得は囮だよ。――あの子を殺しはしない。その代わり、動きを止めるくらいには撃つからね」
殺気立つ彼女の眼光に、サクタはコクコクと頷く。
内心、サクタも怒り狂っている。
今はこの学校の安全が第一だ。日色を無傷で捕えるなどと、内陸の厳しさを知るサクタだって不可能だと理解している。
行動を互いに一致させてから、二人は屋上に向かった。
―--――――――
ヒヨリは床から体が浮くほどの勢いで蹴り飛ばされた。
床の上を滑るように転がり、彼女は咳き込んで倒れる。ぽた、ぽた、と鼻と口から大粒の血が垂れた。
5手目でようやく床に転がって動かなくなったヒヨリに、ランはふぅっ、と息を吐いた。彼女の首をへし折るためにコツコツと靴音を鳴らして近づく。
「確かアンタって沈没都市出身だよな?日本の。故郷で死ねるなんてラッキーじゃん。でも引き際が分からないのは沈没都市らしくないぜ?内陸出身者にでも影響された?」
彼女のすぐそばまで来ると、そのまましゃがんだ。彼女の襟を左手で掴み、目が合う所まで引き上げる。
「速くても殺傷力の低い拳じゃな。試しに当たったみても大したことねーもん。な、もう諦めろよ。苦しませずに殺してやるから」
物体を通過する彼に、ヒヨリの持つ仕込みナイフは全く効かない。
かといって拳でダメージを与えられるほど彼女の拳は重くない。
黒炭の瞳はそれでも、気丈な眼差しでいる。
口を結んでいた彼女は誘うように微笑を浮かべた。
ランが訝しげに眉間に皺を刻んだ――刹那。
ランの左肩口に彼女のナイフが食い込んだ。
「-――な―――ッ」
驚きと痛みに、ランは思わず声を詰まらせる。
ヒヨリのナイフは射出式になっている。彼女は躊躇わず引き金を引いた。
彼の分厚い体にナイフが背中側まで貫通した。
ランの手が緩んだ瞬間ヒヨリは〝ブースト〟で一時離れ、動きが鈍った彼の顔面に膝を入れた。
その足を掴まれる前に、ヒヨリはその場を離れる。
鼻からダッと血が流れ、ランは強く舌打ちする。
肩に刺し込まれたままのナイフに目をやり、〝エア〟で透過させて床に落とした。
「…なにしやがった…。どうやって…」
〝エア〟に異常はない。
〝エア〟の場合、物体相手を通過するのは大した力はいらない。しかし、生物相手に通り抜けようとすると怪物化する恐れがあった。
だから意図的に生物相手には作用しないよう制御しているわけだが、――ナイフ相手にその制御が作用してしまった。
生物ではない、ナイフ相手に。
ヒヨリは替え刃を差し替える。
近づいてもらうためだったとはいえ大分ダメージを重ねることになった。ズンズンと嫌な鼓動と痛みを隠すように、ヒヨリはにっこりと笑う。
「君みたいに生物相手に作用しないギフトって、その線引きが中々難しいんでしょ?例えば死にかけとか、唾液とか――固まる前の血液とかさ」
ランはハッと目を見開いた。
5手目の打撃で、ヒヨリは血を吐いた。
それを切っ先に塗っていたとしたら。
貫通までさせられればあとはランの血液だ。だからさっき通過させて体から落とすことができた。
ランは口の端を大きく上げて、片鼻を指で押さえて鬱陶しい血を出した。
コキコキと手を鳴らし、筋肉を引き締めていく。
「悪かったわ。俺がアンタを甘く見過ぎてたな。沈没都市出身だから争いごとが嫌いで上品なだけのお姉さんかと思った」
「ううん。合ってるよ。争いが嫌いで上品で賢くて美人でスタイルの良いお姉さんだよ」
「言い過ぎだろ」
ランが思わずつっこむと、彼女の頭上に〈ピヨッ!〉と鳴いて黄色のインコが降り立った。
「じゃあもう一人追加しちゃおうかしラ」
足元から黒い帯を纏わせて、「喧嘩上等。下世話歓迎。性欲旺盛でスタイリッシュなおにいさんヨ」と言いながら、カマがヒヨリの隣に立った。
2階で避難していた人たち――流未たちの誘導を終えて、彼はこの3階の生徒たちを助けに来ていた。
ランは少々嫌な顔をする。
(〝エスタ〟か。奴のギフトは俺じゃ通過できない。…一気に不利になった)
まだ撤退の命令が来ていないのだが、意欲の低い彼は「逃げよっかな」と小さい声で呟いた。
―――――――
5階と6階のカメラは壊されている。
3階で続く〝ブースト〟と〝エア〟の戦闘をカメラで見ていたニーナは、バックミラーに目を配った。
相手を確認し、トラックから降りる。
後方から、箱のような荷物を背負った全身びしょ濡れの紳士が現れる。
相手も、ニーナを確認した。
「こんばんは。あなたは参加されないようで」
紳士は箱をズンッ‼と地面に降ろした。
その衝撃がスイッチを押し、箱が2mのブレードへと変形した。
手元に近い刀身にはグレネード発射口が取り付けられている。
Fage以前に開発された戦闘ロボットに搭載される武器だ。おおよそ、人の持つものではない。
人間の等身に合わない武器を振り回すオーウェンの来訪を、ニーナは待っていた。
「〝ボア〟に〝イング〟を割り出されないためとはいえ、一体どれだけの距離を泳いできたんだがな。頭が下がるよ。あたしはアンタの足止めをさせてもらう。向こうの参加はその後だ。…あぁ、このトラックに攻撃するのはやめてもらっていいか?」
運転席の扉を閉めてから、ニーナは続けた。
「ルカが乗ってるからさ」
助手席に座らせられている荷物は子供一人分の大きさだ。
向こうの良いように、いつでも人質にされるだろう。
オーウェンは静かに瞬く。
「たとえ嘘でも、承知いたしました。――では、押し通らせて頂きます」