9話 最良と最悪
夜が明けた。
流未のメモを頼りにマナとサクタはふもとの八百屋を目指して下山した。
梺には健全な商店も並ぶが、嬌声が聞こえる店も平然と並んでいる。
八百屋の隣にストリップ劇場がある…なんて内陸ではよくあることなのだ。
内陸の住民さながらボロボロの二人は、特別通行人に絡まれることなく八百屋へ辿り着けた。
八百屋の主人に声をかける前にマナはサクタに釘を刺す。
「サクタ。昨晩も言ったけど、ギフトのことは他の人に内緒だよ」
「分かってる。…良識で考えるなら俺はみんなの所に戻らない方が良いのかもしれないけど、俺が沈没都市の住民になれれば一番最良の結果だもんね」
サクタと友好的な関係のためマナは二つの目標を作った。
サクタの味方として認識させるには彼の夢を奪わない立ち位置でいることが大切だ。
だからマナは移住試験までサクタを守り、サクタは周囲をなるべく巻き込まないために〝ギフト関連〟と〝マナの正体〟を秘密にする、という約束を交わした。
これが最良の目標。
サクタはほんの少しだけ暗い表情を浮かべ、マナに「ありがと」と呟いた。
マナはなんのお礼かと首を傾げる。
「いやだってさ、ほんとに最良の目標でしょ。…周りの安全と悪い奴らのことを考えるなら今すぐマナと一緒にマナの所属する組織?に行けばいいわけでさ」
サクタの発言にマナは黙る。
サクタにとって、彼女のその反応は是と同じだ。
「…マナは、俺の人生というか、未来のことを考えて妥協してくれてるわけだから、ありがとう。約束通り、周りを巻き込んでどうしようもない状況になるなら俺は諦めるから」
そして最良の目標が叶わぬなら、サクタはマナと共に彼女の所属する組織へ行く――彼が得るはずだった未来を全て放棄するという最悪の目標を作った。
目標を二つ用意することで、サクタの説得は意図も簡単だった。
しかしマナの胸の内にはなにか〝厄介な塊〟がうまれた。
穴のようで暗い…実に不快な塊だ。
それを覆い隠すようにマナは得意の朗らかな笑みを浮かべ、サクタの背中を軽くぽんと叩いた。
「分かってるならいいの。さ、行こ」
マナはまだ開店前の八百屋の扉を叩いた。
すると、「何時だと思ってんのおおお⁉失せろォ‼」と中年男性の怒号が返ってきた。
出鼻をくじかれた空気が漂い、サクタが控えめなノックに直して事情を話す。
「あっ、あの、俺達七草学園の生徒で、河童流未先生からなにか連絡きていないですか⁉」
「あああ⁉ななくさぁ⁉馬鹿にしてんのかウチは八百屋だぞ‼」
あまり会話になっていないところから察するに、相手は酔っぱらっている。
マナが早々に諦めて「隣のストリップ劇場で電車代稼いで帰る?」と恐ろしい提案をしてきたので、サクタは必死に扉を叩いた。
「すみません!よく思い出してください!俺が同級生の女子に身売りされる前に思い出して‼」
「…売られる側なんだ」
特にどちらが…とまで考えていなかったマナだが、力関係において下だと認識しているサクタに思わず呟いた。
中年男性になおも「うるせぇや!」と乱暴に怒鳴られていたが、今度は中年くらいの女性が「アンタァ!退きやァ‼」と落雷のような声を張り上げて扉を開けてくれた。
巻き毛で恰幅の良い女性が軽快に笑って出迎えた。
「七草学園知ってるよ‼ウチの野菜はあんたたちが手伝ってる畑の人から仕入れてるからね‼あとカッパ先生ね!おんもしろい苗字だから覚えてたんよ!電話で頼まれたんだわ!男の子と女の子が下山してきたら学校に連絡してくれって!入んな!」
声の大きいその女性はサクタの顔を見て、一層声を響かせた。
「あー!あんた!覚えてるよ!去年か、二年前⁉野菜の仕入れに行った時に見かけたからねぇ!その時あんたといた子は男の子だったけどねぇ!元気だったかね‼」
バッシバッシと肩を叩かれると、サクタも女性の姿が記憶に引っかかった。
(…日色と農業サポートに行った時に、そういえばいたな。このおばさん)
一年前にいなくなってしまった友人を、サクタは思い出した。
その時は畑の管理人にも、この女性にも「若い男の子が二人もいてすごく戦力になる」と喜ばれたものだ。サクタも日色も褒められて悪い気はせず、調子に乗って頑張り過ぎた。
ぐったりと地面に転がった彼らに対して、うちに来てくれたら裸の女が見られるよ!なんてこの女性に言われたことも思い出した。
サクタは少しの寂しさと懐かしさを噛みしめて「お世話になります」と頭を下げた。
電話の向こうにいる流未は涙声だった。
『本当にごめんね…二人を探しもしないで』
目の前に流未がいるみたいに、サクタは首を勢いよく横に振った。
「先生は悪くないよ‼むしろ心配かけてごめんなさい…。みんなが分けてくれた水とお菓子、本当に助かりました。先生たちは無事に学校に帰れましたか?」
『ええ。…サクタ、マナちゃんをお願いね。日本に来たばかりでこんな目に遭っているからきっと不安に思ってるはずだから』
「え。アッ、えっと…そうです、ね」
むしろ守られている側なので、サクタは歯切れの悪い返事になってしまった。
当のマナは電話に代わる気は全くないらしく、サクタの後ろで家の様子を見渡している。
咳払いをしてからサクタは流未に伝えた。
「ちゃんと帰ります。待っててください」
『待ってるわ。私も、みんなも。今日の夕方にはそっちに他の先生が車で迎えにいくからもう少し、頑張ってね』
少し年の離れた姉のような、そんな優しい声だった。
サクタは流未の声に耳を澄ませてから電話を切った。
そこへ、サクタたちを招き入れた女性がズンズンとやってくる。
「アンタたち泥だらけだねぇ!お風呂入んな!」
いちいち声を張り上げる女性はマナとサクタを脱衣所に押し込み、着替えをてきとうに置いて出て行った。
「‥‥ん?いやいやいや、なんで二人一緒に脱衣所に入れてんのあの人⁉」
3秒ほど経ってから状況を理解したサクタが急いで脱衣所から出て行こうとした。
マナはそんな彼の腕をがっしと掴む。
「ちょっと出て行かないで」
「出て行くよ!なんでだよ!」
顔が爆発しそうなほど真っ赤になっているサクタに、マナはきょとんとする。
次いで少し悪戯な微笑を浮かべた。
「一緒に入ろ?って言われると思ってるの?」
「おもっ、お、思ってないよ!」
「私も思ってないよ」
「‥…ひ」
悪戯な笑みから真顔になったマナに、サクタはマナの意図がつかめず怯えた。
マナは腰に手を当てて説明する。
「私が君の護衛だってこと、忘れないでね。私のギフトは危険を予測するのは得意だけれど、だからって物理的な距離への対応はできないの。私の銃は防水加工されているから風呂場には持ってくけど、丸腰になるわけだからあまり離れないで欲しいかな」
「‥‥はい」
合理的な説明はサクタの羞恥をさらに攻撃し、彼は絞り出すように返事をした。
サクタの厚意でマナが先に風呂場へ行き、サクタは脱衣所で風呂場の扉に背を向けて座っていた。
サクタは視界に入るものをなんとなく観察する。
木の壁はシミや腐食が見られ、壁の隅には蜘蛛の巣が張られている。
家自体の壁も薄いので外の賑わいもよく聞こえる。
内陸の家らしい家だが、電話があるということは比較的裕福な家なのだ。
隣にストリップ劇場があるので、もしかしたらここの夫婦がオーナーである可能性が高い。
ちゃぽん、と風呂場から水音が聞こえる。
無意識に音へ集中してしまう自分の身体が憎い…とサクタは抱えた膝に力を込める。
顔の火照りが引かないでいると、マナの方から声がかかった。
「良かったね。思ったより早く帰れそうで」
浴室特有の響きが妙に耳につく。
サクタは自分の気持ちを振り払うように首を振り、「うん」とできるだけ平静な声で答える。
会話をしてもいい雰囲気を感じ、サクタは改めて聞きたいことを尋ねた。
「マナの銃、防水加工してあるってさっき言ってたよね」
「うん」
「防水加工ができる武装って沈没都市じゃないと難しいよね?マナの組織はFageの安全を考えている組織だけど、沈没都市の所属ではない…って、結局、マナの組織の立ち位置がよく分からないんだけど」
「沈没都市から派生した、独立した組織だって言えばイメージ湧く?」
「んー…なんと、なく…」
腑に落ちないことが声で分かる。
それはそうだろう。
マナの言っている通りならば、なぜ沈没都市から独立する必要があるのか説明がつかないからだ。
と推測していても筋の通った良い嘘が思いつかず、マナはサクタの不満そうな空気を無視することにした。
水滴の落ちる天井を見上げていると、不意に〝ブースト〟を思い出す。
『君、泥蛇の兵士だよね⁉泥蛇がギフトを回収しているならいつか君だって回収されるよ!なんのためにあいつらに従っているの⁉』
ヒヨリの言葉にかぶるように、サクタからも質問が飛んで来る。
「マナの組織がギフトを集めたらマナはどうするの?」
ちゃぷ、とお湯から手を出して湯舟の縁に引っかける。
(〝ボア〟の目指すさいご…の、あと?)
心の中で呟いてみる。
全く体の中が動かなくて、つい本音を零した。
「なにもないな…」
「え?なに?ごめん、聞こえなかった!」
お湯に沈んでしまいそうな本音はサクタに届くことはなく、代わりに彼の場違いな謝罪を返された。
マナは目を座らせ、ざぶん!と勢いよく立ち上がり、容赦なく脱衣所の扉を開けた。
案の定、サクタはまた騒ぎ始める。
「ウッッわああ‼びっくりした!ちょ、え⁉俺ここにいていいの⁉」
振り向きこそしないものの、わたわたと背中が慌てている。
しかしこの脱衣所にはこびりついたしみだらけの鏡がある。
ついそこに映った彼女の裸体に視線をとどめてしまう。
小柄な彼女だがハリの良いものが出ている…と思ったところで目をギュッと瞑った。
見られたことに気づいているだろうにマナは至って平然としている。
「組織のことを知るのは、組織に入る覚悟が決まってからの方がいいんじゃない?」
「あ、ああそれはそうかも…いや、俺、マナが着替えてる時は脱衣所から出るよ!一回風呂場に戻って!」
「タオル取るだけだよ。サクタがこっち見なければなぁんにも問題ないのに。あ、それにほら、護衛中だからここにいてね」
「なんか護衛を言い訳にして俺で遊んでない…?」
「こんなに面白い反応するなら一緒にお風呂入ればよかったなぁ」
「遊んでんじゃん‼もう!早く服着て‼」
耳も手も赤い彼に、マナはくすりと笑う。
『君に〝プレリュード〟が使われているのなら、記憶の操作をされている可能性だってあるんじゃない⁉』
体の水滴を拭きながら、マナはヒヨリの言葉が耳から離れなかった。
この身体の中にいる気持ち悪い小さな塊から聞こえてくる。
(…確かに私やルカは〝プレリュード〟で戦闘訓練を受けている。でも〝プレリュード〟はエンドレスシーを活用したシミュレーション訓練だ。シミュレーション世界で得た経験を信号データに変換して、現実世界の身体に反映させられる。そういう機械。それが記憶を操作するなんて、きっとでたらめだ)
子供の頃の記憶がないのは内陸で蔓延る麻薬の影響だと、〝ボア〟が教えてくれた。
きっとルカも同じで、だから〝ボア〟が保護したのだと。
〝ボア〟が与えてくれた役割以外なにも持たない自分にはただ、〝ボア〟の命令を聞けばいい。
マナはそう、自身に言い聞かせた。
――――――――――――
ルカは冷たい吹雪にウッと目を閉じた。
目的地まであともう少し。休憩のためにニーナは場所を確保してくれていた。
その場所が空くまでルカは建物と雪の壁の間で身を潜めていた。
しばらくすると、ニーナが建物から顔を出した。
若い男女がクスリと性で溺れていたが、ニーナは彼らから建物を奪い取った。
そして外で隠れていたルカを呼ぶ。
もともと3階建ての建物だったのだろうが残っているのは1階だけだ。2階に続く階段はあるが、そこは雪や風が入ってこないように滅茶苦茶に封鎖されている。
暖炉に火をつけると次第に空気が暖かくなった。
ルカは顔周りの布を取り払った。小麦色の髪がボサボサになり、手で直す。
「凍え死ぬかと思ったよ」
「石もあっためて温石でも作るか」
「僕はなにする?」
「外から雪を持ってきてくれ。お湯を作る」
「…凍え死ぬすんぜんだったのに」
ぷーっ、とルカの頬が風船のように膨らむ。そんな顔をまた布で巻きなおし、クッカーを持って外へ出た。
外から「あああぁぁ、あああぁぁぁ…」とルカの切ない声が聞こえる中、ニーナは腹ごしらえの出来るものを用意していく。
作業中、マナ同様耳の裏に貼りつけた培養シールから〝ボア〟の声が聞こえた。
〈そっちは順調みたいだね。〉
「マナの方は順調じゃないのか」
〈うふふ。マナとサクタさんのギフトが化学反応を起こしてしまってね。あ、〝化学反応〟は例えだからね。でもおかげでサクタさんのギフトは検討がついたよ。〉
「回収と勧誘、どっちだ?」
〈回収。もう少し後でいいけれどね。〝ヴィアンゲルド〟も忙しいから〝シメイラ〟の回収にすぐ向かえるか分からないでしょう?その時はマナに相手してもらわないと。〉
ニーナは培養肉の非常食と乾燥マカロニ、ココアの粉とコーヒーの粉を並べていく。
彼女の雫のような瞳は暖炉の暖かい色を映しても、彼女の冷たさに変化はない。
ニーナは一言、「そうか」と答えた。
頭に雪を積もらせたルカが戻って来る。
「見てニーナ。こんな少しの時間で、雪がこんなに…――あっ、ココア!」
クールな表情のルカがパァッ、と明るい顔になる。
急いで体の雪を落とし、雪を入れたクッカーをニーナに渡す。
心底嬉しそうなルカはニーナを覗き込んだ。
「僕が一生懸命頑張った時、ニーナはココア入れてくれるよね。今、お花持ってたらニーナにあげるのになぁ」
「いらん。なんの遊びだ」
ニーナは暖炉にクッカーを下げ、ルカの額にぺち、と手を当てる。
「むぅ」と声を上げたルカはハッと閃いた。
手袋も外し、銀の指輪〝フルート〟から銀糸を解いた。
カップにココアとコーヒーを作りながら、ニーナはなにやってんだろう、と視線を送る。
ルカは銀糸でなにか編み上げ、立体的な形を作った。
「ふぅ。これ、ニーナにあげるよ」
銀糸で作った薔薇だ。
暖炉の揺らぐ炎に照らされ、オレンジの光をほのかに帯びている。
ニーナは無言でココアの入ったカップをルカに差し出すと、代わりにルカがその薔薇をニーナに差し出した。
ニーナは小さく首を振る。
「そうやって花を作っていたら銀糸がなくなるぞ。お前のその指輪にしまわれた銀糸には量に限りがあるんだ。いざという時に足りなくなったらどうする?」
「大丈夫。この一本だけだもん。もっと欲しいってニーナが言ってもあげないよ」
「…言わんわ」
頭に置かれる前に、ニーナはその薔薇を受け取ることにした。
満足したルカは大好きなココアをニーナから受け取り、幸せそうに飲んだ。
ニーナはその薔薇を暖炉の火に当たるよう、くる、くる、と回す。
暖炉の火が彼女の瞳を照らすより、薔薇に反射した光の方が不思議と彼女の瞳に熱を与えていた。
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ニーナとルカを追う一団は7名。
〝フォア〟
〝カーボナイト〟
〝ソルジャー〟
〝カタム〟
四名のギフト持ち。
そして成人した男女の双子と、10歳頃の少女。
少女が指さした方向へ彼らは進み、着実にニーナとルカに近づいていた。