#1 あなたのいない日々。
「お姉様、そろそろおやすみになりませんこと?」
「大丈夫です。もう少しだけ」
消灯時間ギリギリまで机に向かう私を気遣ってくれる仁乃にやんわりと返しつつ、私はドイツ語の問題集を解き続ける。
私は将来医学の道に進むつもりだが、そのためには英語の他にドイツ語も出来た方がいい。
医学系の論文にはドイツ語のものも多いからだ。
英語に関してはそこそこの自信がある。
元々、家庭教師をつけられて徹底的にやっていたし、百合ヶ丘のコミュニケーション重視な英語教育もあって、リーディングだけではなく、リスニング、ライティングもかなりのレベルまで来ていると自負している。
油断は禁物だけれど、現状維持のペースで積み重ねていけば大丈夫なはずだ。
その他の受験に必要な教科も、基本的に隙は無いと思う。
でも、不安なのだ。
「そんなに根を詰めすぎると、お体に障りますわよ?」
「私は元々の出来があまりよくないので、努力しないといけないんです」
「……お姉様にそのつもりがなくても、嫌みにしか聞こえませんわ」
はあ、と溜め息をつく仁乃。
「何をそんなに焦っていらっしゃいますの?」
「……私、焦っているように見えましたか?」
そんなつもりはなかったのだけれど。
「いつねさんが亡くなって以来、お姉様は何かに取り憑かれているかのようですわ。落ち込んでいらっしゃるよりはいいかと思って見守らせて頂いていましたが、ここ最近は少し度が過ぎるようですので」
「……そうですか」
他ならぬ仁乃が言うならばそうなのだろう。
いつねが亡くなって以降、私と最も親しくかつ親身になってくれる友人は彼女をおいて他にない。
「冬馬様に何か言われたりしました?」
「いえ、そんなことはありません」
正式に付き合うことになった冬馬は、今となってはよき理解者であり伴侶である。
彼は忙しい身の上だがきちんと時間を作ってくれるし、いいお付き合いをさせて貰っている。
「じゃあ、どうしてそんなに必死になっていますの?」
「……必死なのはいけないことでしょうか?」
私はふと思ったことを仁乃に尋ねた。
「いつねが亡くなった時、私は彼女に誓ったんです。このかけがえのない人生を大切に、一生懸命に生きると」
十六歳という若さでこの世を去ったいつね。
病と闘いながらも常に笑顔を絶やさず、懸命に生きていた彼女。
私はその彼女に恥ずかしくないような生き方をしようと心に決めた。
「お気持ちは分かりますけれど、少し無理をしすぎだと思いますわ」
「そう……でしょうか」
「ええ。今日のところは私の顔を立てると思って、お休みになって下さいまし」
そこまで言われては強く出ることも出来ない。
私はドイツ語のテキストとノート、それから電子辞書を鞄にしまった。
ふと、机に置いてある懐中時計が目に入った。
「……」
クリスマスにいつねが贈ってくれたものだ。
今では大切な形見である。
銀色の胴体にそっと触れる。
冷たい。
懐中時計は今も刻々と時を刻んでいる。
秒針が止まることはない。
そして、この時計が彼女と一緒の時を刻むことは、もう、ない。
「お姉様?」
「なんでもありません」
私は懐中時計を大切にしまうと、ベッドに向かった。
仁乃が明かりを落としてくれたので、部屋はすぐに静かな沈黙の闇に沈む。
勉強を途中中断してしまったので、目が冴えてなかなか眠れない。
こういう時は、余計なことを考えてしまう。
なぜ、私はいつねと和解できなかったのだろうか。
なぜ、最期の言葉を交わせなかったのだろうか。
なぜ、後悔をさせたまま逝かせてしまったのだろうか。
前を向いて生きていくと決めたものの、私の中には消えない後悔がずっとある。
もしかしたら私は、それを考えたくなくて、がむしゃらに勉強しているのかもしれない。
「ごめんなさい」
それは誰に向かっての謝罪だったのだろう。
そんなことすら分からずに、私は何度目かの寝返りをうつ。
睡魔は、訪れなかった。
◆◇◆◇◆
「三十八度二分。完全に風邪ですね」
学校医の先生が体温計を見ながらそう言った。
翌朝、私は調子を崩してしまった。
私は平気だと言って登校しようとしたが、私の顔色を見た仁乃に慌てて止められてしまった。
仁乃はすぐに学校医の先生を呼び、診察を受けて今に至る。
「インフルエンザではないようだけど、油断はしないこと。しっかり食べてよく眠りなさい」
「学校は……」
「行けるわけないでしょう。悪化したらどうするの」
ぴしゃりと言われてしまった。
「薬は出して上げるから、二条さん、後で取りに来てくれる?」
「かしこまりましたわ」
「それじゃあ、お大事に」
「ありがとうございました」
学校医の先生を見送ると、仁乃は私をベッドに追いやった。
「だから申し上げたでしょう。お体に障りますって」
「……返す言葉もありません」
でも、本当に自覚症状がなかったのだ。
そんなに無理をしていたのだろうか。
「とりあえず、食事を運んできますわ。何か食べたいものを仰って下さいな」
「正直、あまり食欲がありません」
「それでも、なにかお腹に入れませんと。薬も飲まなければいけませんし、何かあっさりしたものならいかがですの?」
「なら、たまご粥がいいです」
今生では食べた覚えがないが、前世では小さい頃に母がよく作ってくれた。
「たまご粥ですわね。メニューにはありませんが、食堂のおばさま方に頼めばなんとかなりますわ。それじゃあ、運んできますから、くれぐれも安静になさって下さいまし」
そう言うと、仁乃も部屋を出て行った。
部屋の中に一人残された私は、なんとなく部屋を見渡した。
二人部屋なので、室内は寮としてはそこそこ広い。
でも、こんなに広かっただろうか。
私はなぜか不安になって、毛布の裾を強く握りしめた。
◆◇◆◇◆
「お姉様、何をやっていらっしゃいますの!?」
お膳を抱えて戻ってきた仁乃は、開口一番そう叫んだ。
「ごめんなさい。なんか……落ち着かなくて」
私は昨日のドイツ語学習の続きをしていた。
何かをしていないと、不安に押しつぶされそうだったのだ。
「学校医の先生も仰ってたでしょう! 今は安静になさらないと、治るものも治りませんのよ!?」
仁乃の言うことはもっともだ。
私だって、自分がどうかしてるとさすがに思う。
でも、ダメなのだ。
「何かしていないと、不安で潰れてしまいそうなんです」
「お姉様……」
弱音を吐いた私に、仁乃が心配げな視線をよこした。
「ごめんなさい、変なことを言って。せっかく仁乃が食事を運んでくれたのですから、暖かいうちに頂きますね。仁乃は?」
「わたくしはもう一度食堂に戻って頂くつもりでしたけれど、ここに残ります。今日はわたくしも学校を休みますわ」
仁乃が険しい顔でそう言った。
「心配しすぎですよ。仁乃は登校して下さい」
「ですが!」
「仁乃」
なおも言いつのろうとする仁乃を、私は制して続けた。
「お願いですから、登校して下さい。私は、もう私のことで誰に負担をかけるのが嫌なんです」
「……お姉様」
暗になにかを察したのか、仁乃はおとなしくなった。
私は笑みを作りながら続ける。
「ただの風邪ですから、たいしたことありませんよ。心配して下さってありがとうございます」
「……分かりました」
諦めたようにそう言って、仁乃は登校の準備を始めた。
私はたまご粥を口に運びながら、それをなんとはなしに眺めていた。
部屋の中に沈黙が満ちる。
息苦しいのは、風邪のせいだけではないはず。
「では、行ってきますわ。どうかお大事になさって下さいまし」
「ええ、いってらっしゃい」
仁乃を見送ってまた粥をひと匙食べる。
食欲は、相変わらずない。
「……わたくしでは、力不足ですのね」
どこからか声が聞こえた気がしたけれど、私はそれを聞き取ることが出来なかった。
◆◇◆◇◆
「おい」
「?」
低い声を聞いて、私は我に返った。
気がつくと私は机の上に突っ伏して眠っていたようだった。
いや、気絶していたのかもしれない。
「何やってんだ、お前は」
「……冬馬?」
声の主は冬馬だった。
整った顔には明らかな怒気が宿っている。
意識がぼんやりしている私は、どうして彼が怒っているのだろう、などと考えていた。
「寝てろって言われなかったのか?」
「言われましたけれど、落ち着かなくて」
「……はあ……。仁乃の心配的中かよ……」
どうやら冬馬がここにいるのは、仁乃の差し金らしい。
心配させてしまったようだ。
「おら、ちゃんと布団に入れ」
「でも……」
「いいから」
強引に布団の中に押し込まれてしまった。
それにしても、冬馬はどうしてここにいるんだろう。
仁乃の心配を聞いたのだということは察せられるけれど、男子が女子寮に入るにはそれなりに煩雑な手続きが必要なはずである。
「それで?」
「それで、とは?」
「一体、どうしてまたこんな無茶をやらかしたんだ。概略は仁乃から聞いてるが、どうも要領を得ない」
「私はただ、一生懸命生きたいと思っただけです」
私は昨晩、仁乃に話したようなことをかいつまんで話した。
「……」
「冬馬?」
私の話を聞いた冬馬は、難しい顔をした。
「サバイバーズギルトって知ってるか?」
「知りません」
「戦争や災害、事故、事件、虐待なんかに遭いながら、奇跡的に生還を遂げたヤツが、周りの人々が亡くなったのに自分が助かったことに対して、しばしば感じる罪悪感のことを言うんだ」
今のお前はその状態に近い、と冬馬は言った。
「それはさすがに大げさじゃありませんか? 私は別にそんな酷い目にあっていませんし」
「もちろん、厳密な定義からは外れるんだろうさ。でも、生きていることに負い目を感じてるって意味じゃあ、変わらねえよ」
生きていることに、負い目?
「お前は、いつねの死からまだ立ち直ってない」
冬馬がずばり切り込んできた。
「そんなこと」
「ない、と言い切れるか?」
問われて、答えに詰まった。
昨晩も色々なことを考えてなかなか寝付けなかった。
いつねが亡くなってしまったことを、克服できていると胸を張って言うことは出来なかった。
「お前、今、すげー無様だぞ」
「!」
あまりの物言いに、私は冬馬をにらみつけた。
「んな顔してもダメだ。お前、仁乃がどんな顔して俺に相談しに来たか、知らねえだろ」
「仁乃がどうしたっていうんですか」
口も聞きたくなかったが、仁乃のことを言われては聞くしかない。
「お前が自分のことを省みずに無理を重ねるのを、止めることが出来ない。自分が情けない、とよ」
「……」
私は、仁乃にそんな思いをさせていたのか。
情けないのは私の方だ。
罪悪感でいっぱいになるが、今は冬馬の相手が先だ。
「お前、仁乃と本当の親友になったんじゃなかったのか? その呼び方は飾りか?」
「なんなんですか、さっきから。言いたいことがあるならはっきり言ったらどうですか」
「なら言わせて貰おうか」
冬馬はせせら笑うような表情で、
「お前、色んなことをいつねのせいにしちまってるな」
「――っ!」
反射的に、冬馬の頬を張っていた。
とっさの行動に自分でも驚いたが、怒りの方が強かった。
「よくもそんな――!」
「いつねの死をどう意味づけるかは、お前次第なんだぞ。仁乃や俺を散々心配させて、それでいつねに胸張れるのか? いつねの生き方―― 一生懸命ってのは、自暴自棄のことじゃないだろ」
冬馬は飽くまでも冷静に言葉を重ねてきた。
冬馬の言うことがあまりにも正論で、私は二の句が継げなかった。
「俺はな、何もいつねのことを忘れろって言ってるんじゃない。だが、いつねの死でお前が自分を見失ったままじゃ、あいつも浮かばれないだろ」
強いまなざしだった。
その目に非難の色はなく、あくまで深い労りだけがあった。
「……どうしたら、いいんでしょう」
私は顔を伏せてうめいた。
もう、何をどうしたらいいのか分からなかった。
いつねの死後、彼女の生き方を見習って懸命に生きようとしてきたつもりだった。
でも、それはただの自暴自棄だと言われてしまった。
彼女の死を無駄にせず、なおかつ自分を見失わない生き方とは一体どんなものなんだろうか。
「笑って生きることだ。周りも、そしてお前自身も」
「笑って……?」
「気づいてないんだろうが、いつねの死後、お前は笑う回数が極端に減った。前からそんなに笑う方じゃなかったが、それでも今は酷い」
全く気づかなかった。
私はそんな酷い顔をしていたのか。
「いつねの周りはいつも笑顔が絶えなかっただろ? アイツは一生懸命生きていたが、そのことで周りの顔を曇らせるような生き方はしてなかった。そうだろ?」
「冬馬……」
その通りだ、と思った。
彼女の周りにはいつも笑顔があふれていた。
そして、彼女自身もいつも笑っていた。
それは強がりでは決してなかったはずだ。
「とりあえず、肩の力を抜け。まずは笑ってみろ」
「……難しいですね」
「だろうな。でも、俺や仁乃、それにみんながいる。お前が自然と笑えるようになるまで、そばにいてやるさ」
優しい声だった。
つられて、顔を上げて冬馬を見る。
冬馬は、柔らかく微笑んでいた。
その微笑みが、彼女の――いつねのそれと重なって見えた。
「あ……」
自然と、涙がこぼれた。
なぜだか分からない。
でも、何か歯止めを失ったように、次から次へと涙が浮かんでくる。
「すみません、私……」
「いいから」
そう言うと、冬馬は私を抱き寄せてくれた。
考えてみると、彼女が亡くなってからこちら、感情をあらわにすることはほとんど無かった気がする。
「とりあえず、思いっきり泣け。そばにいてやるから」
「とう……ま……」
私は冬馬に胸を借りて思うさま泣いた。
泣いて、泣いて、ひたすら泣いた。
いつねがいなくなって寂しいとか、彼女のいない日々がつらいとか、今でも毎日思い出してしまうとか、そんなことをぼろぼろ流れる涙と一緒に吐き出した。
「おーお、溜まってんな。ちょいと妬けるぞ、おい」
「……ぐす……冬馬は別枠ですけどね」
「そんだけ憎まれ口がたたけりゃ、立ち直ってきた証拠だ」
ぽんぽん、と抱きしめられた背中をたたかれる。
「矛盾してるようだが、一生懸命生きるには手抜きや休憩も必要なんだ」
「……訳が分かりません」
「マラソンだってペース配分があるだろ? お前がやってたのは常に全力疾走してるようなもの。狂気の沙汰だ」
「言いたいことは分かりましたが、もう少し言い方はなんとかならないんですか?」
「周り……特に仁乃を心配させたお仕置きも兼ねてるからな」
それを言われると弱い。
しょげていると、コンコンとノックの音が聞こえた。
「お姉様、お加減はいかがです?」
「仁乃……」
仁乃は決まりが悪そうな顔をしていた。
その表情で、私は「あ、これ聞かれたな」と思った。
「どこから聞いてました?」
「えっと……なんのことでしょう?」
「最初からですか」
「違いますわ! お姉様が泣かれた所からです! ……あ」
簡単に引っかかってくれるのが仁乃の愛すべき所だが、寄りによって一番恥ずかしい所をしっかり聞かれていた。
埋まりたい。
穴を掘って埋まりたい。
「うし。じゃあ、選手交代だな。後は任せたぞ、仁乃」
「え? あ、ちょっと冬馬様!」
言うだけ言って、冬馬は去って行った。
後に残された私たちの間に、気まずい沈黙が流れる。
「えっと、その……」
「仁乃」
「は、はい!」
「心配を掛けて申し訳ありませんでした」
私は深々と頭を下げた。
その様子を見て、仁乃が慌てた。
「わ、私こそ、余計なお節介をしてしまって。私ではどうしようもなかったので、つい冬馬様に口を滑らせてしまいました。申し訳ありませんわ」
「いえ、仁乃の判断は間違っていなかったと思います。冬馬くらいズバッと言われなければ、私は目を覚まさなかったと思います」
「じゃあ、少しは立ち直られまして?」
「完全に、とは言えませんが、とりあえず皆さんと笑いながら歩いて行くことを目指してみようと思います」
その言葉を聞いて、仁乃は安心したように笑った。
なんだか、恥ずかしい。
恥ずかしいついでに、言ってしまおう。
「それで仁乃、相談があるのですが」
「なんなりと」
私は少しだけためらってから、口にした。
「いつねの思い出話……付き合って頂けませんか?」
「いいですとも。でも……」
仁乃は一旦言葉を切って、
「今度こそ、ちゃんと休んで下さいね?」
「はい」
きっちり釘は刺されたのだった。
いつね、一生懸命に生きるって難しいね。
あなたはホント凄かったんだって、痛感してるよ。
でも、私は大丈夫なんだと思う。
私は一人じゃない。
こんなにもたくさんの人たちが、一緒にいてくれるんだから。
その中にあなたがいないことは、とっても寂しいことだけど、それでも歩いて行くよ。
いつか、あなたに胸を張って報告するために。
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