閑話 悔恨の残影。
一条 家高 視点のお話です。
「全く……佐脇の奴め。何を考えておるのだ」
珍しく祖父が愚痴めいたものを口にしている。
昨夜の和泉と佐脇のやりとりの件に関してだろう。
あれは俺もどうかと思う。
「まあまあ。佐脇も一族への忠誠心が過ぎてしまったのでしょう。帰ったらじっくり話えばいいことよ。ね、源一郎さん」
「佐脇でなければ、即クビにしているところだ」
未だぶつぶつ言っている祖父と祖母の後を歩く。
ここは一条家の氏神―― 一条神社へと続く道である。
駐車場から神社まで少しだけ距離があるので、その間は徒歩での移動となる。
昨日まで降り続いていた雪のせいで足場は悪く、空気もきんと冷えている。
吐き出す息も白い。
「お祖父様ご機嫌悪いなあ。今日はなるべく影を潜めておいた方がいいかもね」
「ああ」
小声で耳打ちしてくる家和に答えながら、俺は別のことを考えていた。
昨夜の佐脇と和泉のやりとり。
一見、一族の規律を守ろうとする頭の堅い家令が、古い慣習を嫌う令嬢に苦言を呈するように見えたが、俺は全く別のものに見えた。
佐脇は俺からいつねを必死に遠ざけようとしていたのではないだろうか。
そうされるだけの理由が、俺にはある。
「例えそうだとしても、昨日の佐脇の態度はないよ。事情を知らないいつねちゃんに失礼だ」
俺の考えを読んだかのように家和が言ってくる。
こいつは敏い。
俺などとは比べ物にならない。
俺とて人一倍の努力をしているが、家和の足元にも及ばない。
こういう奴のことを、天才と言うのだろう。
家和の天賦の才が、そして俺の不甲斐なさが、一条を割りかねない論争になっていることは知っている。
我が身が本当に情けない。
祖父や父は当主は俺に、と言っているが、俺は正直なところ家和の方が適任だと思っている。
これからの時代、慣習よりも能力がものを言う。
長子相続にこだわることはないと思うのだ。
家和は明らかに俺よりも優れている。
ならば、当主には家和がなるべきだ。
佐脇もそう考えているはずだ。
家和派の言うことに、俺自身は異論はない。
その辺りのことに不満はないのか、と家和に以前尋ねたことがある。
「正直、一条家の当主なんてものに、そんなに魅力は感じていないんだ。今あるものを貰うより、一から作り上げたほうが面白いと思わない? 僕は僕で自分の城を築くよ」
からりと笑って、家和はそんなことを言っていた。
確かに、家和の才能なら、一条家の力を使わずとも十分に新しい事業を起こすことが出来るだろう。
けど俺は、その力を一条家のためにこそ使って欲しいと思っている。
一条家は名家だ。
それはいい意味でも悪い意味でも。
一条家は大きくなりすぎた。
だんだんと小回りが効かなくなり、時代に対応できなくなりつつあるのを俺は感じている。
俺でさえそうなのだから、祖父や父は言わずもがなだろう。
特に一族の総帥として君臨する祖父は。
祖父は和泉を東城の息子と結婚させることで、一族に新しい風を吹き込もうと考えているようだ。
先日の誘拐事件を契機に、やや和泉に対する態度や考え方を改めたようだが、これは変わっていまい。
東城の息子――冬馬はいい男だ。
彼も俺とは違う、家和タイプの男だ。
祖父も可愛い孫娘に彼以上の相手はいないと思っているようである。
聞けば冬馬も和泉には好意的だというし、和泉も彼のことを憎からず思っているようだ。
2人の仲がうまくいくといいと思う。
そんなことを考えている間に、神社についた。
作法に従って身を清め、参詣する。
神に願うことはただひとつ。
(彼女たちの魂が、安らかに眠れますように)
あれからもう3年になる。
俺は彼女を――早紀を殺した。
早紀は佐脇の孫娘で一条本家で使用人として働いていた。
明るくて闊達な娘だった。
会話が苦手な俺の言葉を急かさずにじっと待って、その倍くらい話しかけてくれるような娘だった。
当時大学3年生だった俺は女性に免疫がなく、最初は早紀のことを敬遠していたが、徐々に親しくなった。
恋仲になるのに、それほど時間はかからなかった。
それでも一線はなかなか越えなかった。
抱いて欲しい、という彼女の言葉を何度も断った。
俺の身体は自分一人のものではない。
万一、妊娠でもさせてしまったらとんでもないことになる。
そのことは、彼女も分かっていたはずだ。
それでも、彼女は諦めなかった。
ピルを服用するようになり、これで絶対に妊娠しないから、と俺に迫った。
彼女は別に性欲にかられてそんなことを言ったのではないと俺は思う。
きっと、より深いつながりを求めていたのだろう。
かたや名家の嫡男、かたやそんな家に仕える一使用人。
2人に未来がないことは、わかりきっていた。
せめて今だけでも、と強く迫られ、一度だけ肌を重ねた。
いや、こんな言い方は卑怯だろう。
俺は迫られて仕方なく抱いた訳ではない。
ずっと、彼女を抱きたかった。
愛していた。
心の底から。
だから、望んで、渇望して、抱いた。
それが破滅への引き金だった。
早紀は妊娠した。
避妊は完璧にしたはずだった。
だが、彼女は俺の子に間違いないと言う。
念のためDNA検査も行われたが、結果は早紀の言うとおりだった。
早紀は申し訳無さそうにしつつも、俺の子を孕んだことを心の底では喜んでいたように思う。
俺も、それなら、と腹をくくっていた。
しかし、一条家の下した結論は堕胎だった。
早紀は必死に懇願した。
一条家とは全く関係ない所で生きていくから、どうか産ませて欲しい、と。
俺も何とか産ませてもらえるよう嘆願した。
しかし、一族の結論は変わらなかった。
佐脇までもが、堕胎を支持――いや、厳命した。
早紀は結局、子どもを堕ろした。
そして精神を病み、数カ月後、自室で首をつって自殺した。
遺書にはただ、俺への謝罪の言葉だけが一言。
『ごめんなさい、家高さん』
それだけだった。
一連の出来事は、一条家の中で完全に闇に葬られた。
今でも早紀のことを夢に見る。
夢の中の彼女は俺を責めているようだった。
実際の彼女は一言もそんなことは言わなかったというのに。
分かっている。
全ては俺の罪悪感が見せている幻だ。
あの時、俺に力が――それこそ家和のような力があれば、彼女を救えたのではないだろうか。
そんなことを考え続けている。
佐脇が警戒するのも無理は無い。
早紀といつねはどこか似ている。
容姿や雰囲気は全く違うが、俺に対しても物怖じしない所がそっくりだ。
明るく前向きな所も。
そんな彼女が俺と接近することを、佐脇は恐れたのだろう。
正直に言おう。
俺はいつねに惹かれ始めている。
俺は人付き合いがあまり上手くない。
いや、はっきり言って下手だ。
院でも友人と呼べる人間は数えるほどしかいない。
そんな俺に、いつねは近づいてきてくれた。
それだけでなく、励ましさえしてくれた。
祖父に似ていると言われた時、とても救われた気がした。
彼女の柔らかな微笑みが脳裏に焼き付いて離れない。
早紀を忘れたわけではない。
断じてない。
むしろきっと、俺はいつねと早紀を重ねて見ている。
そうと分かっていても気持ちが動くのが抑え難い。
だが、これは実らぬ恋だ。
俺は二度と過ちは犯さない。
早紀を殺した俺に、恋など許されるものか。
家がよしという相手と添い遂げ、跡継ぎを残すのが、俺の使命だ。
だが、もしも一条という家を家和が継いでくれるのであれば――いや、よそう。
それは最低の逃げだ。
俺は俺に出来ることを、出来る範囲で精一杯やるしかない。
たとえ結果が悪くても、その時々は最善をつくす。
凡人に出来るのはそれくらいだ。
ただ、時々虚しくなることはある。
俺は何のために生きているのだろう、と。
自分の生まれが恵まれていることは十二分に分かっている。
生まれてこの方、金で苦労したことはない。
世の中には明日をも知れぬ生活をしている人間がいることを知っている。
そんな人たちから見れば、俺の悩みなど贅沢なものなのだろう。
それでも、問いは、思いは消えない。
どうしてもっと自由に生きられないのだろう。
せめて嫡男に生まれていなければ、と。
いや、考えても詮ないことだ。
何をどう考えた所で、現に俺は一条家の嫡男なのだから。
ただでさえ家が不安定になっている今、家和に家督を譲るなどと言い出せば、一条家は真っ二つに割れるだろう。
それだけは断じて避けなければならない。
両肩に何かが重くのしかかる。
それは一条家を背負っていることの重さなのか、亡くなった彼女たちへの罪の意識なのか、俺にはわからなかった。
「早紀……」
今は亡き彼女の名を口にする。
その音は冬の風にさらわれ、虚空へと消えていった。
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