1. 真の魔王
「聞こえなかったかしら?」
荘厳な謁見の間に、凛とした声が響く。
軽やかな鈴のようで、小鳥の囀りのようで、それでいて有無を言わせぬ圧を感じさせる声だ。
「勇者はいらないって言ったの」
ごめんなさいね、と付け足す艶やかな唇が弧を描く。
相手の理解を促すように小首を傾げれば、ゆるやかに波打つ黒髪の先で、身の内から漏れ出た七色の魔力がパチリパチリと小さく爆ぜた。鮮やかな虹色の瞳を縁取る睫毛の先でも同様に。
強い魔力を持って生まれるこの国の皇族の、そのなかでも格別に魔力量の多い者に見られる現象だ。夜空を煮詰めたような濃紺色のドレスも相まって、まるで眩い星々を従えた夜の女神のよう。
美しくも威圧的なその光景を前に、勇者(自称)は、恐らく唯一の取り柄だと思われる整った顔を青くしながら言った。
「い、いやいや、勇者がいなきゃ魔王は倒せないじゃないスか! アナタには俺が必要でしょ!? スキル『勇者』を持って生まれた、この俺が!」
声高に叫びながら、金の髪を振り乱し、焦りを滲ませ歩み寄る。
ガシャン!
すかさず、阻むように勇者の眼前で二本の槍が交差された。よく磨かれた銀製の槍だ。その奥に座す主を象徴するような黒と虹色の房飾りが、パシンと勇者の鼻先を叩いた。
「下がれ! 不敬だぞ!」
銀色の鎧に身を包んだ近衛たちが揃いの槍を手に、大気を震わすような怒気を放つ。
「このお方をどなたと心得る!」
「我がエリュシオン帝国第八皇女にして、皇位継承権第三位!」
「そして数百年に一人の超絶レアスキル『魔法帝』を発現された皇家の至宝!」
「更にはつい先日、勇者以外には決して倒せないと言われてきた魔王を単騎であっさりテイムしてきた、もはや真の魔王と言っても過言ではないリンティアナ・エル・オパール・エリュシオン皇女殿下だぞ!!」
近衛たちは至極真面目な顔で、まるで示し合わせたかのように交互に叫んだ。
終盤は君たちの方がよほど不敬ではないのかと問いたくなる内容だったが、自称勇者はその迫力に押され、突っ込むこともままならずに尻もちをついてポカンとしている。
真の魔王などと不本意な呼び名を冠された第八皇女リンティアナは、薄っすらと黒い笑みを湛えて言った。
「お前たち、あとで修練場を百周ね」
「「はっ、ありがたき幸せ!!」」
お仕置きを理解していないのか、それともお仕置きですら有難いのか。近衛たちはキラキラとした目で礼を言った。
皇女の傍らに立つ黒服の従者が、はぁ、と諦観を滲ませた溜息を吐く。稀代の魔法帝でもある皇女リンティアナに少し様子のおかしなファンがいることは、特に珍しくもないのだ。
「ま、魔王を、テイム……?」
信じられないと言いたげに、勇者は青い顔を一層青くした。柔らかな金髪に美しい碧眼、そして無駄に整った王道アイドル風の顔立ちのせいで、見た目だけは完璧な薄幸の美青年だ。
「う、嘘だ! そんなこと出来るわけ……」
【ないと思っとったぞ、我も。こやつに会うまではな】
どこからともなく返事をした声に、勇者は思わず肩を竦めて辺りを見回した。
決して大きな声ではなかった。皇女のような謎の威圧感や、近衛たちのような明確な怒気を孕んでいるわけでもない。けれど何故だか聞いた瞬間に肌が粟立った。まるで体が勝手に恐怖を感じているかのように。
ふと見れば、皇女の右手には杖が握られていた。長さおよそ四十センチ、杖と呼ぶには些か短い。
黒く艶やかな柄、先端には子供の拳ほどある大きな透明の石が一つ、そして首の部分にも青緑色に光る小さな石が一つ嵌まっている。
それが何か、勇者にはすぐにわかった。あまりにも有名だからだ。この世界で並ぶ者のない魔法師の頂、魔法帝リンティアナの振るう魔法の杖。
それを何故、今。
勇者がそう思うと同時に、リンティアナがニッと微笑んだ。
「ごめんなさいね。出来ちゃったのよ、テイム」
そう言い終わるかどうかの刹那、まばゆい光が迸る。
「うわっ!」
たまらず勇者は目を瞑った。僅かな間を置いてそろそろと目を開ければ、皇女の隣には奇妙な少年が立っていた。いや、正しくは浮いていた。
背丈は百五十センチほどだろうか。白く硬そうな質感の髪に、肌は南方の民のように浅黒い。ぴんと尖った耳の上には天を穿つかのように渦巻く一対の黒い角。
どう見ても人間ではない。紛れもなく魔族、それもかなり高位の。
ゾッとするほど美しい鮮血のような色をした瞳が、さして興味もなさそうに勇者を捉えた。その瞬間、勇者の背をゾワリと駆けあがる猛烈な恐怖。
「ヒ……ッ」
勇者は思わず息を呑んだ。
羊の目のように横倒しの赤い瞳孔がきゅるりと絞られれば、まるでその場の重力が一気に増したかのように、全身がズンと重くなった。抗えずに両の膝をつく。全身の骨が音を立てて軋むような気がした。
とんでもない圧だ。今すぐこの場から逃げ出したい。震える息を吐き出すことすら恐ろしい。これはもう、疑いようもなく。
「ま、魔お……」
言い終わる前に、恐怖で言葉が圧し潰される。
冷や汗まみれで今にも崩れ落ちそうな勇者を一瞥し、皇女の左側に微動だにせず立っていた従者が一歩前に出た。
黒に近い濃灰色の髪に、冷たく光る青緑色の瞳。細い金縁の眼鏡の位置を直しながら咳払いを一つして、彼は冷ややかな視線を勇者に向けた。
「御覧の通り、魔王は我が主が制圧しました。だからもう勇者は必要ないのです。ご理解頂けましたか?」
ニコッと人好きのしそうな笑顔を湛えているが、目は全く笑っていない。言外に『今すぐここを立ち去れ、これ以上一秒たりとも主の視界に入るな』と、これ以上ないほど強烈に滲ませている。
顔も上げられないほどに憔悴してしまった勇者は、震えながらこくこくと頷いた。大蛇三匹を前にした小さな蛙同然の彼に、それ以外の選択肢は残されていなかった。




