余話:夜の花畑 1
神殿の私室へ戻り、エリオットは深く息を吐いた。途端に肩から力が抜けるのを感じたので、どうやら今日は1日中緊張していたらしい。
神官服を脱ぎ、シャツとズボンという身軽な格好になる。ブラシを手にして吊るした神官服にかけようとした時、花びらが1枚、ひらりと床に落ちた。
色は、紫。
(ああ……先ほどの結婚式のものか)
ウォルス教の中ではメルディアという女神が愛情を司っている。その象徴である紫は結婚式で重要な色だ。
先ほどまで行われていた結婚式でも、新郎は紫のハンカチを胸に挿し、新婦は紫のベールを被っていた。紫の小物を身に着けた出席者たちが、最後にふたりへ祝福を籠めて紫の花を撒いたので、それが神官服についたのだろう。
今回の結婚式は、エリオットが初めて執り行ったものだった。
精霊を信仰する北方で生まれ育ったエリオットはウォルス教の結婚式に馴染みがない。
大神殿で神官見習いをしていた頃には神官の手伝いとして見たこともあったし、今回の式に当たって事前に手順書を何度も読みこんでいたものの、いざ祭司となってみると、葛藤が生まれたせいでいろいろと不手際があった。なんとかこなすことはできたが、あまりうまくいったとは言えない式になってしまった。
それでも新郎と新婦だけでなく、村の皆もあたたかく見守ってくれたおかげでなんとか笑顔のまま式は終わり、エリオットは人の去った神殿を神官補佐と共に片付け始めた。
式の後は村祭りと同様、村の広場と、広場に面した酒場とで宴が始まっている。神官補佐もこの村の民であるのだから宴には出たいはずだ。頃合いを見計ってエリオットは神官補佐たちに切り出した。
「あとは私だけで片付けられますから、皆さんもどうぞ宴へ行ってください」
予想していたとおり、神官補佐たちは慌てて首を横に振った。
「そんなわけには参りません!」
神官補佐というのは神殿の雑用係だ。本来ならば「神官が帰って、神官補佐が片付けをする」ことはあっても、逆はありえない。
それでも彼らを宴へ行かせたいエリオットは言葉を重ね、何とか神官補佐たちの首を縦に振らせることに成功した。
「片付けが終わりましたら、神官様もぜひ広場へいらしてくださいね」
「お待ちしておりますからね」
帰りがけ、口々に言う神官補佐に、
「ええ、神殿の後片付けを終えたら参ります」
エリオットは微笑んで答えたが、広場へ行くつもりなど最初から無かった。
実を言えば新郎新婦や村人たちからも広場へ誘われ、そのすべてに同じように答えていた。神官補佐を帰したのも、片付けが終わった彼らに「一緒に行きましょう」と誘われるの防ぐためだった。
次に会ったとき何か言われるかもしれないので、あらかじめ言い訳を準備しておく必要はあるが、宴に出るよりよほど気は楽だ。
そう考えてさっさと私室へ下がり、神官服を脱いだ。
――すべては結婚を連想させるものから早く遠ざかりたかったためだと言うのに、部屋の中でその残滓を見てしまうとは。
ブラシを握ったまま、床の花びらを見つめたエリオットは息を吐く。今度は先ほどと様相が違って、憂鬱さを多分に含む重い息だった。
エリオットにとって結婚とは、決して喜ばしいものではない。
理由のひとつは母だ。
平民な上に北方においては余所者、しかも正妻でもなかった母は、公爵家の嫡男と恋に落ちたため幸せな暮らしは望めなかった。そのせいでエリオットには、結婚をすると女性が不幸になるという気持ちが心のどこかにある。
そして、もうひとつの理由。
「エリオット。今度、会って欲しい子がいる。可愛い女の子だ。もしかすると将来、エリオットのお嫁さんになってくれるかもしれない子だよ」
父のクロードに言われて会った娘、マリエラ。
クロードはエリオットをシャルトス公爵家の跡継ぎとして推すため、クラレス伯爵家のマリエラとの婚約を進めていた。
だが父は死に、エリオットは祖父によって『役目』を与えられた。大神殿へ向かうことが決まったエリオットは、マリエラとの間に結ばれた将来の約束を解消することにしたのだ。
ほんの数回会っただけの彼女を好きだったのかどうかと問われれば「よく分からない」と答えるしかない。ただ、自分のせいで振り回された彼女が哀れであり、申し訳なくもあった。最後まで「エリオット様との婚約は解消しません」と言っていたらしい彼女だが、今は別の相手を選んでいれば良いなと思う。
エリオットに固執していても、未来などないのだから。
いつか北方へ戻り、大精霊の木を枯らした公爵として民の憎悪を一身に受け、シャルトス家の幕引きをするのがエリオットの役目だ。いずれ来るその時を、エリオットはひとりで迎えるつもりでいた。
自分と一緒に居ても、民に憎悪を向けられ討たれるばかり。
ならば横に立つ妻も、血を引く子も、必要はない。
(……そんな風に考えている私が、ふたりで共に在る幸せについて語り、神に誓いを立てさせるとはね)
自嘲の笑みを浮かべながら床に落ちた花びらを拾い、迷って机の上に置く。
(後で地に戻そう)
心身共に疲れている今、これ以上は何もしたくない。幸せな結婚の象徴から顔を背け、身を投げ出すための椅子へ向かおうと足を踏み出した時だった。
コンコンと窓が叩かれ、エリオットはびくりと肩を震わせる。
振り返ると、窓の向こうにはニコニコと笑う人物がいた。
しばし唖然とした後、窓辺に寄ったエリオットは下枠を持って引き上げる。夕の気配が漂う空気と共に、溌剌とした声が室内に流れ込んできた。
「こんにちは、アーヴィン!」
エリオットのもうひとつの名を呼んだのは、半月前の村祭りで友人になった11歳の少女、ローゼだった。
「広場に居ないから神殿だと思ったの。あたしの予想は正しかったわね!」
「……この辺りには、神殿の関係者しか入れないんじゃなかったかな?」
ようやく得られると思ったひとりの時間を邪魔され、エリオットの口調は尖る。
「そうよね。ごめんなさい。でも、今回だけ許して」
素直に謝罪の言葉を述べるローゼだったが、顔にはあまり悪びれた様子がなかった。エリオットは眉根を寄せ、両手を腰に当てる。
「……許すかどうかの判断をするのは、ここへ来た理由を聞いた後にしようか」
「理由を聞いてくれるの?」
ローゼは顔をパッと輝かせた。
「じゃあ、絶対に許したくなるわ! だってあたしは、とっても素敵なところへアーヴィンを案内するために来たんだもの!」
「とっても素敵なところ?」
「そう! ――アーヴィンは最近、川向こうの林へ行った?」
グラス村には1本の川が流れている。ゆったりとした流れのこの川では、村人が洗濯をしたり、夏の暑い時期には子どもたちが水遊びをしたりする。
ローゼの言う『川向こうの林』とは、その川の中流あたりにある場所のことだろう。確か、グラス村の中で最も大きな木立だったと記憶している。
「何日か前に、見回りで行ったよ」
「昨日と今日は行ってない?」
エリオットがうなずくと、ローゼは「良かった!」と叫ぶ。
「じゃあ改めて、お出かけのお誘い。今から一緒に川向こうの林へ行きましょ」
「今から?」
「そう、今から」
「何のために?」
「えーっと……り、理由なんていらないと思わない?」
なんだそれは、と思いながらエリオットはこっそりため息を吐く。
「……もうじき暗くなるよ」
「大丈夫!」
胸を張ったローゼは、携帯用の明かりを掲げて見せた。
「とっておきの輝石を持ってきたの! うちにある中で一番大きいやつ! お父さんたちが結婚の宴へ行く前に、こっそり取っておいたんだから!」
力を加えると光を発する『輝石』は、大きなものほど明るく、持続時間も長くなるが、質が良いものはかなり値も張る。庶民が持てるような輝石は性能もたかが知れており、ローゼが自慢げに見せてくれた『とっておきの輝石』も、世間的には端石と呼ばれるごく小さなものでしかない。
それでもローゼは暗がりを少しでも明るく照らそうと考え、わざわざ石を寄り分けて来てくれたのだ。
正直に言えばエリオットは気乗りしなかった。
いつもの笑顔を作るのも億劫なほど心には細波が立っている。できればこの後は静かな部屋の中で、何も考えることなくぼんやりとしていたい。
だがここで断ってしまうと、ローゼはきっと酷くがっかりする。せっかく持ってきてくれた明かりを点すことなく、とぼとぼと家路に向かうのだろう。
肩を落として歩く想像の中の小さな背と、自分の気持ちとを秤にかけてエリオットは心を決める。腰から手を下ろし、うなずいて言った。
「一緒に行くよ」
「良かった!」
破顔した少女は神殿の裏庭へ顔を向け、
「向こうで待ってるわ。寒くなると思うから、あったかくして来てね!」
言うや否や、手を振を振って駆け去って行った。
(……まるで、小さな嵐だな)
窓を下ろして外からの空気を断ち切っても、中の温度は乱されている。
物憂い気分で神官服を箪笥に戻したエリオットは、代わりに取り出したベストとマントを手早く着て、静穏でいられたはずの部屋から外へと出た。
ローゼは夕暮れの風に髪をくすぐらせながら裏庭の門の前で待っていた。
エリオットの姿を確認して、彼女は目を輝かせる。
「アーヴィンの普段着姿って初めて見たけど、素敵ね。なんていうんだろう。村のみんなとは違う感じで……そう、貴族ってこんな感じなのかなって気がする」
「……貴族はもっと豪華な服を着ているよ」
わずかな動揺を押し殺してエリオットは答えた。出自や出生地に繋がりそうな話はできる限り避けたいので、彼女の興味を引きそうな話題を素早く探す。
「服と言えば、ローゼが着ているのは新品だね」
「分かるの?」
「分かるよ。今日の式でも着ていたろう? よく似合っていると思っていたんだ」
「ありがとう!」
ローゼは微笑む。頬が赤く染まっているのは、夕刻という時間のせいだけではないはずだ。
「あのね、夏の天候が良かったから、作物の育ちも良かったの。おかげでうちもちょっと余裕ができて、姉弟みんなに新しい服を買ってもらえたのよ」
「それは嬉しいね。確かに良い仕立ての服だ」
「でしょ! だからね、大事に着るのよ。あと何年かしたらイレーネの服になるんだし」
奔放さばかりを見せていた少女の顔は一転して姉の顔になる。くるくると変わる表情が可愛らしく思えてエリオットが頬を緩ませたとき、ローゼはふいに表情を硬くした。
「でもね。あたし本当は服じゃなくて、マントが欲しかったの」
「マントが?」
ローゼが着ているのは丈の短い茶色の防寒着だ。確かに少々型が崩れており、何年も使っているのだろうと思わせた。そのために新しいものが欲しいのかとエリオットは思ったが、違うのだとは次のローゼの様子で分かった。
「……うん。あたし、マントが欲しいの。だってオトナはみんな、マントを着てるでしょ」
赤い瞳がきらりと輝いた。
その光は11歳のものとは思えないほど異彩を放っている。
「マントがあったら、あたしもオトナになれる気がするの」
彼女の瞳はエリオットのマントに向けられている。しかしエリオットには、彼女がマントを通じて違う何かを見ているような気がした。
「マントが欲しいわ。オトナになりたい。そうしたら、あたし――」
呟きながら少女の輝きは弥増していく。そこから感じられるものは希望と、期待。そして、深い欲。
7つも年下なはずの少女が、年下だとは思えない様子で何かを見ている、その、表情。
――彼女に惹かれる。彼女から目が離せない。
瞬きすら忘れてエリオットが見つめていると、ローゼは小さくため息を吐いた。
「でも、今年は服を新しくしてもらったから、これ以上買ってもらうのは無理ね」
呟くローゼは、見慣れたいつもの顔だった。
「あっ! そうだ! もしかしたら再来年くらいにお母さんのマントをもらえるかも! そうしたらあたしだってオトナの仲間入り……」
今度は大人と口にしても横顔は無邪気なままで、先ほどの様子は欠片も見当たらない。まるで幻のようだ、と思いながら見つめるエリオットの様子はいつもと違っていたのだろう。話の途中でローゼは眉を顰め、探るような調子で尋ねてくる。
「……あの……アーヴィン? どうかした?」
「……いや」
食い入るように見つめていたことを恥じ、誤魔化すように首を振ったエリオットは裏庭の扉を開く。
「林へ行くんだろう? もたもたしては遅くなると思ってね」
「え? ……うん……?」
戻る返事は怪訝そうだったが、彼女は深く追及しなかった。




