21.お願い
握手を交わした日からずっと、ローゼはレオンと共に「どうやって山の精霊に立ち向かうか」の相談を続けた。
レオンが山の精霊の支配を受けていたことも、ローゼの中に大精霊がいたことも、ここで大いに役に立った。
話を進めるうちにふたりともが「これなら」と納得できる方法を見つけたので、今日をその日とすることに決めた。
まずは聖剣を通じて山の精霊と接触する。
この白い空間は、聖剣の中でレオンが籠っている状態のものらしい。いつもローゼと会話をする時のように外へ意識を向けると、聖剣の近くにあるはずの岩と話ができる。聖剣に守られているこの状態ならば、山の精霊はローゼに手出しできない。
【じゃ、いいな?】
「……うん」
横に立つレオンが軽く右手を上げると、白い空間は色鮮やかな世界へと一変した。そのあまりの変わりようにローゼは息をのむ。
ローゼはあらかじめ、レオンに外の見え方を聞いていた。
なんとなくローゼは「壁に窓ができて外を覗く感じ」ではないかと思っていたのだが、意外なことにレオンからの返事は「どういう不思議かは知らないが、聖剣の場所に自分が置き換わっている感覚」というものだった。
にわかには信じがたかったが、こうして目の当たりにすると、レオンの言っていたことが正しかったと分かる。
(すごい……!)
一方で、当然ながらレオンは見え方に感慨などないようだ。小さく息を吐いて独り言のように呟いた。
【ああ……話し合いには結構な時間を使ったんだな】
彼の言葉通り、ローゼがフィデルへ来た頃はまだ夏の気配が残る時期だったというのに、辺りはすっかり様変わりをしていた。
まず目に入ったのは灰色の雲で覆われた空だ。わずかな隙間から覗く青は薄い色味をしており、冬の気配が近づきつつあることを示している。現に山はかなりの部分が白く染まっているので、平地に雪が降るのも間もなくだろう。
周囲の木の葉も黄や赤に色を変えており、既に落葉しているものも多くある。おかげで周囲の床だけでなく、正面の透明な岩にも、ローゼの背後で横たわる黄金の光に包まれた体にも、茶色くなった葉がたくさん落ちていた。
(あたしの体……)
人の体にあったローゼの記憶は、高い空から落ちるあの感覚が最後だ。こうしてきちんと体が残っているのがどうにも信じられない。
おそるおそる体の横にしゃがみ、じっくりと見る。光に包まれているため分かりづらい所もあるが、外から確認した限り大きな怪我はないようだ。
ほっとしたローゼは思わず口元に笑みを浮かべる。
(良かったー。……でも自分で自分を見てるのって、なんか変な気分。これ、触ったらどんな感じなんだろう?)
しゃがみこんだローゼは魂の手を体へ伸ばし――口元を強張らせた。
手のひらは何も触ることなく体をすり抜けてしまったのだ。しばらくして突き当たった先から伝わってきたのは、白い空間と同じ滑らかな質感。
そこでようやく気が付いて足元を触る。見えているものは摩耗した石の床だが、こちらも石の感覚はない。辺りにある落ち葉にも手を伸ばしてみるが、やはり同じ感触だけが伝わってきた。
(……全部、幻なの……?)
見えているものはどれも違うというのに、手応えはすべてが同じ。
衝撃で動けなくなるローゼの肩に、触れているものは違う感覚が伝わってくる。レオンの手だ。
【見えてはいるんだけどな。残念ながらこっちから触ることはできないんだ。だけど望めば、外からの感覚は分かるんだぞ】
夏の日差しを受ければ暑くなるし、冬に外へ出たときには風を受けて寒くなる。
更に、緊張したまま聖剣の柄を握るローゼの手の冷たさも、抱きしめられたときの柔らかさも分かるのだと言った後、レオンはローゼの頭の上に手を置き、すっかり慣れた様子で髪をくしゃくしゃと乱しながら笑う。
【だからって別に、変な気を起こしたりはしないからな?】
「……変な気って何よ。やらしーわね」
乱された髪を撫でつけながらローゼも笑うが、きっと笑みは強張っていることだろう。
白い空間の中にいた頃は、早く外が見たくて仕方なかった。
だがこうして実際に見られるようになると、白い空間だったときの方が良かったと思う。
すべてが見えているというのに、すべては虚像でしかない。
それはまるで自分の存在を世界に拒絶されたような、自分だけが異質なのだと思い知らされたような、そんな孤独な感情を呼び起こさせるとローゼは気が付いたのだった。
* * *
彼は既に落ち着いていた。
初めのうちは予定外のことに呆然としたものの、よく考えると焦る必要などない。
何しろ彼は永遠とも言える時間をすごすことができる。対して目の前にいるのはただの人間だ。ほんの何十年か待てば寿命が訪れ、肉の身は朽ち果てる。
人の体さえなくなってしまえば宿っていた仲間は出てくるしかなくなるのだから、その時に改めてこの森に留め置けば良いだけの話。
ひとつ懸念はあるものの、それはおそらくただの考えすぎだ。予想外の出来事が立て続けに起きたあまり、些細なことでも気になってしまうだけに違いない。
彼がそう、己に言い聞かせた時だった。
どこからともなく、ひそひそぼそぼそと話す声が聞こえる。
しかも精霊の声ではない。人間の声だ。
なぜ人間の声がするのだろうか、と彼は怪訝に思う。あの日以来、彼は自身の領域である森に人間を一歩も立ち入らせていない。森の外では何度も姿を見ているが、今聞こえたものはそんな遠くからする声ではなかった。
万が一のことを考えてたったひとりだけいる人間を確認してみるが、その体には何の動きもない。
ならば念のために領域の中を確認しようかと思った時、今度は少し大き目の声が聞こえてきた。
「あのー。すみませーん」
声がするのは横たわる人間の辺りからだった。しかし体はぴくりとも動いていない。いつも通り固く瞼を閉じたまま黄金の光に包まれて横たわっている。だというのにまた声がした。
「……おかしいな……。えーと、あたしの声、聞こえてますかー?」
(どういうことだ)
見守る彼の前で声は続く。
「ねえ、レオン。反応がないんだけど。もしかしてあたしの声は外に聞こえないんじゃない?」
【そんなはずはないと思うが……】
「だったら、声が小さいのかなぁ……。あーのー! すみま――あぐっ!」
【いきなり大声を出すな、うるさいだろうが!】
「だからって頭を叩くことないでしょ! 馬鹿レオン!」
ふたつの声にはどちらも覚えがあった。ひとつは横たわる人間のもの。もうひとつは人間と共に在った精霊のものだ。
『お前たちは何だ』
思わず問うと、言い合いはぴたりと止んだ。
* * *
「……聞こえてたみたいね」
【そうだな】
うなずくレオンはいつもの様子を装っているが、顔も、声も、緊張を隠しきれていない。もちろん、ローゼも緊張している。何しろこれからの話し合いで自身の道が変わるのだ。
「ちゃんと助けてね」
【任せろ】
力強い彼の返事に後押しをされ、ローゼは正面の岩に向かって口を開く。
「改めてこんにちは。あたしはローゼ・ファラーと言います。今は体から離れて、魂だけになって話してます。あと、一緒にいるのが、聖剣の精霊のレオン」
山の精霊からは返事がない。
ローゼの記憶にある中で、人の名を呼んでいた精霊というのは古の大精霊だけだ。もしかすると精霊に対して名乗りは不要なのかもしれないが、これから大事な話をするという時には何となく、自身が誰なのかを明かしておきたかった。
「えーっと。実は、お願いがあるんですけど」
『願い。ここまで来ても願いか。人間とはどこまで勝手な存在か』
「あのう、前にも言ったはずですよ。あなただってすっごく勝手なんです。人を好きになるなっていう考えを周りに押し付けてるでしょう? そのせいでたくさんの精霊たちが、自分の意思で行動できなくなってるんですから」
気圧されて声が震えないよう心を強く持って、ローゼは続ける。
「本当なら精霊たちはとっても仲間思い。しかも自分たちだけじゃなく、地上に生きるものたち全部を仲間だと思ってくれてる。もちろん、人間のことも例外じゃない」
『……なぜ、そう言い切れる』
「あたしは、どの主の意思も受けてない精霊たちを知ってるからです。嘘なんてついてません。あなたも分かってますよね?」
山の精霊は何も言わないが、ローゼはそれが肯定の裏返しだと思っている。
以前、ローゼがつけている銀の腕飾りを見た銀狼は「儂の知る精霊のものとは違う」と言った。銀狼に分かるのだ、山の精霊ほどの存在が分からないはずはない。
「その精霊たちは、あたしの大事な人と仲がいいんです。友達なんです。だからこうして力を貸してくれてる」
ローゼは以前、アーヴィンから聞いたことがある。精霊の持つ情は人のものとは深さが違うのだと。
精霊たちは好奇心が旺盛だ。そのため見知らぬ場所へと旅立って行くこともあるが、一方でグラス村の北の森のように、自分の生まれた場所や馴染みのものたちに親しみを覚えてとどまってくれることも多い。それもきっと、精霊の持つ深い情によるものなのだろう。
山の精霊も本来なら、この地で生きる人間に対しても仲間として接してくれたはずだ。しかし彼は長い年月をかけて人への嫌悪を育ててしまった。その分だけ、仲間だと認識している精霊たちへの愛情が弥増すこととなっている。
だからこそ交渉は可能だろうというのが、ローゼとレオンの一致した意見だった。
「ちょっと話が逸れちゃいましたね。改めて本題に入ります」
ローゼは右手でそっとレオンの手を握る。不安な時、聖剣の柄を握っていたように。
レオンもローゼの手を握り返してくれる。その力強さのおかげで、勇気が湧いてくる。
――きっと、大丈夫。
「お願いします。あたしと、友達になってください」




