18.其の場凌ぎ
「……そう。今日も山のお方に変化はなかったのね」
報告を聞いたカーリナは顔を顰める。『人当たりの良い優しい術士』の姿をしている時には決して見せない表情だ。
ここはランドビックの地の神殿にある会議用の部屋。建物の奥まった部分にあり、本来ならば表の喧騒は届かない。しかし今日は朝から人々の声がずっと聞こえている。昼も過ぎた今、喧騒は更に大きくなっているようだ。
憂鬱な思いを抱えながらカーリナは声を張る。
「今後に関して、誰か良い意見はあるかしら?」
問いかけるが、場に居る術士の重鎮は10名とも黙ってうつむくばかりだった。小さくため息を吐いたカーリナは緩く腕を組む。そのどちらの手にも指輪はない。
それというのも、山の精霊の一部である石が昨日の内にひとつ残らず粉々となったせいだった。石が無ければ土台の金環だけをしていても何の意味もない。
過去の術士たちが山の精霊と何代にも渡って交渉を重ね、ようやく渡してもらえた石は、当の精霊によって一瞬ですべて取り上げられてしまったのだ。
これは今後、彼が人間とはもう関わらないという意思表示だろう。
いや、そもそも彼は昨日の態度で人間との断絶を告げている。
入れなくなった山裾の森。
山から聞こえてきた言葉の内容。
そして、空高くから落とされたローゼ・ファラー。
山近くの森の付近にいた人々は大混乱に陥った。山の精霊の声は術士にしか聞こえないが、『森に入れない』という異常な状態は誰もが体験できたし、まるで見せつけるかのようなローゼの姿もほぼ全員が目撃したのだ。
「あの娘は何をやったんだ?」
「山の精霊はどうしたんだ? 精霊の恩恵は今後どうなるんだ?」
見物客たちは当然のように術士へ詰め寄るが、残念ながら術士たちは答えるべき言葉を持たなかった。
シャルトス領の精霊たちとは違い、フィデルの精霊たちは積極的に人へ恵みをを与えてくれるわけではない。
人間は、精霊が自分たちのために使う力の余りを受けているだけ。それをもったいぶって「恩恵だ」と周知し、崇めることで、精霊と関わる力を持つ術士は尊敬を集めている。
だが、実際に精霊と関わったことのある術士が何人いるだろうか。精霊と会話したことのある術士が何人いるだろうか。――ましてや、精霊術を使ったことのある術士など。
術を使うためには精霊たちから力を貸してもらう必要があるが、人を嫌うフィデルの精霊たちが力を貸してくれることなどない。実を言えば『筆頭術士』を名乗っているカーリナですら精霊術を使ったことはなかった。
フィデルにおける精霊信仰の実態などそんなものだ。
だからこそ術士たちは、どの程度までなら世間に――もちろん、自身の家族も含めて――情報を開示して良いのかを分かっていた。でなければ自分の持つ『特別』は一瞬で崩れてしまう。
しかし昨日はさすがに個人で対応できる事態の範疇を超えていた。混乱する彼らは曖昧な内容の答えを返し続け、それによって見物客たちは術士への不信感を募らせてしまった。
「どうしてはっきりと答えないんだ? まさかお前たち、本当は精霊の言葉が聞けないんじゃないだろうな?」
誰かが呈した疑問のせいで場は更なる混乱を極めた。
地の神殿の扉を開けた途端に弾き飛ばされて気を失っていたカーリナが目を覚ましたのは、ちょうどそんな時だった。
とにかくその場は
「あの娘が山の精霊を怒らせました。ですが心配はいりません。フィデルの民と精霊たちの間には長きに渡って築き上げた強固な絆があります。我々術士が必ずや精霊の怒りを解いてみせましょう」
と言って何とか場を収めた後に一切の口外は禁止したものの、どうやら吹聴した人物がいたらしい。山の精霊が人間に危害を加えたという話はランドビック中に広まりつつあるようで、不安を抱いた民が続々と地の神殿へ押し寄せている。
それだけでも頭が痛いことだというのに、カーリナを更に悩ませているのはローゼが神殿関係者だったという事実だ。
ランドビックの神殿からは既に神官が訪れ、ローゼに何が起きたのか、事態の説明を求めてきている。
これは「近日中に説明の術士を差し向ける」と言って強引に追い返したが、今後はローゼを呼ぶため力を借りたフィデル大神殿、そしてフィデル大神殿からの連絡を受けたアストラン大神殿からも事情説明を求められるであろうことは想像に難くない。
(それに……)
術士の姉を糾弾する、聖剣の主にして国王・ヴァルグを思って唇を噛んだ時、ひとりの術士が口を開く。もしや何か良い意見が出るのかと期待したのだが、小さな声の内容は今日の朝から何度も聞いたものと同じだった。
「……本当に、ローゼという娘は死んだのでしょうか」
またか、と落胆する一方、言いたくなる気持ちはカーリナもよく分かった。実際に見ていない者にとっては信じがたい出来事なのだし、何よりローゼさえ生きていれば状況のいくつかは打開できるのだ。
しかし、部屋に響く苛々とした声が希望を打ち砕く。
「間違いありません」
答えたのはカーリナやローゼと共に山へ行った術士だ。
「何度も申し上げている通り、私たちは、山の方があの娘や、あの娘の中にいた『古の大精霊』に向けて話す声を聞いています。娘が空から落とされる姿も見ました。あれを見聞きして、ローゼという娘が生きていると信じられる者は誰もいません」
現地で目の当たりにした者たちからしてみれば、いつまでも信じてもらえないのは腹が立つのだろう。ぴしゃりと言い切った彼女だけでなく、山へ行った術士たちも揃って、尋ねた術士を睨みつける。
もごもごと口の中で何かを言って黙る術士を見ながら、カーリナはそっとため息を吐いた。
現地へ行っていたとはいえ、しばらくの間気を失っていたカーリナは山の精霊の声を聞いていないし、ローゼが落とされる瞬間も見ていない。
何かの間違いなのではないかと思いたい気持ちの方がずっと強く、誰かに「あれは嘘だ」と言ってもらえたのなら、きっと信じてしまうだろう。
(……でも、そんなことを考えても仕方ないわね)
表から聞こえる人々の喧騒を聞きながら、カーリナは顔を上げる。
「とにかく今回は、山の方に対して何の警戒もしていなかった我々の失敗ね」
「……仰る通りです……せっかくあの娘には本当のことを伏せていたというのに、すべては意味がありませんでした……」
近くの老術士に続いて口々に同意する術士たちの声を聞きながら、カーリナは出迎えた際のローゼを思い出す。
出自は単なる村人だとは聞いていたが、思いのほか品は良かった。シャルトス家とも関連があるくらいだ、おそらくどこかで礼儀作法を学んだのだろう。
知識量も予想以上に多く、会話の端々にも聡明さの片鱗を見せていた。しかし経験の少なさ故の純朴さが強く出ており、結論から言うと事前の予想通り御しやすそうな娘だった。
精霊の娘ではあっても、ローゼは他国の出身者だ。精霊よりも、神殿への思い入れが強いはず。しかも聖剣の主という地位を持っている以上、どんなに口止めをしていても、神殿側にすべてを話してしまうかもしれない。
さらに、ローゼが自身の中にいる古の大精霊の価値を知った場合、フィデルの術士を差し置いて、山の精霊と個人的な交渉を始める可能性もある。
術士たちの話し合いでそう決めていたので、カーリナはローゼに対して警戒し、事情を隠して応対した。
一方で、山の精霊には何の警戒もしていなかった。今回は彼の側からの呼び出しだったというのに、いつも通りにすれば良いだろうとタカをくくっていたのだ。まさか彼が人に対し、だまし討ちのような真似をするとは想像もしていなかった。
「あの娘は本当に芳暁花だったわ。――とにかく、あと何日か待って状況が変わらないなら、本格的に手を打たないといけないわね。暴動が起きる前に」
カーリナが言うと、術士たちの同意する声が再度部屋に満ちる。
だが、誰もが分かっているはずだ。
山の精霊に見放された今、打てる手などない。今後はどの程度の恩恵が受けられるのかも分からず、もしかすると人の地に与えられていた精霊の力もすべて消えるかもしれない。
世を欺き続けることしかできない術士が遠くない未来にすべての信頼と尊敬を失うことは間違いなく、そしてフィデルの人々が神殿への傾倒を始めるのもまた間違いないのだ。
* * *
座り込んだローゼは間近にある表情のない顔を見つめる。
「えーと……レオン、もう一度言って」
請われたレオンは片膝をついたまま、ゆっくりと言葉を区切る。
【俺は、お前の魂を体に戻さないと、決めた。だからこの領域で、お前の魂は守られ続ける】
「ありがとう……?」
言って、ローゼは首を傾げた。
「でもその場合、あたしの魂はどうなるの?」
【俺と一緒にここへいることになるな】
「レオンと一緒かあ。うーん、まあ、悪くはないけど……」
ローゼは周囲を見回す。
どこもかしこも白い空間は他に色がない。なんだか寂しい景色だと思う、その心が伝わったのだろうか、レオンの声には微かな笑いがまざる。
【今は聖剣の内側に籠っている状態だから何もないけどな、見ようと思えば外は見られる】
「どうやって?」
【聖剣がある場所へ移動する感じだ。そこから現世を覗く。声もかけられるぞ】
へえ、とローゼは呟いた。
レオンはそうやっていつも、ローゼと接触していたのか。
【他に、過去も見られる】
「過去? 誰の?」
【俺が関わったことのある人や場所なら誰でも、どこでも、いつでも】
「なにそれ! やらしーわね!」
目つきを厳しくしたローゼに対し、レオンは苦笑する。
【そんなこと言うなって。もちろん無遠慮には覗かない。ちゃんと線引きはしてる】
「……本当にぃ?」
【まあ、その辺りの感覚はいずれお前も分かるさ】
含みのあるレオンの言葉を聞いて、ローゼは怪訝に思う。
「なんであたしにも分かるの?」
【今後はお前もこの場所で、今まで関わった人物や場所の過去を見るだろうからな】
「……なんであたしが見るわけ?」
【やっぱり理解してないな、お前は】
ためらいがちに伸ばした右の中指で、レオンがローゼの額を小突く。それはまるでローゼの存在を確認するかのような動きにも思えた。
ローゼも、声だけだったはずのレオンと触れ合えることが面白かった。くすくすと笑い声を漏らすローゼの前で、しかしレオンの表情はまた無に戻る。
【いいか? お前の魂は今後、俺と一緒にいるんだ。聖剣の中で、ずっと一緒に】
「うん。さっきから聞いてる。あたしの魂は、レオンと一緒に……」
改めて反芻して、彼の言葉はようやく思考の奥に届いた。ローゼは、あれ、と呟く。
「じゃあ、あたしの体は……?」
【無事だ。魂が聖剣に守られる限り、体は腕飾りが守る】
「そう……そうよね、それもさっき……」
途端にローゼは気付いてしまった。
緊張のあまりかすれそうになる声で、ローゼは更に尋ねる。
「ねえ、レオン……あたしの体はどこにあるの?」
【落ちて来た場所にある。あの山裾の地の神殿だ】
「てことはつまり、あたしの魂は聖剣の中にいて、体は地の神殿にいて……」
じわじわと嫌な予感が忍び寄る。
「……ねえ、いつまで? あたしの魂と体は、いつまでその状態でいるの?」
【山の方がお前へ危害を加えなくなるまで】
「そ、そっか。……じゃあ……山の精霊があたしへ危害を加えなくなるのは、いつだと、思う?」
【あの方はきっと、古の大精霊を取り戻すまで諦めないだろうな】
ローゼから視線を外し、レオンはあらぬ方向を見る。
【だから俺は、お前の寿命が尽きるまでここで魂を守る。――体には戻さない】
引きつる喉がか細い声を上げた。
震える手がレオンの襟首をつかむ。
「なにそれ!? あたしの魂と体はこのあとずっと別々ってこと!? だ、だったら、あたしは……あ、あたしは……」
レオンはローゼを見ない。
声が震える。
「……あたしはどうやって、アーヴィンのところへ戻ればいいの?」
答えはない。
「ねえ、レオン!」
全力で揺さぶっているはずなのに、彼はピクリともしない。
「――黙らないで! こっちを見て! ちゃんと答えて!」
ローゼの金切り声が響く中、されるがままになっていたレオンが、ようやく視線を合わせてくれる。
ゆっくりと3回呼吸するだけの時間をおいた後、瞳に力を籠めて彼は言った。
【諦めろ】
その言葉が全身に絡みつくような気がした。動きを止めたローゼは何も言えなくなり、レオンの瞳をただ呆然と見つめた。




