余話:弟と兄
結婚披露の宴はあと3日催される。もちろん今日も例外ではない。
城内の人々が準備に追われているこの朝、客を出迎える当のフロランが城内ではなく馬屋前にいるのは、城から旅立つふたり――いや、厳密に言うならひとりに用があるからだ。
兄と、その婚約者は、このあと長期間会えなくなる。
さぞや別れを惜しむだろうと思っていたのだが、意に反してふたりの会話はあっさりとしたものだった。
「じゃあね、アーヴィン。行ってくるわ」
「気を付けて行っておいで。無事をいつも祈っているよ。……レオン、どうかローゼをよろしくお願いします」
【お前に言われるまでもない。ローゼは俺の娘なんだからな】
「もう、レオンったら。どうしてそういう嫌な言い方するのよ」
指で聖剣の柄を弾いたローゼはアーヴィンと唇を触れ合わせると、セラータに騎乗して大きく一声かけ、振り返ることなくそのまま去って行った。
彼女の様子を見ながら、フロランは苦笑する。
ローゼとしては「最後に目に映すのは最愛の人物にしたい。フロランへの挨拶は城内で済ませているからする必要もない」と思っているのだろう。
確かにそれが許される立場ではあるが、普通の人ならば少しくらいは近くへ立つ公爵のことも気にするはずだ。
(無礼というか無頓着というか……まあ、私が嫌われているというのもあるか)
嫌な気分ではない。むしろ気が引き締まるような思いがある。
(ローゼは目だからな。私がこれから治める民の)
今までは、領民も、精霊も、無条件でシャルトス家に従ってくれていた。
それもすべては、古の大精霊という存在がいたから。
彼女がシャルトス家に惜しみない愛を注いでくれていたから、精霊たちはこの地に恵みをもたらしてくれた。その恩恵に与ることができるから、領民はシャルトス家の統治を望んでくれていた。
しかし大精霊がいなくなった後、新たに守護に就いてくれた銀狼はシャルトス家に思い入れがあるわけではない。
領主が誰であろうと気にも留めないし、そもそも気に入らないことが起きたのなら守りの力をあっさりと放棄してしまう可能性もあった。
そのことを公表していない今、民はフロランを受け入れてくれている。だが、知ってしまった時はどうするだろう。
考え、フロランは小さく身を震わせる。
シャルトス家は変わる必要がある。大精霊の愛があることに慢心し、徐々に堕落していった時のままでいてはならない。
だからこそ、ローゼの存在はフロランにとって重要だった。
すべての事実を知る彼女は厳しい目でフロランを見ている。
しかしその赤い瞳にいつか、厳しさではなく称賛を浮かべてくれる日が来た時こそ、自分が民に受け入れてもらえるほど成長できた証ではないだろうか、とフロランは密かに考えていた。
――果たして自分は良い統治者になれるだろうか。
新たなシャルトス領を作るに当たって幸いだったのは、姉のリュシーの存在だ。
過去を気にすることなく力を貸してくれる彼女は、視野が広く聡明で、今やフロランにとってなくてはならない人物となっていた。
本当は兄にも力を貸してもらいたかったが、それはさすがに虫の良い話というものだろう。
――今は、代わりにもうひとり。
どんな宝石よりも美しい青紫の瞳を思い出したフロランは、跳ねる鼓動を抑えるように強く首を振った。
「あー……。で? 兄上はこの後どうするわけ?」
平静を装ってアーヴィンの背に問いかけると、兄は振り返ることなく答える。
「グラス村へ戻ります」
彼がこちらへ顔を向けないのは、小さくなる騎馬姿を見つめているため。
以前のフロランならば自分が軽んじられたことに対して不快の念を抱いただろうが、見送る兄の気持ちが少しだけ分かる今はそんな気にならない。
ただ、もうひとつの気持ちの方は良く分からなかった。
「……本当に、フィデルへ行かないんだ」
「フィデルへ行く? なぜ?」
「だってさ、ローゼのことが、その……心配だろ?」
「心配です」
「だったら一緒に行けばいいじゃないか。そうだ、いっそ村の神官なんか辞めて、一緒に各地を巡れば?」
「できません。ローゼがそれを望んでいないのですから」
彼の答えに鼻白み、フロランは肩をすくめる。
「ローゼが望んでないから行かない、か。なるほどね、私の兄上は主体性がなかったってことか。……だったら、ローゼが望んだら行くわけだ」
「行きません」
ローゼの姿が木々の影に消えたところでアーヴィンはフロランへ向き直る。彼の表情は晴れやかだった。
「私と共に行くことを望むローゼは、私が好きになるローゼではありませんから」
「……はぁ?」
ぽかんとしたフロランは、自分が間の抜けた顔をしているであろうことに気づき、咳払いをして顔をしかめる。
「ローゼこそが変な奴なんだとずっと思ってたけど、兄上も負けず劣らずだった。どうしてふたりとも、好きな人と離れて平気なわけ?」
その言葉を聞いて、アーヴィンはわずかに驚いた様子を見せる。直後、嬉しそうな微笑を浮かべて口を開いた。
「そうですね。……例えばとても美味しいものがあったとします。もちろん普通に食べても美味しい。ですが空腹のときに食べるとこの上なく美味しくて、忘れられない味になる」
「だからローゼは空腹になりに行く。兄上はそんなローゼが好き。ってことか。――はっ、馬鹿馬鹿しい!」
思わず仰いだ天は、今日も美しい青をしている。
義妹の――あるいは義姉の――旅は順調に進むことだろう。だが。
「遠くにいたら、何もできない」
「そうでしょうか。遠くにいるからこそ、助けとなれることもあるはずですよ」
「あるわけないだろ? 兄上はおかしなことを言うなぁ」
今日の天気は良くとも、明日の天気が良いとは限らない。
近くにいれば温かいものを手配させることも、傘を用意させることもできるというのに、状況が分からないほど遠くにいては、何もできないままただ案じることしかできない。
「助けなんて近くでするものだし――美味しいものだってそうだ。いつだって美味しいなら、わざわざ苦労して空腹にする必要なんかない。近くに置いて、食べたい時に食べる方がずっといい」
「ええ。その意見も尤もです」
フロランは天に向けていた視線をアーヴィンへ戻し、眉を寄せる。
否定の言葉を口にしているというのに、兄が笑顔でいる理由が分からない。
「あのさ。何をそんなにニヤついてるわけ? 正直に言って気持ち悪いんだけど」
「ああ、すみません。あなたが人との関係について考えられるようになっていて、とても嬉しかったものですから」
「……どういう意味かな?」
「シグリのことが好きなんですね」
唐突な言葉にフロランの思考は停止する。
何も言えず瞬いたまま、呆然と目の前の兄を見つめた。
兄は、亡き父とよく似ているそうだ。髪の色は違うものの、面差しや瞳の色はそっくりだと聞く。
今、フロランを映すその灰青の瞳には、幼子に向けるかのような慈しみが籠められている。もしかすると昔、父はこのような瞳で赤子の自分を見てくれたことがあるのかもしれない。
自分がそんな風に考えることを意外に感じ――そこでフロランは我に返った。
「な、なんだよ、その戯言は!」
叫んだフロランは、無理にアーヴィンから目を逸らす。
いかにも「迷惑だ」と言いたそうな表情を作るものの、うまくいったかどうかは分からない。
昨年までは大精霊の末が決まっていた。大樹の枯死が決まっていた。
故にいくら先を思い描こうとシャルトス家当主という名前は意味のないものにしかならず、密かなフロランの考えも何の意味もないものだった。
しかし、ひとりの娘のおかげで全ての未来は変わった。
ひとつしかなかった公爵領の行く先は、いくつもの道ができた。
その新たな道へ進む第一歩としてフロランが選んだのは、自身の結婚だった。
フィデル寄りの母に考えを知られぬようにしながら妻候補を探す。条件は、シャルトス領内の女性だ。ようやく幾人かにまで絞り込んだある日、フロランの努力を嘲笑うかのようにして届いたのがジェーバー家からの婚姻の申し込みだった。
シグリ・ジェーバーという女性については、輝くばかりに美しいという話をフロランも聞いたことがあった。確かに絵姿も美しかったが、だからなんだというのだろう。
(今はまだ、フィデルの考えを退ける力が、シャルトス家には無い……)
腸の煮えくり返るような思いで婚姻を受けて準備を進め、いざ城に花嫁を迎えてフロランは自分の完全な敗北を悟った。
馬車から降りる彼女の姿を遠目に見た瞬間、「早くこちらを見て欲しい」と焦がれるなど、過去のどの自分に言っても信じてもらえないはずだ。
ようやく視線を上げた彼女に見つめられた時、世界にふたりきりになってこの視線を独占できたらどんなに幸せだろう、と考えてしまったことも。
「シグリと申します。初めまして、フロラン」
楽の音のような美しい声に名を呼ばれた時は、夢見心地のあまり我を忘れそうになってしまったほどだ。
この短い間で既に、フロランは彼女と話すたびその魅力の虜となっている。
もしも自分がただのフィデル貴族だったら、日々情熱的な歌を送り続けただろう。
しかし。
自分はフィデルの生まれでもなければ、単なる貴族の青年でもないのだ。
朝日の中で威容を誇る城を見上げ、フロランは呟く。
「そう。シグリはフィデルから来たんだ」
シャルトス領にとって、フィデルはアストランよりも重要だ。
その昔、ラウルが初代公爵になった後。アストランの貴族に何もかもを奪われたシャルトス領は困窮していた。
先には精霊の恵みが約束されていると分かっていても、そこへ進むだけの力がない。
苦しむ領民と、領主と。
そんなシャルトス領に手を差し伸べたのが、隣国のフィデルだった。
「今日の繁栄は、あの時フィデルが助けてくれたおかげ」
歴代の当主たちはそう思ったからこそ、初代公爵の残した「恩を返すべし」との言葉に従い、何かにつけて隣国を優先してきた。
しかし、この長い年月にわたる諸々のことを考えた時、本当に恩恵を受けたのは果たしてどちらだったのだろうか。
(だからこそ「私の代で」と思っていたのに……結局、女性ひとりに絆されてしまった。私の決意なんて所詮はその程度でしかない)
不甲斐なさと情けなさが込み上げてきて視線を落とすフロランの耳に、優しい響きをまとった声が届く。
「それでも私は、あなたの元へシグリが来てくれて良かったと思っていますよ」
「……ふん」
昨年フロランは、アーヴィンに自分の決意を打ち明けた。少しずつフィデルの支配下から脱していくつもりだという考えを兄は否定せずうなずき、「道は険しいだろうが、フロランならきっとやり遂げられる」とまで言ってくれた。
その兄がシグリに対するフロランの気持ちを否定することなく、それどころか喜んでくれたのは泣きそうなほどに嬉しい。だが、代わりに恥ずかしくて顔を上げることができない。
そんな気持ちを知ってか知らずか。朗とした声のアーヴィンは、下を向いたままのフロランにこだわりなく挨拶をする。
「今日もこの後はまたお忙しくなるのでしょう? 長々とお引き留めしては申し訳ないので、私はこれで失礼します。お見送りして下さってありがとうございました。――どうかお元気で、フロラン」
だが、別れなのだと知ると、恥ずかしさよりも寂しさが勝る。それに、まだ自分は本当に伝えたいことを言っていない。
意を決してフロランが顔を上げると、アーヴィンは先程のローゼと同じように、被り物で髪を隠しているところだった。
(……どうしよう)
フロランが忙しい時間の合間を縫ってわざわざこの場へ足を運んだ本当の理由は、兄に言いたいことがあったからだ。なのに気位が邪魔をして未だうまく言葉に出すことができない。
口を開きかけて閉じ、また開いては声が出せずにまた閉じ、という無駄な動作を繰り返すうちにアーヴィンは準備を終え、栗毛の馬に騎乗する。
彼が馬を進めようとするところで、フロランはようやく思い切った。
「まっ、まあっ、各地を巡るローゼは、どうせ城へ来るんだろうしさ。兄上も、その……気が向いた時にでも、ローゼと一緒に城へ来ればいいよ」
声は少し上ずったが、なんとか言いたいことは言えたと思った。表情が崩れないよう細心の注意を払いつつ、しかし内心ではハラハラしながら待っていると、アーヴィンは馬を止めて答える。
「確かにローゼは役目柄、城へ来ることもあるでしょう。ですがその時、私が横にいることはありません。……私は、グラス村に住まいするアーヴィン・レスター。北方の城に縁ある者ではないのです」
背中越しに話す彼は、先ほどまで気軽に呼んでいた兄という言葉ですら拒絶しているかのようだ。
なんと言って良いか分からなくなり、落胆するフロランはため息まじりに呟いた。
「そっか……」
「――ですがリュシー・シャルトス嬢は、こんな私も含めて『世に3人きりの姉弟』と言って下さいました」
振り向く馬上の青年は、その端麗な顔に穏やかな笑みを上らせる。
「正直に申し上げますと、私は今回、公爵閣下の結婚式へ出席しても良いものかと迷いました。しかし今は、弟の結婚式に出席できて本当に良かったという気持ちでいっぱいです」
「兄上……」
「私が城へ伺うことは基本的に無いとお考え下さい。ただ、姉の結婚式がありました際には、祝いの言葉を直に述べたく思っております」
言って頭を下げ、今度こそアーヴィンは去っていく。
その後ろ姿が消えるまで見送り、フロランは護衛たちを促して足取りも軽く城へ向かった。
公爵の仕事は忙しい。
特に代替わりして間もない今はやることが山積みだ。
――だが、姉の結婚相手を探すために割く力は、絶対に捻出してみせる。




