26.依然
何が起きたのか分からず唖然とするローゼの意識を引き戻したのは、廊下に響き渡る大音声だった。
「ふざけるな!!」
声からは怒気を多分に感じる。ローゼは慌てて視線を落とした。
激昂するレオンを宥めなくては、という気持ちからだったのだが、聖剣から戻ってきたのは冷静な声だ。
【俺じゃない】
だが、先ほどの声はローゼも良く知るものだ。
と思うと同時にローゼは声の主が誰なのか理解した。思いもよらなかったため無意識に除外してしまった人物だ。
まさか、と思いながら顔を上げると、ローゼの前でアーヴィンはもう一度怒鳴り声を上げた。
「ローゼはフィデルに行かせない!」
自分の見聞きしているものが信じられなくて、ローゼはまたも唖然としてしまった。
アーヴィンの怒り方はいつも静かだ。
ローゼにだけは意地の悪い姿を見せることもあるが、基本的に彼は言い聞かせるようにして叱り、感情のままに怒鳴り散らすことはない。もしかすると大声を上げたことはあるのかもしれないが、少なくとも村の話題に上ることはなかった。
しかし今、アーヴィンはローゼの目の前で更に声を荒げる。
「何を企んでいるのか知らんが、お前にローゼを託したりするものか!」
(嘘でしょ……)
何も言えないまま目の前の光景をローゼが見つめていると、わずかに焦った様子の声が促す。
【おい、ローゼ。ぼーっとしてないで、そろそろあいつを止めろ】
改めて見ると、アーヴィンはダリュースに向かって今にもつかみかかりそうだ。しかしローゼたちだけでなく、ダリュースの周りにも護衛がいる。このままでは互いの護衛同士もぶつかり、面倒な事態が起きてしまうかもしれない。
「だ、駄目!」
踏みそうになったドレスの裾をなんとか捌き、ローゼは慌ててアーヴィンの前に出る。怒りからだろう、見上げる彼は顔を朱に染めて眉間に深く皺を刻んでいた。彼のこんな表情もローゼは見たことがない。
「アーヴィン、駄目よ。落ち着いて」
「……ローゼ」
抱きしめるように彼の背へ腕を回すと、アーヴィンの体はわずかに柔らかくなる。しかし、
「ローゼ様。ぜひ我々とご一緒にフィデルへお越しください」
との言葉を聞いた途端、アーヴィンの体にはまたしても力が入った。腕の中の彼を見ながら決意したローゼはダリュースの方へ体を向ける。再びローゼの前へ出ようとするアーヴィンのことは両手を広げて背中で押しとどめた。
「ローゼ、どくんだ」
「どかない。だって、頭ごなしに拒否してもきっと無駄だもの。納得の行く理由を述べて断らないと、この人たちは必ずまた何か手を打つに決まってるわ。――だからまずは、詳しい話を聞かせて欲しいんですけど」
最後の言葉は目の前のダリュースに向けてのものだ。ローゼの言葉を聞いた彼は、恭しく頭を下げる。
「私はただの使者にすぎないので、お話できることは多くありません」
「じゃあ、私に用があるの人の名前は言えますか?」
「そのくらいでしたら。――私をこの城へ遣わせたのは、ジェーバー辺境伯夫人カーリナ様です」
「辺境伯夫人……シグリのお母さま?」
はい、と答えてダリュースはにこりと微笑む。彼の笑みは柔和で、人の警戒を解かせるのに十分なものだ。
しかしローゼは背中越しにアーヴィンと触れ合っている。体から力を抜く気配のない彼を感じている以上、ローゼはダリュースに対しての用心を怠る気が無かった。
(シグリのお母さまって、確かフィデル国王の姉よね。……シグリといい、シグリのお母さまといい、どうしてそんなにあたしたち……あたしに興味があるのよ)
ため息を吐きたくなる気持ちで、ローゼはダリュースへ重ねて問う。
「……カーリナ様は、私に何の用があるんですか?」
「申し訳ありませんが、存じ上げないためお答えすることができません」
「そうですか」
ダリュースの言葉は流れるかのように自然だ。だからこそ逆に用意されていたかのような不自然さを感じ、ローゼは彼が嘘を言っているのだろうと思った。
(つまり、知ってるけど答える気はないってことよね……うーん、どうしようかな)
背後から聞こえるのは早い呼吸と鼓動だけ。アーヴィンは何も言わない。ただ、彼がローゼにフィデルへ行って欲しくないと思っているのは、今までの態度からして間違いないだろう。
レオンもきっとアーヴィンと同じ思いのはずだ。
唇を湿らせ、ローゼは口を開く。
「……今の私は『聖剣の主』という役目を離れていますが、これは身内の結婚式へ出席するための特例なんです。アストラン大神殿が許可してくれた期間もあまり長いものではありません」
考え、言葉を選びながら、ローゼは慎重に話を続ける。
「期日までに大神殿へ戻らなくてはならないので、フィデルへ行くほど時間の余裕はありません。残念ですが、今回は――」
「ご心配には及びません。ローゼ・ファラー様」
通る声で言い、ダリュースは後ろへ視線を送る。従っていた人物のうち、長い髪の男性が進み出てダリュースに書状を手渡した。
「つい昨日、この者が王都アストラからこのイリオスへ到着したのです。間に合って良うございました」
言いながらダリュースは書状をその場で広げ、掲げて見せる。
内容を目にしてローゼは愕然とした。
掲げられているものはアストラン大神殿からローゼへの要請書だ。最後にデュラン大神殿長の署名もある正式なこの文書をローゼは今まで何度か見ている。
今回の要請内容は、他国への派遣。
行き先は、フィデル王国。
そして要請者の場所にあるのは、モーリス・アレン大神官の名前。
「……嘘……なんで都合良く、そんなものを……」
呟いたところでローゼは思い出す。
確かアーヴィンと共に北方へ出発する前、大神殿では他国からの使者を出迎える準備をしていた。
――どの国の使者が来るのかまでは聞いていなかったが、もしかするとその『使者』というのが。
【全部計画通りってことか】
吐き捨てるようにレオンが言うと、ダリュースに従う5人の中で2人が表情を動かした。
「いかがでしょう、ローゼ様。安心していただけましたか?」
何か言わなくてはいけないのは分かるが、喉は浅い呼吸を繰り返すばかりで言葉が出てこない。
対して終始にこやかな態度を崩さないダリュースは「ああ、そうだ」と言って足を踏み出す。
「これはローゼ様に宛てたものですから、私が持っていても仕方ありません。お渡しいたします……ですが」
ダリュースが合図をすると、彼の背後からは先ほどレオンの言葉に反応したうちのひとり、中年の女性が進み出て文書を受け取った。
「どうも私がお側へ寄るのを良く思わない方がおいでのようですからね。この者が代わりにお渡しします」
ダリュースの言葉を背に受けながら、女性はローゼへと歩み寄る。
しかし次の瞬間、アーヴィンはローゼと女性との間に素早く割り込んだ。
「ローゼに近寄るな」
低い声のアーヴィンがどのような顔をしているのか、彼の後ろにいるローゼは分からない。
だが、気圧されたような女性を見る限り、アーヴィンが浮かべているのはかなり厳しい表情のようだ。
「……あ、あの……私はローゼ様に危害を加えたり致しませんが」
左手に文書を持った女性は、他に何も所持していないことを証明したいのだろう。アーヴィンに向け、指輪がきらりと輝くばかりの右手を広げて見せる。それでもアーヴィンは繰り返した。
「近寄るな」
困ったように瞳を泳がせる女性は、文書を見て、アーヴィンを見て、最後に縋るような目でローゼを見る。
だが、この状況ではローゼもあまり女性の味方をしたくはない。彼女は得体のしれない男性の配下、しかも手にした文書はアレン大神官が関係しているものだ。
廊下は一時的に静かになる。
その沈黙を破ったのは、揶揄するようなダリュースの声だった。
「おやおや。以前は死を待つ老馬のようだったのに、今はまるで悍馬ですね。仕方ありません、その文書はあなたにお渡ししましょう」
その時、ダリュースの後ろにいた長髪の男性――王都から文書を持ってきたという男性が、ほんの一瞬だけ顔を歪めるのをローゼは見た。
「ですがこれは聖剣の主様に宛てたもの。見分なさっても構いませんが、最後はきちんとローゼ様にお渡し下さい」
アーヴィンは返事をしない。だが、ダリュースは余裕のある態度を崩すことなく、自身の方を向く女性を目線で促す。
女性がおずおずと差し出した文書は結局、ローゼの前に立ったままのアーヴィンが受け取った。
その様子を満足そうに見て、ダリュースは頭を下げる。
「破り捨てたりなさってはいけませんよ。でないと後で、厳しいお仕置きがございますからね」
小さい子どもに諭すかのような言葉を聞き、広い背中は強張りを見せた。やがて低く抑揚のない声がローゼの耳に届く。
「……誰が仕置きをするというのか。私はもう、エリオットでは、ない」
ダリュースは頭を上げる。顔に浮かんでいるのは、どこか楽しそうな笑みだった。彼は踵を返して背後の人たちと共に廊下の向こうへ消えるのだが、アーヴィンは動かない。
不安になったローゼが彼の正面へ回ると、青年は茫洋とした目を遠くに向けている。まるで魂を抜かれたかのような様相に不安を覚えながらローゼが名を呼ぶと、アーヴィンは瞬き、ローゼに視点を合わせる。
「……無駄な時間を取ってしまったね。……さて、書庫へ行こうか、ローゼ」
そう言って顔色を失くしたまま微笑むアーヴィンの頬を、ローゼは両手でそっと包みこんだ。




