25.晴天の下、暗がりの中
晴天の下、北方神殿裏手の広い空間にいる人々は、皆同じ衣装を着ている。
胸元だけが白く、裾や袖の周囲には銀糸で花の刺繍が施された、足首丈の緑の衣。
二列に並んで大樹の前に通り道を作っているその様子は、まるで誰かが通るのを待っているかのようだ。
――いや、もちろん待っている。今日の主役となるふたりを。
しかし、彼らがまだいない今、人々の視線が風変わりな『赤い髪をした公爵家の義娘』にちらちら向けられているのを、当の本人であるローゼはずっと感じていた。
大樹に最も近い位置の向かって右側にはジェーバー家関連の人物が。
そして左側にはシャルトス家の人物が立っている。
順番は木に近い側から、ナターシャ、リュシー、そしてローゼ。
ローゼがこの場に立つことができているのは、ナターシャがうなずいたためだ。
ナターシャはフロランがフィデルの貴族令嬢と結婚できることを喜んでいた。
それもすべては、銀狼を大樹に宿らせてフロランを公爵位に就けてくれたためだと、城にいる時ローゼの部屋へ来て感謝の言葉まで述べてくれたのだ。
「だからあなたの瞳と髪が赤色でも、フロランの義妹になることを認めてあげる」
ナターシャはそう言って、あどけない微笑みを浮かべたのだった。
(きちんとしなきゃ。あたしが失敗したら、アーヴィンに迷惑がかかっちゃうもの)
視線を動かすことがあっても、声を出すものは誰もいない。木の葉だけが音をたてる中、やがて北方神殿からひとりの男性が出てきた。
彼は皆と揃いの衣装を着た上から、木の刺繍を施された緑のマントを羽織っている。長く重いはずのマントを見事にさばき、褐色の髪を風になびかせて歩く姿は、まるで物語に出てくる王様のよう。
その姿を惚れ惚れと見つめていたローゼは、彼の後ろから光が差したような気がして視線を移動させる。
そこにいたのは一組の男女だった。
他の人々のものとは違って白を基調とした衣装は、銀の糸を使って花の刺繍が全体に施されており、動くたびに光を弾いて全身がきらきらと光る。
緑の衣装の人々の中を輝く衣装のふたりが歩くさまは、緑の葉の中で銀の花が揺れているようにも見え、言葉を無くすほどに美しかった。
居並ぶ人々が感嘆の吐息をもらす中、人でできた通路を通った3人は大樹に着いて立ち止まる。
寝そべった銀色の狼が興味深そうに見ている前で、ふたりを先導してきた兄が、そして弟とその花嫁が頭を垂れた。場の全員が見守る中、低く厳かな声が辺りを震わせる。
アーヴィンが詠う、精霊を称える詩だ。
彼の声を聞き、ああ、とローゼは深く嘆息する。
(建物の中じゃなくてもこんなに響くなんて……アーヴィンの声って、本当に素敵……)
アーヴィンは今までにもグラス村の神官として何件もの結婚式を執り行ってきたが、今回は今までとわけが違う。
何しろアストラン貴族の中でも随一の身分を誇る公爵の結婚式なのであり、居並ぶのは貴族級の身分を持つ者たちだ。しかも北方の人の中には、余所者であるアーヴィンに対して偏見の目を向けていた人物も多い。
だが先ほどまでのアーヴィンが見せていた堂々とした態度、そしてこの詩を詠う声は、そんな彼らですら黙らせてしまうほどの迫力と説得力を含んでいるようだとローゼは思った。
やがて風に溶け込むような余韻を残して詩が終わる。さわさわという葉擦れのだけが響く中、同じ声が顔を上げるようにとの言葉を述べると、夢見るような表情をしていた人々は現実に引き戻されたようだ。
皆が背筋を伸ばし、アーヴィンが主役のふたりに向けた言葉を口にした途端、辺りには彼の声をかき消すような大音声が響き渡った。
『さすが儂の息子だ! 実に良かったぞ!』
空気を読まない発言は銀狼のものだ。
『ここの術士どもが日々唱える歌よりずっと良い。中には下手すぎて聞くに堪えん奴もおるからな。――こら、目を逸らすな。そこのお前のことだぞ』
精霊である銀狼の声は、場にいるほとんどの人が聞くことはない。
しかしアーヴィンの補佐として傍にいる人のうち、中には肩を震わせている人や、口を結んで顔を赤くしている人もいる。逆に青ざめているのは、銀狼に「下手」と言われてしまった人だろう。
つい口元を緩ませてしまうローゼだったが、フィデル側にも表情を崩している人物がいることに気付いて思わず眉を寄せる。
様子から察するに、向かいに並んでいるフィデル側のうち7~8人は術士のようだ。
この場にはいない、結婚式に参列できるほどの身分を持たない人たちも含めるのなら、術士はもっといるのだろう。
(いつもが4~5人程度だってことを考えるなら、確かに多いよね。アーヴィンやフロランが気にするのも分かるな……)
胸が重くなるのを感じながらローゼが顔を向けると、アーヴィンは何事もなかったかのように粛々と式を進行しており、その後ろで銀狼は、アーヴィンを褒めたり、列席者に対して茶々を入れたりと、相変わらず気ままな発言を繰り返している。
自分の式が妙なことになっているふたりのうち、精霊の力を持っていないシグリはずっと静かな表情を見せているが、フロランは時折ギリギリと歯を噛みしめていた。
(あー……聞こえちゃってるもんね……)
聖剣の主となった時の儀式の際、余計なことを言うレオンに雰囲気を台無しにされたことがあるローゼは、何となく彼に同情心を抱いた。
一部の人には妙な声が聞こえたままの式がようやく終わりを迎えると、感動というよりも、どこかウンザリしたような表情のフロランがシグリを伴って大樹に背を向ける。
『うむ? もう帰るのか?』
尋ねる銀狼の声は不思議そうだ。
『媾いはどうした? せぬのか?』
いくつもの吹きだす声がした。フロランが真っ赤になり、さすがにアーヴィンも苦笑する。だが、銀狼には気にした様子が見られない。
『これは番いになる儀式であろう? 何故、一番大事なことを――』
【お喋りが過ぎるぞ、銀狼】
人が何も言えない代わりにだろう、仕方なく、と言いたげな声色でレオンが口を挟む。
【分からないなら黙ってろ。人には人のやり方ってもんがあるんだ】
『何を言うか、聖剣よ。人とて生き物、することには変わりないであろうが』
【いや、そうなんだが……まあ、色々と事情があるんだ。つまり、あー、お前が気にしてることはだな、今ここではしない】
ふむ、と呟き、銀狼は首を傾げる。
『……そうか。人というのは、なかなかに面倒なものだ』
【分かってもらえたか】
レオンは安堵した様子だが、それ以上に安堵した様子なのがフロランだった。頬を緩めた彼が、美しい微笑を浮かべるシグリを連れて足取りも軽く北方神殿の建物に入ろうとしたとき、銀狼の声が辺りに響く。
『今ここでしないということは、後でここへ来てするのだな?』
建物の辺りから誰かが盛大に転んだ音と悲鳴とが聞こえ、ローゼはレオンと共に深くため息を吐いたのだった。
* * *
結婚式が終わってしまったのなら、後の場に出る『エリオット』はベルネスの役目だ。
城の大広間ではフロランとシグリを囲んでの宴が始まっているが、北方神殿で衣装を脱いだアーヴィンに出番は無い。
一方、ローゼは宴へ出ることになっていたが、アーヴィンがいないこともあって長居はしたくなかった。義理を果たすために顔を出したが、結局はさっさと大広間を退出している。
ドレスに着替えた今は、アーヴィンと共に書庫へ向かっているところだった。
「今日明日で、いい本が見つけられるかな……」
大広間は大いに賑わっているが、その分、他の場所は閑散としている。
いつも以上に響く声を抑え気味にしながらローゼは呟いた。
結婚披露の宴は少しずつ様相を変えながら5日の間続き、その後フロランは公爵夫人となったシグリを連れて領内を視察に行くことになっている。
公爵夫妻が出発してしまうとシャルトス領の町や村はごった返して大変なことになるだろうと予想し、ローゼとアーヴィンは彼らよりも早く、明後日には城を発つ予定にしていた。
大精霊の息子であるフロランの結婚式の間も神降ろしは起きていない。もしかすると今後はまったく神降ろしをせずに済むのではないかと思いたいが、レオンはやはり強固に「それはない」と言い切る。
思い返してみれば確かに、神降ろしのきっかけは、魔物との戦闘時だったように思う。ならば魔物と遭遇してみない限り、神降ろしがなくなったかどうかの判断は出来ないのかもしれない。
そして神降ろしをして一番困るのも、魔物との戦闘をした後なのだ。
重い気分になったローゼの手を、隣で歩くアーヴィンが取る。
「とにかく今は探すことを考えよう。もし見つからなければ、フロランに頼んでおく」
「……うん」
ローゼがうなずいたその時だった。
前方にある部屋の扉が、ゆっくりと開く。
中から、50歳前後と思しき細身の男性が数人の人物を従えて現れた。
彼を見た途端、ローゼ以外の人物がさっと警戒の色を帯びる。
まず動いたのはアーヴィンだ。彼は表情を険しくして、ローゼを庇うように前へ立つ。
護衛たちもローゼたちの前に飛び出して武器を構えるが、アーヴィンよりも動きが遅かったのは、彼らに一瞬の迷いがあったためのようだった。
何が起きたのか分からず目を瞬かせるローゼの前で、男は含み笑いを漏らす。
「おやおや。だいぶ呆けてしまったようだな。ずいぶんと反応が悪いことだ」
武器を向けられているというのに、彼から恐れは感じられない。むしろ事態を面白がっているようにすら見える。
「ラディエイル閣下がおられた頃なら、君たちは後できつい仕置きを食らうだろうな――いやしかし、ラディエイル閣下がおられた頃は私に頭を下げていたのだから仕方ないとも言えるか」
小さく笑い、男はアーヴィンを見ながらおどけたように両手を広げた。
「どう思うかね、息子よ」
「私の父はクロード・シャルトスと銀狼だけです。口を慎みなさい」
「ですがアーヴィン・レスターと名乗る前に、少しくらいは息子になって下さったのでしょう?」
「答える必要性を感じません」
アーヴィンの言葉を聞き、男性は声を上げて笑った。
「これは嫌われたものだ。今の状況は全て、私のおかげで成り立っているというのに」
「やはりあなたが手を下したのですか」
「そのような言い方をされるとは心外ですね。おかげであなたは、さしたる障害もなくエリオットの名を捨てることができたではありませんか」
カツ、と靴音をさせて男は一歩前に出る。護衛が警戒を強めても、彼は気にする様子を見せない。
「それだけではありません。あなたが西の村で神官職を務めることができているのも、フロラン様が公爵になることができたのも――そして、あなたの大切な女性が命の心配をせずにすんでいるのも。全ては私のおかげですよ」
言いながら男は視線を動かす。その瞳に捉えられた瞬間、ローゼは気がついた。
――この男には見覚えがある。
しかし、どこで見たのかは思い出せない。
記憶をさぐりながら男を凝視するローゼの前で、硬い声のアーヴィンが問いかける。
「何の目的があって戻ってきたのですか?」
「シグリお嬢様の付き添いです。私がここに居るのは偶然ですよ」
「そうですか。シャルトス家で重用されていたはずのあなたがジェーバー家の人物として城に現れるとは、ずいぶんな偶然ですね」
シャルトス家で重用、との言葉を聞いたローゼの脳裏にひとつの光景がよみがえる。
昨年この城へ来て、エリオットの役目を解くよう前公爵ラディエイルに談判した際、ローゼはフェリシアから預かった伯爵の紋章をラディエイルに見せた。執事らしき使用人を介して。
(この人は、あのとき紋章を渡した使用人だ)
あの場にいた人数は多くない。
ラディエイルと分家の当主が4人。加えてローゼとフロラン。護衛の兵たちと、ひとりの使用人。
話の重要性からして滅多な人間がいたとは思えず、だとすれば彼はかなりラディエイルに信頼されていたと考えるべきだろう。
(なのにその人が今、シャルトス家の結婚相手の……ジェーバー家の使用人になってるの?)
冷たいもので背を撫でられたような気がして、ローゼは身を震わせる。
しかしアーヴィンは微塵も揺らいだ様子もなく声を張り上げた。
「私の質問に答えなさい。――ここへ戻って来た目的は何ですか、ジャック・ダリュース」
凛とした空気を纏うアーヴィンの言葉を聞き、名を呼ばれた男性は緩めていた顔をようやく引き締めた。
「私は、お誘いをするために参りました」
「誘いとは」
「ジェーバー領へのお誘いです。どうか私と共にお越しください」
ジャックはアーヴィンから外した視線をローゼに向け、恭しく頭を下げる。彼の背後に控えた人々も倣って頭を下げた。
「お願いいたします。――ローゼ様」
(あたし!?)
まさか自分の名を出されると思っていなかったローゼは、目を見開いて言葉を無くした。




