余話:最後の王と歌好きの兄妹
窓の外に広がる空は鮮やかな色をしている。
この青を8年の間、セルジュは見続けてきた。
だが、本当に見たい空はこの色ではない。
寝台の上でセルジュは瞼を閉じる。こうすれば眼裏ではいつも違う空を見ることができた。
どこまでも澄んだ、爽やかで透明感のある青。懐かしい故郷の空の色。今のセルジュはこうして目を閉じて故郷を思い出すことだけが唯一の楽しみだった。
本当ならば、眼裏ではなく開いた瞳であの色をもう一度見たかった。そのために何ができるのかと考え、考えたところで何もできない日々に焦り、悔しさに涙を流し、たぎる怒りに任せて周囲の人物や物に当たり散らした。
そんなセルジュの態度に周囲は眉をひそめ、状況は好転どころか悪化の一途をたどっていたというのに、当時は自分がどんな風に見られているのかなど顧みる余裕がなかったのだ。
気が付くとわずかな味方さえも離れてしまっていた。
完全に打つ手が無くなったことを知った時の絶望は覚えている。思い出したところで今はもう、怒りも悲しみも湧いてこないのだが。
自分は方法を間違えてしまったのだろうな、とセルジュは淡々とした気持ちで過去を振り返る。
もしかするとそもそもの間違いは、アストラン王国から妻を迎えたことに始まるのかもしれない。
以前はこの大陸にも小さな国が数多くあったと聞く。だがそれらの国々は併合を繰り返し、いつしか大国となり、セルジュが国王を継ぐ頃になると、小さな国の姿など地図にはほとんど存在しなかった。
そんな中でも国としての生き残りをかけ、北の小国は必死に外交を続けた。国の南を接している大国アストランから王女を娶ったのもその一環だ。――そのはずだった。
「あなたの今後に関して、本当は興味などありません」
攻め落とされた城の中、捕らえられて血と汚れにまみれたセルジュの前で、煌びやかな衣装に身を包む妻はアストランの兵士に囲まれて言い放つ。
「ですが一応は子どもたちの父親ですもの。私の国に恭順の意を示すのでしたら、取り成すくらいの情けは掛けて差し上げます」
病死した父からセルジュが王位を継いで10年以上。同じだけの期間を王妃と呼ばれていたはずのこの女性は、「私の国」という言葉を小さな北の国ではなく、自身の出身であるアストランに対して使った。
北で過ごしていた間も彼女はずっと、大国の王女のままだったのだ。
政略結婚から始まったとはいえ、妻との関係は悪くはないと思っていた。彼女は北の国の風習にも馴染んでいるように見えたし、自分とも楽しそうに話してくれていたはずだ。
――しかしすべては、嘘だったのか。
「……我が国にアストランを手引きしたのは、お前か」
脂で張り付く髪の間から睨みつけるセルジュを冷たく見下ろし、妻は何も言わずに背を向ける。そのまま彼女は城を去った。13歳になる息子ラウルと、10歳になる娘ミネットも連れて。
数か月後、セルジュも北の王都イリオスからアストランの王都アストラに連行された。
以降8年の間、王宮のはずれにあるこの小さな宮に軟禁されたままだ。
北の地で生を終えたかった。せめて、肉体の一片でも良いから北の地に戻りたかった。しかし誰に頼めるというのだろう。この王宮にセルジュの味方など誰もいないのだ。
目を開き、セルジュは大きく息を吐く。
ようやく心が決まった。
――もう何もできなくなっている自分だが、せめて幕引きくらいは自分の意思で。
寝台の横にある呼び鈴を震える手で鳴らす。
いつもと違う覚悟で使用人を呼んだ音は、悲しいほどにいつも通りの音だった。
* * *
北方の小さな国がアストランに併合されたのはある初夏の日のこと。
だがこの国はもう、実質的に大国アストランの一部となっていた。王が大都市アストラの小さな宮に軟禁されていた8年の間、彼とまったく関わりのないところで何人ものアストランの貴族が『名代』として城へ入っていたのだ。
国としては小さいが、一貴族の領地として考えるのならばかなり広い土地。
宝石の鉱山を持ち、豊富な植生は他で類を見ないほどであり、家畜――特に馬の質の高さは素晴らしい。
豊かと噂されるこの地を手に入れるため、アストランの貴族たちは水面下で熾烈な争いを繰り広げた。
最初にこの地を治める権利を得たのは、アストラン現国王の弟にあたる人物だ。彼は意気揚々と都市イリオスの城へ入ったが、1年もせずに大都市アストラへ戻ってきた。
「あんな場所だと知っていたら行かなかった!」
彼はそう言って忌々しげに北の方向を睨みつけた。
王弟が1年で戻って来たということで、貴族たちの北方争奪戦はまた開始された。
しかし誰もが短期間で北の地を後にする。中にはたったの1か月で戻って来た者すらいた。
彼らは口々に言う。
「北の地はまったく豊かではない。鉱山の宝石はもう見当たらず、植物も多くはないし、動物たちも並。出ないと聞いていた魔物も出現する上、何よりあちこちで人々が暴動を起こす。城内にいても、いつ命を取られるのかと怯えて暮らさなくてはいけない」
と。
8年も経つと名代として北へ向かうのを誰もが嫌がるようになっていた。
病のため命の終わりを悟った北の国王がアストランに頭を垂れたのは、そんな時期だった。
* * *
「父上もずいぶん長いこと抵抗をお続けになったものですね」
病が篤いセルジュはもう寝台から動けない。
国の併合に関わる一切のことは、大都市アストラの立派な王宮の片隅にある、小さな宮の小さな寝室で行われた。
「まあ、おかげで、私の手に領地が転がり込んできましたからね。その点では感謝申し上げるべきかもしれません」
寝台の横に設えた机でペンを持つのはセルジュの息子ラウル。彼は21歳になっていた。しかしこの8年の間、セルジュが息子と会った回数は片手で数えるほどでしかなく、父と呼ばれても親子としての実感はまったく湧かなかった。
「婿養子ではなく、自分自身で地位が欲しいと思っていたのでありがたいことですよ。しかも母上のお力添えと……まあ一応は父上の血筋のおかげで、公爵なんていう最上の――」
「お兄様。お喋りをなさる暇があったら、手を動かしていただけませんこと?」
上機嫌で話すラウルの言葉を、つまらなそうな高い声が遮る。ミネットのものだ。
彼女はこの宮に訪ねてくることすらなかった。セルジュの記憶にある娘の姿は、北の記憶を除けば遠目で何度か見かけた程度のもの。声を聞くも実に8年ぶり。もはや他人と言っても過言ではないだろう。
「舞踏会の仕度にかける時間がなくなってしまうわ。せっかく今日は流行の髪型にしようと思っていたのに」
「お前は口を開けば舞踏会か茶会の話ばかりだな」
兄は書類から顔を上げ、妹に向けて眉を寄せる。
「その頭の中に詰まっているのは噂話の事ばかりか」
「まあ、酷い」
頬を膨らませたミネットはラウルを睨みつけた後、ふと思い返したようだ。扇で口元を覆い、目を笑みの形に細める。
「でも確かに、お勉強してばかりでお友達もいないお兄様は、皆とお喋りする楽しさなんて分からないでしょうね。――陰気なお兄様に、陰気な北の領地はとてもお似合い。華やかなこの王都より、居心地もずっと良いと思いますわよ」
ラウルは何も言わずに口の端を上げ、再び書類にペンを走らせる。公爵になれることが嬉しいのだろうか、妹の皮肉などなかったかのような様子で、時折り小さな声で歌まで歌っている。
一方で、セルジュの娘というだけで呼び出されたらしいミネットも、8年ぶりの父になど興味はないようだ。窓から空を見上げ、無聊を慰めるかのようにやはり時々何かを歌っていた。
ふたりの周囲にはアストランの文官たちが何人もおり、彼らの護衛として兵士たちも来ているが、発する必要がないからだろう、彼らは特に何も言わない。
セルジュも何も言わない。
しばらくの間、部屋の中にはペンの音と、交互に歌う兄妹の小さな声だけが響いていた。
「――ま、私は上手くやってみせますよ。父上のようにはなりません。もちろん、あの地を治めきれなくて逃げ帰って来た名代たちのようにもね」
書き終えた書類をラウルが文官に渡し、確認を終えた文官が恭しく箱に収め入れる。これで一連の手続きは終わりだった。あとは王宮に戻って、アストランの王や文官たちで何事か行うこともあるのだろうが、セルジュにはもう関係がない。
いずれにせよ小さな国はあっけなく終焉を迎えた。国主としてのシャルトス家も終わりを迎え、名実ともにセルジュの役目も終わった。ここにいるのは何の肩書も持たない、ひとりの病人だ。
セルジュは深く息を吐く。仰向いて寝台の天蓋を見つめていると、横から「ああ、そうだ」と快活な声が聞こえた。
「私が北へ行くとき、父上の髪くらい一緒に持って帰って差し上げましょうかね」
「あら、お兄様ったら、お優しいのね」
気のないミネットの声を背に受けながら、ラウルは小さなナイフを取り出し、機嫌良く歌いつつセルジュの髪を一房切り取る。
その様子を見終えたミネットは、優雅な仕草で椅子から立ち上がった。
「もう用は済みましたわね? 私は帰ります。舞踏会の仕度をしなくてはいけませんもの」
拘束から解かれることが嬉しいのだろう、朗らかな声を出したミネットは父を振り返ることもなく、歌だけを残して部屋を後にする。
彼女の方を見て苦笑したラウルもまた、セルジュに頭を下げて退出した。
続いて文官や兵士たちも去り、小さな寝室には音のない世界が戻ってくる。
いつもの静寂に包まれながら、先ほどの声を思い出してセルジュは微笑んだ。
――ありがとう。
枯れて何も感じなくなったはずの心に彩りが生まれ、瞳から涙が溢れてくる。
息子は、娘は、ずいぶん立派になった。
彼らになら今後のことを安心して託すことができる。
セルジュが思い残すことは、これで本当になくなったのだ。
* * *
「お兄様」
深夜、扉の向こうから密やかな声がする。
ラウルがそっと開くと、侍女姿のミネットが、するりと室内に入り込んできた。
「誰にも見られてないな?」
「ええ、大丈夫」
暗い色の被り布を取ってラウルと同じ黄金の髪をあらわにしたミネットは、深く息を吐く。
「お父様の遺骸が葬られた先は結局分かりませんでした。……分かったのは、手を回したのが神殿側だということだけ」
「そうか。予想通りだな」
「でも、髪がありますもの。ね?」
うなずいたラウルが懐から編んだ金の髪を取り出すと、ミネットは目を細めてそれを見つめた。
これは父の部屋から戻ったあの日の夜、ミネットが自身の髪と合わせて編んだもの。
父の髪も兄妹の髪も同じ金色、他の誰が見てもミネットの髪が入っているとは思わないだろう。
家族の中で唯一、髪の色が違ったのは母だ。薄い茶色の髪をしていた彼女は今、王宮にいない。父との結婚前に心を寄せていた男性の元へ行っている。北の国へアストランの手引きをすることと引き換えに得た権利だった。
それでも息子が北へ発つ時、彼女はきっと見送りに来る。夫に愛情は無かったが、息子と娘に対しての愛情は持っている女性なのだから。
「お兄様が北へ出立なさる時、私はお見送りに参りません」
しかし、ラウルが頼みにしていた声はきっぱりとそう言い切る。
ミネットの小さな声がいつもより耳に残る気がするのは、もしかすると妹が見送りに来られないことをラウルが寂しく思っているからかもしれない。
「ああ。分かっている」
「お兄様の結婚式にも。万一先にお兄様が亡くなられたとして……葬儀にも、参りません」
「私も同じだ。お前の結婚式にも葬儀にも顔を出さない」
「ぜひそうなさって。私の悪口でも言って、笑い飛ばして下さいな」
不仲として有名な兄妹だ。公式の場などで顔を合わせても、ふたりがするのは挨拶と皮肉の言い合いだけ。後はそっぽを向いて小さな声で歌ってばかりのため、周囲から『歌好きの兄妹』と揶揄されているのは知っている。
だが。
「……私だけが、すまん」
「いいえ。ずっと話し合ってきたことですもの。大丈夫」
力強く答えるミネットの瞳には、揺るぎない意思が宿っていた。
アストランの王宮に居る人々は知らない。彼らが歌だと思っていたものが、実は言葉だったということを。
精霊の言葉には独特の抑揚がある。知らない人が聞けば歌だと思うのは無理もないことだ。ラウルとミネットはそれを利用し、北の地のため何ができるかという話を堂々と人前でしていたのだった。
『私の愛した女王の血を継ぐ者が治める限り、私はこの国に加護を与えます』
大昔にそのように述べた北方の守護者・古の大精霊は、統治者であったセルジュが王都アストラに連行されて以降、銀の花を咲かせることを止め、精霊に地の加護を与えることを止めさせているようだ。
北の地からは恵みが消え、人心も荒れている。神殿が求めていた『魔物が極端に少ない理由』も、貴族たちが求めていた『豊かさ』も、どちらも得られていない。
しかし、ラウルが領主として戻る。シャルトスの血を持つ者が再び統治者となる。
精霊たちは喜び、以前と同じように豊かな恵みをもたらしてくれるだろう。
だからこそ注意深く立ち回る必要がある。うま味が多いと分かれば、また神殿や貴族たちが乗り出してくるかもしれない。北方で統治をすることも重要だが、王都で情報を操作して撹乱したり、危うい情報をいちはやく手に入れたりする必要もあった。
結果的に、父が8年間アストランに抵抗を続けてくれたのは兄妹にとってはありがたいことだった。
ラウルは領主となってもやっていけるほどの知識と年齢を手に入れることができ、ミネットも王宮で人脈を築くことができたのだ。
国を併合すると決めた父の部屋へ行った際、ふたりは父に今までのことを詫び、これからの計画を伝えた。
兄は北に戻り、故郷のため地を治めることを。
妹は王都に残り、故郷のため情報に気を配ることを。
父は何も答えなかった。だが彼も、精霊の言葉を知る者だ。すべて伝わったと兄妹は信じている。
「でもお兄様の方こそ大変よ。荒れ果てた地も、人の心も、立て直すのは並大抵のことではありませんもの」
「まあ、何とかしてみるさ。父上のご苦労を思えば、私の苦労なんか大したことじゃない。……だがもし駄目だった場合、次はお前が領主となる番だ」
「嫌なことを仰らないで」
兄の言葉を聞き、妹は顔をしかめた後で微笑む。
「初代シャルトス公爵はきっと立派に北の地を治めます。だって、私のお兄様なんですもの」
「……ありがとう、ミネット。では私も、遠くにいる妹に恥じることがないよう、精一杯やってみせるよ」
強くうなずくラウルを名残惜しそうな瞳で見つめたのはほんの一瞬だけ。再び被り布を手にしたミネットは、凛とした表情で告げる。
「お別れの言葉を伝えに来ただけですから、もう帰ります」
誰かに見られるかもしれない危険はなるべく避けなくてはならない。
互いの部屋を訪ねるのは、どうしても必要な時に短時間だけ、と決めてあった。
「どうぞお元気で、お兄様。そして必ず、届けて下さいね。北の地へ、お父様と、私を」
「もちろんだ」
大事な髪を懐にしまったラウルは、服の上から強く握ってみせる。
「これは大樹の根元に植えるよ。大精霊と一緒に、ミネットの幸せを祈ることにしよう」
被った布の陰から輝くような笑顔を見せた後、ミネットはそっと部屋から出て行く。
おそらくこれが、ラウルの見られる最後の妹の姿だ。
ふたりが父に会わなかったのは、北の地に心を残していないのだと周囲に思わせるため。
兄妹が不仲を装っていたのは、兄と妹が連絡を取り合うのではないかとの警戒を抱かせないため。
――大事な妹。敵を装った、最大の味方だった人物。
扉を閉めようとして、しかし取っ手を持ったままラウルは動けなくなる。
8年の間、ラウルにとってミネットは心強い存在だった。
きっと彼女にとっても同じだったに違いない。
この後ラウルはようやく北へ戻り、自分を取り戻すことができる。
だがミネットはこれからも王都に居て、自らを偽り続けたまま生きていかなくてはならないのだ。
――歌好きの兄妹と呼ばれた片割れの彼女は、ひとりになった後も歌うのだろうか。
兄妹はどちらも精霊に関する力があった。北に居た時は父と共に3人で大樹へ行き、大精霊や精霊とよく話をしたものだ。このアストランの王宮にいる時とはまるで違う、明るい表情の妹をラウルは今でも思い出すことができた。
――彼女だって本当は北へ戻りたいに違いない。
今ならまだミネットは廊下にいるはずだ。このまま扉の外へ走り出て、共に北へ行こうと誘うことができる。
共に行くのが難しいなら後で追いかけて来れば良い。何年後でも構わない。自分は、大精霊は、精霊たちは、ミネットのことをいつでも心から歓迎する。そうして皆で手を取り合い、8年前に失ってしまったあの日々を改めて取り戻すのだ。
――だが。
「……っく」
ラウルはこみ上げてきた嗚咽を喉の奥で堪える。強い意志に満ちた妹の瞳を思い出しながら、涙が零れないよう眉間に力を入れた。
どんなに誘っても、きっと妹は首を縦に振らないだろう。
ミネットは北方を心から愛している。愛しているからこそ、彼女は王宮に残ることを選んだのだから。
ラウルは改めて取っ手を握り締める。歯を食いしばり、せめぎ合う心に揺れる腕にも力を入れ、思いを断ち切るようにして扉を閉めた。




