19.見通し
「隠し事はしない、って言ったくせにねー」
ローゼは不機嫌だった。
壁際に立ち、横の台に置かれた本を手に取って、部屋中央部の長椅子付近へ背中越しに声を届ける。
「あたしが聞かされてないことがまだあったじゃないの。これは、どういうことなのかなー」
【別に、隠してたわけじゃないぞ】
少し離れた場所から聞こえる困ったような声はレオンのものだ。
聖剣も長椅子前の机に置いてある。
【ただ、俺たちは――】
「そうだね、ローゼの言う通りだ」
突然すぐ後ろで声がしてローゼはびくりとする。振り返ると、すっきりとした薄灰色の服に身を包むアーヴィンが微笑んでいた。どうやら絨毯のせいでアーヴィンが長椅子から近づいてきた足音に気づかなかったらしい。
「言わなくて悪かった」
「……本当に悪いと思ってる感じはしないけどー?」
彼の声は謝罪というより、どちらかといえば宥める調子だった。自分が駄々をこねていると思われているようで面白くないローゼは、ぷいと横を向く。
「分かってるの? 今回のことは――」
言いかけて言葉が途切れる。ローゼの頬は、朝の出来事を思い出して熱を帯びてきた。
目を覚まし、自分の中に棲みついている『何か』が古の大精霊なのだと理解したローゼは、夢の余韻に浸りながら、横で眠るアーヴィンを見つめていた。
大精霊の記憶をなぞり、感情をなぞり、やがて愛しさで胸がいっぱいになる頃、アーヴィンが目を覚ます。
昨夜、アーヴィンの部屋に居ることを決めたときは『朝になったら早めに自室へ戻り、ずっと部屋に居た風を装って侍女を出迎えればいい』と思っていた。
しかし彼の瞳を見て気持ちが溢れ出したローゼは、自分が居るのはアーヴィンの部屋だということをすっかり忘れてしまった。夜に決めていた計画などどこへやら、結局ローゼは侍女が訪れるまでアーヴィンの部屋で過ごすことになってしまったのだ。
赤面しながら侍女と共に部屋を出たローゼは湯を使ったあとに部屋へ戻り、着替えるときに今度は胸元を見て血の気が引く。
さらに、侍女から報告を受けていたらしいリュシーには朝の挨拶の際「仲が良くていいわね」と含み笑いで言われてしまい、ローゼは恥ずかしさのあまり卒倒するかと思ったのだった。
もちろんこれらはローゼのせいでもある。アーヴィンたちに悪態をついているのはただの八つ当たりに過ぎない。十分に承知の上だが、つい言ってしまう。
「も、もしもちゃんと教えてくれてたら、あたしは大精霊の夢を見たって『ふたりが言ってたことは正しかった』なんて思っただけよ。だから、ええと、その、寝台でぐずぐずすることなんてなかったんだからね!」
しかもこんな恥ずかしい思いをしたきっかけになった夢、つまり「棲みついていた『何か』が大精霊である」という話をアーヴィンとレオンにすると、ふたりは『何か』が大精霊に深く関わるものではないかと、ずっと前から思っていたという。
どうやら、北方に入って最初の町で銀狼に会った際に推察したらしい。
【あのとき神降ろしをしたお前は、木を見て感慨深そうにしてたんだよな。喋ってるのも精霊の言葉だったし、銀狼も大精霊の気配がするって言ってたしなあ】
「な、何よそれ! そんなに前から知ってたなら、さっさと教えてくれたって……!」
「私たちも信じられなかったんだよ、ローゼ」
穏やかな声でアーヴィンが割って入る。
「何しろ、大精霊は消えたものだと思っていたからね」
【お前の中に棲みついているのが本当に大精霊なのかどうか、確認したい気持ちはあったんだ。だが、そのためには神降ろしをしなきゃならんだろ?】
神降ろしをすればローゼは体力を使う。
アーヴィンとレオンは悩み、相談の上、棲みついたものの特定よりもローゼの体を優先することにして、できるだけ神降ろしをさせないようにすることを決めたのだと語った。
【木に近寄るのもなるべく避けようと思ってな。だから北方神殿にもあまり立ち寄らなかったってわけだ】
「……そう……」
話を聞いたローゼは、ふたりが自分のことを考えてくれていたことをありがたく思う。
思うのだが、恥ずかしかった出来事が強烈すぎて、どう気持ちの整理をつけたら良いのか分からない。
そしてアーヴィンはきっと、そんなローゼの気持ちを理解してくれているのだろう。
「この通りだ、謝る。ごめん、ローゼ」
謝罪の言葉を口にしながら傍に立つアーヴィンは、ローゼの顔をそっと正面に戻す。
「だから許してもらえないかな」
灰青の瞳に見えているのは申し訳なさではなく、思いやりと優しさ、愛しさ。
「……しょ、しょうがないわね。今回だけよ!」
アーヴィンのくれた折り合いをつけるための機会にすがると、長椅子前の机からは苦笑が聞こえた。
そちらを睨み、微笑むアーヴィンへ視線を戻した後、ローゼは横の台にある本を見る。ここにある数冊の本はすべて神降ろし――北方で言うところの『精霊に執着された者』関連の話だ。
「……でも、あたしの中にいるのは大精霊でしょ? 逆に困ったことになったよね……」
内容を思い出しながら、ローゼは小さくため息を吐いた。
城の書庫から持ってきたというこれらの記録を、ローゼとアーヴィンは昨夜のうちに手分けして読んだ。
一番多かった事例は、精霊が気に入った人間を他の精霊に渡さないようにするため人に入り込むというもの。
他にも、結婚や引っ越しなどで遠方へ移住する人間に着いて行きたくて入り込む事例や、中には精霊を怒らせてしまったがために入り込まれてしまう事例もあった。
だが、中に棲みつかれた巫子たちと違い、これらはすべて解決している。
解決法はすべて同じ。
古の大精霊の力を借りること。
精霊たちは、より格上の相手の命令には基本的に逆らえない。
よって古の大精霊の言葉には誰も逆らうことができず、人の中に入り込んだ精霊たちは、おとなしく外へ出ていたのだった。
だが、ローゼの中に居るのは当の大精霊だ。
彼女に外へ出てもらうためには、一体どうすれば良いのだろうか。
考えていると、横でアーヴィンが静かな声で言う。
「……ローゼの中にいるのは、本当に大精霊ご自身なのだろうか」
本から視線を上げたローゼは、彼をひたと見据える。
「どういうこと? だってあたしは、夢で大精霊の記憶を見たのよ?」
ローゼの口調は非難がましくなったが、アーヴィンは気にする様子もなく微笑み、手を差し伸べてくる。怪訝に思いながらローゼがその手を取ると、彼は元の長椅子へローゼを誘い、腰をかけながら言った。
「大精霊は、もうおられない」
「アーヴィンはあたしの話を信じてくれてないのね!」
立ったまま拳を握って叫ぶローゼに向け、長椅子のアーヴィンは穏やかな表情で首を横に振る。
「信じている。でも、大精霊の命はもう尽きたんだ」
アーヴィンの言いたいことが分からず、ローゼは眉をひそめる。その時、感情の分からないぽつりとした声が聞こえた。
【……精霊が消えるのは、瘴気に染まって魔物に変化した時】
声の元は机の上だ。
【精霊は人のように寿命があるわけではない。だからそれ以外で命が失われた事例はない。……んだったな?】
「仰る通りです。ただ、その記録は他から得たもの。広く知られている話ではありません」
アーヴィンは小さく息を吐く。
「シャルトス領の人々は大精霊の命がいずれ失われることを知っていました。他ならぬ大精霊自体がそう述べたからです。そのため、精霊に寿命があると思っている人が多くいます」
アーヴィンの話を聞くローゼの脳裏に浮かんだのは、レオンと共に何度も読んだ絵本の文面だ。
――女王さまの子どもの、その子どもの、さらにその子どもたちが、ずっと、国をおさめている間は、わたしのいのちがあるかぎり、町や村にまものを、いれません。
確かにこれを読んで育ったシャルトス領の人々は、大精霊に命の終わりがあると思うだろう。そして精霊全体に及ぶ話だと思うに違いない。人と同じように精霊にも寿命があるのだ、と。
「しかし、大精霊の命が尽きたのは、木と、シャルトス家のせいです」
アーヴィンは聖剣に向けていた視線を未だ立ったままのローゼに向ける。微笑んだ彼が長椅子を示したので、ローゼは彼の横に座った。
「大精霊はシャルトス領すべての町や村を守るため、大樹の分身とも言える木を各地に根付かせて力を行き渡らせました。このとき大精霊は更に、女王の血脈へ加護をお与えになった」
アーヴィンはローゼの肩を抱きながら、聖典を読むかのような調子で話を続ける。
「木の仕組みを形作るにも、加護を与えるのも、どちらも大精霊ご自身の限界を超える莫大な力が必要でした。大精霊はこれらを成し遂げるため、自らの命を削って力としたのだそうです」
【……なるほどな】
低い声で相槌を打ったレオンは、一転して軽やかな声で続ける。
【まあとにかく、一度仕組みができてしまえば後は力を流し込むだけでいいってわけか。だから銀狼は命を使うことなく、のほほんとしていられるんだな】
彼は重くなった空気を払拭するため言ったのかもしれなかったが、ローゼの心は晴れない。
「……大精霊がもういないっていうのは分かったわ。じゃあ、あたしの中に棲みついてるのは、誰なの?」
記憶を見た。伝わって来た感情があった。夢の最後で向き合った。あれは間違いなく大精霊だったと叫びたい気持ちを堪えながら、うつむくローゼは両手を握り締める。その手を、あたたかく、大きな手がそっと開かせた。
「大精霊ではないけれど、大精霊とも言えるものだろうと私は思っているよ」
謎かけのような言葉に顔を上げると、アーヴィンはいつもの穏やかな様子でローゼを見ている。
「大精霊は命を散らせた。けれども精霊には寿命がない。だとすればローゼの中にいるのは、過去に大精霊だった精霊、というものなのかもしれない」
「過去に大精霊だった精霊?」
ローゼは昨年、大樹の前で神降ろしをしたときのことを思い出す。
「……ええと、例えば……あのとき大樹の中で寿命を終えた大精霊の……魂っていうか、核みたいなものが、大精霊の記憶と力の一部を持ったまま、実は大樹の中で新たな精霊として生まれ変わっていた、とか?」
「そう」
アーヴィンは自身の両手でローゼの両手を包み込む。
「本来なら起こらないはずのことが起きたから、少し不思議なかたちで生まれた存在なのかもしれない。……私の勝手な考えだけれどね」
そっか、と呟きながらローゼは顔を正面に向けた。机の上には白い鞘に納められた聖剣がある。
「レオンだってそうよね。よく分からない状況で誕生したから、人の記憶を持ったまま聖剣に宿った精霊っていう、何だか分からないモノになったんだし」
【何だか分からないモノとか言うな】
苦笑しながらレオンは答える。
【まあいずれにせよ、ローゼの中にいるのは大精霊そのものじゃないってのは間違いないだろうな。あまりにも弱すぎる】
「だったら、レオンが説得すればあたしの中から出てくれる?」
【もう試した。残念ながら、俺の言うことは聞いてくれなかった】
ローゼは小さくうなり、木の紋様が彫られた天井を見上げる。
「……つまり、あたしの中にいる精霊は、レオンより力が弱いのに格上、ってことになるのかぁ……」
精霊の強さと格は比例する。普通の精霊がレオンの言葉を無視するなど、本来ならばありえない話だ。だからこそ先ほどのアーヴィンの話にも繋がるのだろう。きっと彼らは今まで何度も話し合って、この推論を出していたに違いない。
「あたしの中の精霊が、自分から出て行ってくれればいいんだけど……」
今まで記憶をところどころ失くしていた大精霊は、昨夜になってようやく全て思い出したようだ。小さな精霊に人の中から出て行くよう説得していた過去を持つ大精霊ならば、進んでローゼの中から出て行ってくれるかもしれない。
そう期待する一方で、別の懸念もある。
もしも考え方が過去の大精霊とは違った場合、今回の彼女はローゼの中の方が良いと判断して棲みついたままになる可能性もあるのだ。
「……やっぱり自主的に出て行ってくれるのを待つよりも、出て行ってくれる方法を探した方が安心かな」
【当り前だ。何が起きるか分からない以上、確実に出て行ってもらう必要がある】
レオンの強い口調に合わせ、アーヴィンもうなずく。
「過去の事例に、大精霊を頼る以外の方法があったかもしれない。また書庫を探してみよう」
「うん!」
原因は分かったが解決したわけではない。不安は山積みだ。
それでもアーヴィンとレオンがいてくれるのなら、きっと何とかできるという安心感がある。彼らがいてくれることを心強く思いながら、ローゼはふたりに笑みを見せた。




