13.処決
「あ、あのっ、ね、あたし!」
ローゼは、名を呼んだアーヴィンが次の言葉を言うより早く口を開く。
「アーヴィンとレオンが何か話してるなーってことはずっと前から気づいてたのよ。もしかしたらあたしの神降ろしについて話してるのかも、なんて思ったりしてね!」
下を向いたまま、ローゼはわざと明るく続ける。
「まさか本当にそうだったなんてね! びっくりしちゃった、あははは!」
「ローゼ」
「神降ろしのこと、隠しててごめんね。でもアーヴィンだって悪いと思うわ。村祭りの後の『一晩』で、あたしに書き取りさせたでしょ? あれ、全然楽しくなかったもの!」
「ローゼ、私の話を――」
「それにしてもレオンったら酷いなぁ。あたし、ちゃんと頼んだのよ、アーヴィンには言わないでね、って!」
遮ろうとする声に被せてローゼはひたすらにまくしたてる。果たして彼が何を言うつもりなのか考えると、怖くてたまらないのだ。
もしも神降ろしの件を詳しく聞かれてしまうと、巫子長の言葉についても言及する必要が出てくる。
レオンに「隠し事をするな」と言われても、ローゼはまだアーヴィンに告げる勇気が出せない。いや、本音を言うのなら隠したまま済ませる方法を見つけたい。そのためにも今、アーヴィンに何も言わせてはいけないのだ。
「あたしもね、神降ろしなんてしたくないでしょ。だから何とかしようと思って大神殿の書庫へ行ってね――」
「ローゼ、私の話を聞くんだ」
いつまでも下を向いたまま一方的に話し続けるローゼを何とかしようと考えたのだろう。アーヴィンはローゼの両腕をつかむと上体を押し、顔を上向かせようとした。
抗えなかったローゼは咄嗟に横を向く。
「――自分から神降ろしの本を探す日が来るなんて、書き取りをしていた時のあたしは考えもしなかったと思うわ! そうそう、書庫と言えばね」
腕をつかまれ、顔を背け。不自然な状態のローゼは、不自然な明るさのままで話し続けた。
こうして強引に話をしていれば、アーヴィンが諦めるか、あるいは廊下側の扉を叩いて誰か、リュシーやフロランが来てくれるのではないかと期待している。
(あたしは話す気があったのよ。でも聞いてくれる人にそのつもりがなかったり、他の人に邪魔されたりしたら仕方ないでしょ?)
レオンにはそう言い訳をするつもりだ。彼は怒りながらも、最終的にはローゼを許してくれるだろう。あとはレオンに頼みこんで、なんとかアーヴィンを言いくるめてもらえば良い。そうすればローゼは最期までアーヴィンを失わずに済む。
(……でも)
ただ、心の片隅で小さな声がする。
(本当でそれでいいの?)
巫子長の話をしなければ、アーヴィンはきっとローゼから離れることがない。彼は幸せな日々が続くと信じ続け、ある日突然に絶望の底へ落とされる。その後アーヴィンは、小さな部屋で母や妹の話を聞かせてくれた時のようにして、ローゼのことを他の人に語るのだろうか。
あの時彼が浮かべた表情を、ローゼは今でも思い出すことができる。
強く寄せた眉と、光を無くした瞳、色の失せた頬。今にも倒れ伏してしまいそうだというのに、青ざめた唇の端だけが笑みを描いている。
あれはきっと、深い悲しみを語る時にアーヴィンが見せる表情。
笑うことができないのに無理に笑おうとする彼を見ながらローゼは胸が塞ぐような思いをした。今後は彼にローゼのことを尋ねた誰かも、そんな思いを抱くことになるかもしれない。
(……卑怯だよね)
ローゼの胸の奥で、もうひとりの自分がぽつりと呟く。
このまま行くと、アーヴィンの未来に待っている道はひとつだ。彼は選択の余地すら与えられない。
――そこでようやくローゼは気がついた。この城にいる今、レオンがふたりを話し合わせようとした理由に。
(……そっか)
レオンはアーヴィンにもう一度選ばせようとしているのだ。
アーヴィン・レスターのままでいるか。
エリオット・シャルトスに戻るのか。
この青年がアーヴィンの名を選んだのは、ローゼが望んだからでしかない。もしもローゼが居なくなってしまうのならば、彼がアーヴィンとして居続ける理由はなくなる。
――目の前にいる彼の幸せを願うのなら、確かにローゼは今、巫子長の話をするべきだ。
ようやく生じたこの気持ちが、不自然に語り続けるローゼの口を閉じさせた。
音が消えた部屋の中、静かな声がローゼに掛けられる。
「私の話を聞いてくれるね、ローゼ?」
「……駄目。あたしが先にする」
だが、彼の顔を見ることはまだできない。横を向いたままで言うと、つかまれていた腕が離された。
「分かった」
彼としては、ローゼの態度が改められたので離したのだろう。だがローゼの腕から熱が失われていく様は、この後に彼の心が冷めていく示唆のようにも感じられる。
(でも。あたしは言うって決めた)
息が詰まるような胸の苦しささえ覚えながら、座り直したローゼは再び顔を下に向けて口を開いた。
「……アーヴィンはもう、変な神降ろしのことを知ってるのよね」
「そうだね、大体のところは」
「じゃあ、そこは省くわ。だとすればそうね……」
手袋越しですら冷たく感じる手をローゼは握り合わせた。耳の奥で鼓動が大きな音を立てる。
「……あたしもね。神降ろしをなんとかしたかったの。おさめる手がかりがないかと思って何度も大神殿の書庫へ行ったんだけど、その日も良い本が見つからなくてね。仕方なく部屋へ戻ろうと思ったら、廊下に……」
それでも言い出すのには勇気が必要だった。一度区切り、躊躇い、乾いた唇を湿らせ、ローゼは覚悟を決める。
「巫子たちの長の、イメルダって言う人が立ってたの」
口に出すと今度は止まらなかった。
ローゼは息つく間も惜しむようにして話をする。
巫子長の部屋に行ったこと、彼女の生い立ちを聞いたこと、彼女はどうやら精霊が見えるらしいこと。
巫子と神降ろしの話、巫子の中に『何か』が棲みついてしまうことがあるという話。
そして。
「あの人はあたしに言ったの。『身の内に何かを棲まわせてしまった者は、遠からず命を落としてる』って」
いつもローゼと共に在る言葉は、思いの外すんなりと出てきた。
「巫子長はさ、きっとあたしに『お前も同じだ』って伝えたかったんだと思うの。中に『何か』が棲みついてるぞって。つまりそれが奇妙な神降ろしの原因なのよ」
ひとつ呼吸を置き、ローゼは思い切って言う。
「だからあたしも、何かを棲まわせてしまった巫子たちと同じように、遠からず……」
先はもう続けることができなかった。
うつむくローゼの視界にあるアーヴィンの姿は腰から下のみ。彼が着ているものは貴族風の服、その服にも刺繍は施されている。
ローゼのドレスと同じ蔦の模様。
アーヴィンの衣装を手配してくれたのもリュシーだろう。この後もローゼたちが一緒に行動すると思ったリュシーは、ふたりの模様をわざと合わせてくれたのだ。
(……でも)
アーヴィンの表情を見ることはできない。鼓動がうるさい今は周囲の音も聞こえず、彼の息遣いも分からない。だがローゼは、視界にない彼の表情をはっきりと思い浮かべることができた。
――きっと彼は怒りも悲しみも表せず、青ざめた顔でただ呆然とローゼ見つめている。
ローゼは一息で話ができる程に大きく息を吸った。
「ご、ごめんね。あたしもまさか、こんなことになるなんて思ってなくて。結婚の約束なんて、しちゃって。時間を無駄にさせて、本当に、ごめんね」
この後、衝撃が薄れたアーヴィンは別れの言葉を置いて部屋を出るだろう。
もちろん彼を引き止めることはできない。ローゼに出来ることは去り行く背中を見つめること。そしてひとり残ったこの部屋で、城から出るための支度を始めることだ。
その身を切るような切なさを想像すると、未だ目の前にいてくれる彼にしがみつき、置いて行かないで欲しい、と叫びたくなる。
だがそれはローゼの我が儘だ。彼の人生は彼のためにある。ローゼのため無駄にして良いものではない。
「でも、ね。大丈夫。今は北の城にいるんだし、アーヴィンは今すぐ、エリオットに戻れるでしょ。だから、もう一度、ここで――」
言いかけて言葉が詰まる。
頭ではなく、心の方が体を突き動かした。左手を伸ばし、それでも彼の体に触れることはできず、ただ彼の上着の裾を摘まむ。
「……いやだ」
今までとは違う、小さな声が唇から漏れる。
「あたしを残して行かないで」
勝手なことを言うなと頭が心を諫めた。開いた口が閉じかける。それでも最後に一言だけ、止められない言葉が出た。
「……お願い。嫌いに、ならないで……」
鼓動は今までとは逆に静かだ。まるで自分が生きていないかのような気すらする。
静かになった自分と、静かになった部屋。
そんな中、聞き慣れた通る声が頭上から降って来た。
「残念だよ、ローゼ」
ローゼの口から小さなため息が漏れた。
このため息にどんな感情が含まれているのかは判然としない。あまりにも複雑に色々なものが絡み合っているせいだ。しかしひとつだけ、際立って分かる感情があった。
諦め。
――すべて、終わった。
アーヴィンが身動きをし、ローゼの指が彼の上着から離れた。
長椅子へ滑り落ちた手を引き寄せる力もないローゼがぼんやりしていると、その左手をアーヴィンが取る。袖から零れた銀の鎖が音を立てた。いつもは涼やかに聞こえる音が、今日は哀しげな細い悲鳴のように聞こえた。
彼はきっと、精霊銀の腕飾りを外して持ち去るのだろう。
そう思ったのだが、アーヴィンはローゼの左手を握り締めて自身の胸に押し当てる。
「私の気持ちは、まだ分かってもらえないのか」
彼の声を聞き、ローゼはゆるゆると顔を上げる。
そこにあったのは、想像していたような絶望するアーヴィンの姿ではない。
苦笑しながらも、優しい光を瞳に宿すアーヴィンの姿だった。




