12章 禍根
「わかってる。明日の朝には帰えるから。」
そう言って誠は電話の受話器を置いた。
「大丈夫なの?」
「ええ、うちには騒がしい双子がいるんで、俺がいなくても大丈夫です。
電話借りてしまってすいません。」
「そんなこと…
ごめんなさい。私のせいで二度も危険なことに巻き込んでしまって。」
柴崎はこたつの毛布を口元まで上げて小さくなった。
声が小刻みに震えているのは、まだ、襲われた時の恐怖が残っているからだろう。
大地に助けられた後、誠と柴崎は全力で距離の近い柴崎の家まで走り、震える手でなんとか玄関の鍵を開けると、緊張の糸が切れたのか、柴崎は崩れるように玄関に座りこんで動けなくなってしまった。
寒々としたリビングよりも、狭い部屋の方が落ち着くかと思ったので、誠はこぢんまりとした和室に柴崎を座らせることにし、放心状態の柴崎を一人置いて帰るのも少し心配だったので、柴崎に了承を得た上で、今日は泊まることにした。
が、そのことを家に連絡しようと、鞄から携帯を出そうとしたが、あの場所に鞄を置き忘れてきた事に気付き、仕方なく柴崎の固定電話を借りたのだった。
鞄のことが少し心配ではあったが、柴崎を一人にするのも何だったので、明日警察に届けられていると高をくくって、今は考えないことにした。
財布はズボンに入っているし、どうせ使い古された解剖学の教科書やプリントしか入っていないから、一般人が好き好んで持っていく事もないだろう。
「…」
コタツの上にはインスタントのコーヒーがゆらゆらと湯気を出していた。
柴崎はそれをじっと見つめて、何も話さなかった。
勉強していた時の、あの先の先まで見通すような深い目とは違い、今は目の前にあるものでさえ何も見えていないような、そんな印象を受けた。
秒針の音が聞こえることもなく、ただ、ジーっというコタツのか細い電子音だけがやけに耳に付き、まるで時間が止まっているかのようだった…
「ずっと一人で住んでるんですか?」
長い静寂に耐え切れず、誠が言った。
柴崎は自分に話しかけられたことに気付かなかったのか、少し間を開けてから、顔をパッと上げた。
「え、ええ、大学2年の頃に両親が旅行先で事故にあってからずっと…ひとり…。」
「すいません。余計なことを聞きました。」
誠はしまったと思い、頭を下げた。
すでに両親が他界していることを聞いていたのに、それをこんな時に聞くことはなかった。
申し訳なさそうにしている誠に、柴崎は小さく首を振った。
「ううん。そんなに親子愛が深かったわけでもないから。
親戚もなかったからずっと一人で生活してるの。」
「親戚がいない?」
「正確にはどこにいるかわからない。かな。」
柴崎はこたつからのそのそと手を出すと、コーヒーをスプーンでくるくるとかき混ぜ、ミルクをゆっくりと注いだ。
黒いコーヒーの中にぐるぐると白と黒の螺旋模様が形成されていく。
「父さんと母さんは結婚を反対した両親と大喧嘩して、駆け落ちしたんだって。
おかげで親戚がどんな人か、生きているのかすら全く知らないの。」
コーヒーの螺旋模様をじっと見つめながら、ゆっくりと息を吹いた。
「高校卒業と同時に家を出て、親の援助のないまま共働きで朝から晩まで働いていたけど、とても裕福って環境じゃなかった。
そんな環境のせいかしらね、両親は私を医者にするために勉強を叩きこんだわ。
口を開けば勉強勉強ってね。
大きくなったらお父さんとお母さんをちゃんと面倒見るのよって。
自分の両親を置いて出てきたくせに笑っちゃうわよね。」
柴崎はあははと感情なく笑うと、持っていたスプーンでコーヒーの流れをせき止め、規則正しい螺旋を崩した。
「私はそんな身勝手な親が嫌で嫌いで、がむしゃらに勉強したわ。
医者になりたいって訳ではなく、親から離れたい一心で。
で、やっとの思いで医学部に入って、家庭教師のバイトをしながら学生寮で一人暮らしを始めたら、保険金だけ残して死んじゃった。
車も持っていないペーパードライバーのくせに、旅行でレンタカーを運転して、スリップして…。」
カチン…
柴崎に動かされていたスプーンがちょっと手を離した瞬間になすすべもなく倒れた。
その音は小さかったが、ズシンと胃の中に鉛が落ちた様な感じがして、気持ちがざわついた。
今倒れたスプーンが葉月と母さんに重なったからだろうか。
「京都に家を建てたのもそう。
いつも見栄張ってばかりで、馬鹿みたい…」
そう言って、もう螺旋模様が無くなり、茶色になったコーヒーを唇を湿らせる程度にちょんと飲むと、こたつの上に腕を組み、それを枕にして頬を載せた。
「でも不思議なものでね、嫌い嫌いだと思っていたのに、いざいなくなるといい思い出しか思い出せないの。
勉強中に頭を撫でてほめてくれたこととか、医学部合格を泣いて喜んでくれたこととかね。
くだらない記憶かもしれないけど、私には大切な思い出だったんだなって。
結局のところこうして生きていられるのは、親が勉強を見ててくれたおかげ…なのかもね。」
柴崎はそう言うと、横に向けていた顔を下に向け、腕の中に隠して鼻をすすった。
初めて会ったとき、気が強いしっかりした人だなと思っていたが、もともとは気弱でさみしがり屋なのかもしれないなと、誠は思った。
「ねえ、一つだけお願いしてもいい…かな…。」
「いいですよ?俺に出来る事なら。」
少し間を空けた後、俯いたまま柴崎は言った。
「…でてくれない?」
「え?」
「あたまを撫でてくれない…かな…。」
柴崎のストレートな髪の間から覗く耳が、みるみるうちに紅くなっていった。
少し話しておさまっていたはずの声が、再び震えているのは別の理由だろうか。
誠は何も言わず、ゆっくりと手を伸ばすと、そっと頭に手を添えた。
柴崎は一瞬肩をピクッとふるわせたが、少しの間ゆっくり撫でられると、気持ち良さそうに肩の力を抜いていった。
耳障りだったはずのコタツの重低音が、まるで子守唄であるかのように心地よく感じた。
「うらやましいな…」
「なにがですか?」
「あなたの家族。純粋な家族愛って感じがしてうらやましい。」
「そんなんじゃ無いですよ…。」
誠のいい方は少し意味ありげだった。
柴崎をなでていた手が止まると、柴崎は不思議そうに顔を上げた。
「何かあったの?」
「…。」
「ねえ、私、今あなたに話したことでとても気が楽になったの。
もし話したくない事なら無理に話さなくていいけど、話してくれると私はとても嬉しいな。」
柴崎は優しい顔で覗き込んでいた。
誠は少しの間黙っていたが、ゆっくり手を動かして口を開いた。
「少しだけ独り言してもいいですか?」
「ええ。」
柴崎は小さく頷くと、目を閉じた。
「母さんを下半身付随にして、葉月の腎臓を壊したのは俺なんです…。」
「ぇ…。」
「俺があの時馬鹿だったから…」
誠は話し始めた。
「高校の頃、俺は野球部に所属してたんです。
学校自体は別に野球部に力を入れていた訳じゃなかったので、甲子園なんて行ったことないような学校だったんですが、俺が3年の時、甲子園に行けるんじゃないかって期待されてたんです。
で、甲子園を賭けた最後の試合の時、家族に絶対に来てくれって言ったんです。
まぁ父さんはうどん屋を急に休みにできないって来れなかったんですけど、母さんと文月、葉月は来てくれたんですよ。
でも、俺はその試合で、負けたんです。」
「…。」
柴崎は静かに話を聞いていた。
未だ事故との繋がりは見えてこないけど、誠の話すペースにあえて口を挟むようなことはしなかった。
「副キャプテンだった俺は、試合の後みんなの事を励ましたり、荷物を片付けたりしてました。
母さん達が外で待っているのを知っていたのに…」
「俺たちは期待されていたにも関わらず地区予選敗退、甲子園には行けない。
しかし、今まで甲子園なんて夢のまた夢だったが、ついに手の届く所まで来ることが出来た。
俺たち三年は来年はいない。
だからお前たちに思いを託す!
来年こそ甲子園を掴み取ってくれ!」
「ハイ!」
「解散!!」
主将の最後の言葉が終わると、皆が荷物をまとめだした。
さっさと荷物を持って部室を出ていく者、その場で泣き崩れる者、傘立てを蹴り上げて怒りを露わにする者など、それぞれ反応は違ったが、誠は皆をなだめる役だった。
実のところ悔しいという感情より、見に来てくれと言ったのに負けたのが恥ずかしくて、会わせる顔がなくって、理由を探して外に出ないようにしてただけだった。
「先に行ってるから早く来いよ。」
「なぁ、大地はこれからどうするんだ?」
「お前と違って勉強なんてできないからな。
推薦も取れそうもねえし、高卒で働くさ。」
「そっか…」
同じ野球部だった大地は誠の肩をぽんと叩いて外に向かった。
気が付けば、誠は部室の椅子に一人腰掛けていた。
このままずっと出なければ先に帰ってくれるんじゃないかと、負けてへこんでいる自分の姿を見せなくてもいいんじゃないかと、ぐるぐると思いを巡らせながら…
ドゴン!!
観念してそろそろ外に出ようとしたとき、外で何かが激突したような音が聞こえた。
部員のだれかが何か大きなものをひっくり返したのかと思い、荷物を持って電気を消し、一礼をして外に出た。
すると、グラウンドの出口の方から大地が血相を変えて走ってきてるのが見えた。
「誠!早く来い!」
「どうした?」
試合の後ということもあって、疲れ果てたように膝に手を置いて擦れた声で言った。
「お前のおばちゃんが!」
「え…」
「お前のおばちゃんと葉月ちゃんが、校門で車に轢かれた!」
「っ!!」
誠は荷物を投げ捨てると、一目散に掛け出した。
嘘だ!なんで!なんで母さんが!葉月!文月!俺が野球をしてなければ!試合に呼ばなきゃよかった!試合に負けなければ!すぐに俺が外に出ていれば!!
舌が奥に押しつけられるような吐き気を感じながら、震える歯を喰いしばって涙を堪えて全力で校門に向かった。
校門には人だかりが出来ていて、野球部の部員が腕を大きく振って早く来いと言っていた。
全身が、心臓が爆発するんじゃないかと思うほど、バクバクと全ての音をかき消すほど耳を支配していた。
人だかりを押しのけて誠が中に入ると、校門に車がぶつかって止まっていた。
運転席フロントガラスが割れ、白くなった細かい亀裂の中心に、赤い斑点がついている。
その車の手前で文月が葉月を抱きかかえて半狂乱になって叫び、母さんは頭から血を流しながら、這いずった状態でサラリーマン風の男の服を掴み、助けを求めていた。
バクバクという心臓の音が止まり、何も聞こえなくなった。
呼吸の仕方もわからず、頭を抱えて浅い呼吸をしていると、世界が真っ白になっていくがわかった。
そして真っ白な世界に立ち尽くす誠と、文月の目が合った。
「お兄ちゃん!」
涙で顔をぐしゃぐしゃにし、こっちを向いた文月は絞り出すように言った。
「助けて…。」
「あの時の文月の声が頭から離れないんです…」
誠の話は懺悔のようだった。
校門前で待っていた誠の家族に自動車が突っ込み、母さんは二人を庇おうと車に背を向け、葉月が車線上から文月を突き飛ばして助けた。
結果、母親は背中から撥ね飛ばされ、下半身不随に。突き飛ばされた文月はほぼ無傷で助かったが、葉月は左わき腹後方から撥ね飛ばされ、腎臓を損傷したということだった。
犯人は座席とハンドルに挟まれて救助が遅れ、胸骨圧迫による心タンポナーデで死んでしまった。
住所不定の薬物中毒者だった。
恨むあいてもいなくて、みんな自分を責めた。
母さんは葉月守れなかったことを、父さんはその場にいなかったことを、文月は葉月を犠牲に助かったことを、俺は…
あんなこと予想できるわけがない。
運悪く出来事が重なっただけだってわかってる。
でも、もし俺が野球をしてなかったら、もし早く外に出ていたら、もし試合に三人を呼ばなかったら…
あんなことには…
「柴崎さんを助けた時もそう、体が勝手に動いてしまっただけなんです。
俺は全然善意で人を助けてない。罪悪感と恐怖心で、動いてるだけなんです…。」
「そう…。」
「俺は…卑怯だ…。」
誠は前髪を握りしめて、涙を食い殺した。
自分は泣いていい立場じゃないというかのように。
「安心した…」
「え…?」
突然の柴崎の言葉に誠は驚いた。
「人の心なんてものは一人ひとり違っていて、何考えてるかなんてわからないのよ。
医療に携わっているとなおさら、人の嫌なところばかり見えてくる。
すごくいい人だったのに、自分の死が確実に近付くにつれ、本性が現れる。
なんで俺が!ほかに悪い奴はいくらでもいるのにって当たり散らす。
だから理由のない無償の愛程怖いものはないのよ。」
「偽善なんかより信用できそうなものですけど。」
誠は吐き捨てるように言った。
「物によるんじゃないかな?
少なくともあなたはだれかを騙すための偽善なんかじゃなく、自分のために動いている。
それなら理解できるし、信用してもいいと思えるじゃない。」
「…」
「薄っぺらい正義感を語る人より、罪悪感を背負って正しくあろうとしてるあなたは素敵な人だと思うわ。
それに…」
柴崎は笑った。
「もし私がもう一度さらわれそうになっても、誠くんなら絶対に助けてくれるでしょ?」
柴崎の笑顔で誠は顔が赤くなっていくのがわかった。
なにより、自分のことを受け止めてくれたことがうれしかった。
誠は横になってコタツに首まで入った。
「寝ます。」
柴崎は少しきょとんとした後、クスッと笑って立ち上がると、部屋の電気を消した。
「誠くん、今日はありがとう。」
と、静かに言い残して。
翌朝、電話の音で目を覚ました。
体の節々が痛いのは、コタツで寝たからだろうか。
ぐぐっと背伸びをして時計を見ると、時間は8時過ぎだった。
「誠くん!」
ふすまをピシャッと開けて柴崎が顔を出した。
「大地君が!」
誠はコタツからとび起きた。




