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明治あやかし怪綺譚  作者: 甘露寺ちどり
花火の夜の事
33/33

花火と冷えた心太

 蝉の鳴き声が聞こえる。今日は、朝から家の中が落ち着かない。理由は──そう。川開きの花火の日なのだ。


「あの、おかしなところはありませんか」


 鏡の前でくるりと回り、妙な所はないかと確かめる少女、飯守日向子を、蛤はくすくすと笑う。もちろん、馬鹿にしたものではなく、相変わらず可愛らしいことだという気持ちからであった。

 裾と袖に絞りの入った涼しげな藍色の浴衣は、この日のために仕立てたものだ。

 日向子がここに連れて来られた時は大丈夫かと案じたのだが、思いの外早くに馴染んだ。年頃の少女が居ると、家の中が華やいだように感じる。何より、若いくせに偏屈なこの家の主が日向子のお陰で多少は丸くなったようなのだ。


『大丈夫よ、似合っているわ。――ほら、桐彦さんが待ちくたびれているから』

 行きましょうと促すと、日向子ははにかんだ様子で頷いた。


 偏屈者の主、黒瀬桐彦は浴衣に着替え縁側に腰を下ろしていた。こちらに気付き顔を上げる。日向子を見て何を言うかと期待したのだが。


「蛤は行かないのか」


 期待とは真逆の、そんな一言であった。褒めそやせとまでは言わないが、せめて似合っているくらいは言っても良いだろうに。こういう男だとは分かってはいたけれど。


『当たり前です。家を空ける訳にはいかないでしょう』

「野狐も残ると言っている。どちらかが居れば――」

『馬鹿を言っていないで、早く行かないと花火が終わってしまいますよ』

 ほら、と急き立てるようにして追い出した。



 二人を送り出し、ようやく一息をついた。日向子が桐彦と花火を見に行くと言ったのは、五日ほど前のことだった。

 一体、いつの間に約束していたのだろうか。まだ日向子がぼんやりと希望しているという段階だろうと思っていたのだが、桐彦も承知の事実であった。

 ならば浴衣は用意しているのかと訊ねると、そんなものは持ち 合わせていないと言うではないか。大急ぎで日向子に似合う反物を選び、仕立てたのだ。


『出掛けたか』


 背後から声を掛けられ振り向くと、先ほど名が出た野狐の姿があった。

 楽しいこと、騒がしいことを好む野狐のことだ、誘われたのなら一も二もなく付いて行くだろうと思っていたのだが。


『狐ちゃんも気が利くじゃない』

『あれだけ楽しみにしてたヒナコの邪魔をするほど、俺様も野暮じゃねえよ』

『そうよねえ』

『……ったく、旦那の奴、鈍いのもいい加減にしてもらいてえな』

『あれはきっと、鈍いんじゃなくて――』


 あれほどの好意を向けられていて気付いていないのならば、医者に診てもらった方が良い。あれは、気付いていて知らぬふりをしているのだ。


『うん? なんだ?』

『なんでもないわ』


 当人の居ない所で話すことではない。野狐もそれを分かっているのか、それともさして興味がないのか、それ以上食い下がることはしなかった。


『蛤も出かければ良いじゃねえか』

『誰か来たときどうするの。お茶を出さないといけないでしょう』

『馬鹿にすんな、そのくらい――』

『お茶を淹れられるくらい、知っているわ。台所を触られたくないのよ』

『ああ。――でも、さすがに今日は誰も』

「日向子は居るか」


 来ないだろう、と続けたかったらしい野狐の言葉を遮ったのは、浴衣姿の少年だった。


『……来たな』

『……来たわね』

「何だ、来ちゃ悪いのか?」


 向けられる視線にたじろぎながらも言い返すのは、都筑実能であった。いつもは洋装で身を固める都筑家の若君も、今日は涼しそうな浴衣姿であった。その姿で、日向子を花火に誘いに来たことは一目瞭然である。だが、しかし。


『花火の当日に誘いに来るやつがどこに居るんだよ』

 あんまりな言い方だが、蛤も同じことを思ったのだ。


「そんなことは、僕の勝手だろう」


 確かに、それはそうだ。当日に誘ってはいけないという決まりはない。実能も、何と言って誘おうか、どうしようかと悩んだのだろう。そう悩んだ末の訪問と思うと、微笑ましくなる。


「それで、日向子は居るのか」


 中々答えが返ってこないことに苛々した様子で急かす。蛤は野狐を見るが、答える様子はない。煽るだけ煽っておいて勝手なものだ。


『ごめんなさいね。日向子さん、出掛けたの』

「戻りは? 遅くなるのか?」

『それが――ねえ、その……』

『黒瀬の旦那と花火見物に行ったよ。終われば戻って来るだろ』


 蛤が言い淀んでいたことを、容赦なく伝える。多少なりとも気遣いをすれば良いのに、この化け狐は。

 実能は悔しげに唇を噛む。そして、つかつかと近づいて来るとそのまま広縁に腰を下ろした。


『花火、もうすぐ始まるぞ』

「日向子が居ないのなら、どうだって良い」


 確かに、それはそうだ。一人で見ても楽しくはなかろう。


『今日は、お店はお休みなのよ』

「黒瀬に相談することはない。……それに僕は人だ」


 遠回しに、もう帰ってはどうかと促したのだが、すぐさま却下される。今晩は店も休み、主も外出、言い添えるなら実能はここの相談客にも当てはまらない。ここに居ても仕方がないだろうに。


「黒瀬は日向子を嫁にするつもりなのか?」


 こうも余裕のない少年を無碍に出来るほど、蛤は冷たくない。野狐も、何も考えずに発した言葉を多少悔いているようだった。


心太(ところてん)でも持ってきましょうか。実能さん、心太は好き?』

「あ――ああ、好きだ」

『蛤、俺様の分もな!』


 すかさず野狐が自分の分も持って来いと要求する。


『はいはい』


 今日は、主も不在で相談屋は休みなのだ。

 いつもは相談をする側のあやかしが、人の相談を聞く──たまにはそんな夜があっても良いかもしれない。



 心太に、餌付けの意図がなかったとは言い切れない。しかし実能は警戒を解こうとはしなかった。


「……お前たち、黒瀬と日向子を添わせるつもりなんだろう?」


 心太を食べながらも懐柔されてなるものか、と言外に含ませていた。

 日が沈んだとはいえ、空気はまだ昼の蒸し暑さを残している。身体を冷やすのに心太はもってこいだ。

 実能は、敵を前にして怯むものかと構えていたが、野狐と、そして続いた蛤の返事に目を丸くした。


『いいや』

『そうねえ、特には』

「は……?」


 そんな呆けた反応に、野狐はもう一度答える。


『だから、旦那のことは好きだけど別にあの二人を夫婦(めおと)にしようとは思ってねえな』

『私も。二人が納得づくなら良いけれど』

「黒瀬は日向子のことを嫌っているのか?」

『嫌っちゃいねえだろ。旦那の、嫌いな奴と一緒にいる時の態度、酷えぞ』

『そうねえ。いい歳をして、あれはどうにかして欲しいところね』


 野狐と共にしみじみと頷く。実能は、信じられないといった様子で目を瞬かせた。


「いや、お前たち、黒瀬の手下じゃないのか……?」

『手下ぁ?』

『失礼な子ねえ』


 野狐はあからさまに嫌な顔をし、蛤はころころと笑った。手下――手下か。身の回りの世話をしているところを見ていれば、そう思うのも無理はないか。


「違うのか」

『当たり前だろ』

「僕の家に、従者の格好をして付いてきたじゃないか」

『それは、そういう役目だっただけだ。役目。分かるか?』

「役目――なあ」

『……お前。俺様たちみたいなあやかしが、人の手下だと思ってんのか? あのタキって女も』

「馬鹿を言うな! どうして手下になる」

『それと同じだ』

『そうね。私達は桐彦さんの家族ね』

「かぞく?」

『そう、家族。困ったことがあれば助けあって、手を貸して。桐彦さんから命令されることはないわ』

『命令された所で聞かねえしな』

『あなたが気にしているのは、私たちが桐彦さんの忠臣で、どうにかして日向子さんを諦めさせようとしている――と、そういうことでしょう?』


 図星を突かれたらしい実能はぐっと黙ったが、しばらくしてこくりと頷いた。


『そんなことするかよ。──旦那よりもお前に嫁いだ方が良いと思ったら、喜んで味方になってやる』

『そうねえ。日向子さんを見ていると、放っておけないもの』


 危なっかしくて見ているだけではらはらするのだ。つい手を差し伸べてしまう。


『だから、安心して相談して良いぞ』


  実能は腕を組み、しばらく考え込んでいた。何から訊ねようかと悩んでいるのだとばかり思っていたのだが、


「やめた!」


 そう言った。

『は? いや、おい。遠慮するなって――』

「……狐。お前、面白がっているだけだろう」


 はるかに年少の少年に図星を突かれ、野狐の視線は泳ぐ。


『まさか。そんなこと――』


 あるはずがない、と続く声は尻すぼみになる。


「それに、黒瀬の弱みや日向子の好きなものを聞いて気を引いても、ちっとも嬉しくない。卑怯だろう」


 卑怯なのか。確かに正面切ってとは言えないが、あれこれ策を弄するのだって大切なことだろうに。それは彼の自尊心が許さないのだろう。まだ年若いというのに、彼の中には理想とする姿があり、そうあらんと努めているのだ。

 それはきっと、大人からすれば青臭いと笑われるたぐいのものだ。信念を貫くためには、多くの忍耐を必要とするだろう。

 けれど、彼ならば。その信念を曲げず、青臭いと笑われても己を曲げることはしないはずだ。


「僕は正々堂々、僕の力でどうにかする。黒瀬が日向子を嫌っていないと分かっているだけで良い」

『そうね──その通りだわ』


 この少年の成長が、楽しみで仕方がない。

 言うと、実能は立ち上がる。


「ごちそうさま。心太、美味かった」

『帰るの? もうすぐすれば、日向子さんも帰ってくると思うけれど――』

「恋敵と一緒に居る所を見たいと思うか?」

『いつも一見てるじゃねえか』

「一緒に出掛けた帰りは別だ」


 そういうものか。いや――そういうものだろう。だから、それ以上は引き止めはしなかった。



『生意気だけど、()()()()いい男になるんじゃねえか?』

『まあ。あの子が()()()()なら、世の殿方は皆どうしようもない方ばかりになるわよ』

『旦那も?』

『桐彦さんは、別』

『……旦那には甘いよな、お前』

『親の欲目というものよ』


 そう、欲目だ。無愛想だの口が悪いだの、言われ放題の桐彦だが、幼い頃からを知る蛤には可愛くて仕方がない。そんな桐彦が連れて帰ってきた娘だから、日向子も同じように可愛いのだ。二人が一緒になってくれるなら言うことはないが、そこまで望むのは贅沢だろう。男女のことは、あまり口を出さない方が良い。なるようにしかならないのだから。二人がそれぞれ幸せであれば、何も言うことはない。

 そこに、ぬっと大きな影が現れた。地の底から響くような声で帰宅を告げる。桐彦のものであった。


「……帰ったぞ」


 だが、花火が終わるにはまだ少し早い。

 見ると、桐彦が日向子を俵のように担いでいた。


「す……すみません……」


 下ろされた日向子の浴衣の裾は泥だらけで、足に纏わり付いている。さらに、下駄は片足がない。


「……上ばかり見て、沼にはまりやがって」


 そう言う桐彦も、日向子を担いできたせいで胸のあたりが泥だらけだ。


『急いでお湯を焚きますからね。狐ちゃん、手拭いを濡らしてあげて』


 実能が帰っていて良かったと、そう思った。

 手桶に水を汲みながら、野狐が呆れ混じりに言うのが聞こえる。


『もう少しましな抱え方はなかったのかよ』


 確かにその通りなのだが、人と深く関わろうとしなかった桐彦にしては大きな進歩だ。男女の仲には程遠いが、少なくとも桐彦の数少ない大切な人に日向子は含まれているようだ。

 今は、それで充分だと思うのだ。



   了

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