鮭弁
午前六時四十五分、起床。
今日も平穏で、いつもと変わらぬであろう一日が始まった。
二度寝の誘惑に断りを入れ、布団から抜け出した私は白のワイシャツ、黒のズボンに着替えてベルトを通す。
脱いだ寝間着と布団を畳み、押し入れに仕舞ったら、欠伸を一つ漏らし、眠気覚ましに脱衣所の洗面台で顔を洗う。
ひんやりとした水の刺激が強制的に意識を覚醒させ、濡れた顔をタオルで拭ったら、残る眠気を追い出すように大きく息を吐き出した。
さぁ、楽しい料理の時間だ。
気持ちを切り替え、早足で台所へ向かう。
「今日のメイン、何にするかな」
冷蔵庫の前に立ち、昨日に引き続いて独り言ちた。
年を取ったからか、将又独り暮らしが長いからか。年々独り言が多くなっている気がする。
独り言云々はさておき、今は目先の朝食と昼の弁当。
特に弁当のメインを早く決めなければならない。
鶏は昨日食べたばかりで、弁当分ぐらいなら豚肉もあるが、そもそも肉の気分じゃない。
若干悩み、とりあえず他のおかずを作りながら考えることにする。
服が汚れないようにエプロンを着用後、冷蔵庫から卵二つに牛乳、ついでにコッペパンを一つ取り出した。
私の卵焼きの味付けは基本三種類。
塩コショウを利かしたものに甘口の九州醤油とごま油を混ぜたもの。そして今日の砂糖多めの三つ。
卵焼き器に油を敷いて温め、ボウルに卵二つ割り入れたら塩、砂糖、牛乳、薄口醤油を加えて空気を含ますように手早く掻き混ぜる。
温度を見るべく、卵液が付着した箸で卵焼き器を撫でれば、黄色い線が残り、あっという間に固まった。
「良い具合だな」
溶き卵を卵焼き器に流し入れ、じゅわりと音が立ち、傾けることで面に沿って伸ばす。
甘い卵焼きの時は焼き目を付けないように、しっとり固まり切らぬ状態で巻いたら端に寄せ、溶き卵が無くなるまで注いでは巻くを繰り返し、層を何重にも増やしていく。
最後までしっかりと巻き、程良く熱を加えれば黄金色の卵焼きの出来上がりだ。
まな板に乗せて切り分け、綺麗な内側は弁当へ、層が覗く端は薄く切って味見する。
「……甘いな。砂糖を入れ過ぎたか」
甘ったるい、まではいかずとも少々甘みが強い。
塩気のあるおかずを入れるべきだな。
「そうだ。鮭にしよう」
メインが決まった。
朝に魚を焼く光景は絵にはなるが、焼き時間に魚焼きグリルの掃除を考えると出勤前の朝は難しい。
一度やってみたものの、時間的に掃除が間に合わず、帰ってからと後回しにした結果、脂汚れはこびり付いて中々落ちず、部屋中が魚臭くなったことがある。
あの時は掃除も臭い消しも大変だった…。
加えて服にも臭いが染み付いて、仕事中ずっと魚臭さが漂っていた。
そんな前例があり、今回は以前夕飯後にまとめて焼き、弁当用にも冷凍していた焼き鮭を使うことにする。
鮭ともう一品作るべく、冷凍いんげんも冷凍室から取り出す。
冷凍物は冷蔵室に移して、じっくり時間を掛けて解凍するのが一番だが、今決めたものをどうこう言っても仕方ない。
電子レンジに鮭を入れて、解凍ボタンを押した。
いんげんの方は水に浸けて解かし、水気を取ったら砕いたピーナッツを多めに混ぜて、いんげんのピーナッツ和えの完成。
解凍を終えた鮭を電子レンジから出したら、卵焼きと共に粗熱を取り、後は弁当箱に詰めるだけ。
これで弁当作りは一旦終わり。
続いて朝食作りに取り掛かろう。
我が家では昼飯と夕飯の主食は主に米、朝はパン系と決めている。
理由は単純。
米に合うおかず、米を使った料理以外に、パンなどを用いた料理も作りたいからに他ならない。
一昨日はフレンチトースト。
昨日はたまごサンド。
今日の朝食は先に取り出したコッペパンを使ったパニーニだ。
早速材料を揃えようと冷蔵庫を開ける。
冷蔵庫下部の野菜室からトマトとレタスを、上部冷蔵室からハムとチーズを取り出そうとして、手が止まった。
「モッツァレラが、ない…」
モッツァレラチーズもカマンベールチーズも無い。
そういえば前にピザに使い、ワインのつまみにしたりしてから買い足してなかった。
残っているチーズは五枚一組のスライスチーズのみ。
元々、今日の帰りに買い出しに寄る予定だったので、チーズ類を脳内の買い物リストに加え、スライスチーズを手に取った。
コッペパンを上下に切り分け、片方に手で千切ったレタス、ハムに薄く輪切りにしたトマト、スライスチーズの順に重ね、黒胡椒を擂りながら少々振り掛け、もう一方のコッペパンを乗せて挟む。
フライパンにオリーブオイルを垂らし、回し広げたら弾け始めるまで温める。
パチリ、パチリと弾ければ具材を挟んだコッペパンを置き、ヘラで押し潰すようにフライパンに押し付け、焦げ目が付いたら上下を返し、同じくヘラで押し付けて焼く。
両面が焼けて、出来上がったパニーニを皿に乗せ、牛乳をコップ一杯注いで置く。
「いただきます」
がぶりと大口を開けて齧り付く。
カリッカリに焼けた香ばしいコッペパンを噛み砕き、さっぱり甘酸っぱいトマトに瑞々しいレタスの水気が溢れ、薄くも塩気と肉の味を主張するハム、熱で溶けた滑らかでまったりしたチーズ、香り高い黒胡椒。
様々な味が口の中でぶつかり合い、噛み締める度に嘘のように纏まり合う。
チーズの滑らかさが全体を包み込み、油っこさはトマトの酸味が中和。
黒胡椒がそれぞれを引き立て、押し寄せるように広がった味をレタスとトマトの瑞々しさが落ち着かせる。
これは良い出来だ。
レモン汁を掛けても良かったかも知れない。
そんな次回の改良案を思い浮かべながらパニーニを食べ、牛乳を飲み干した。
「ご馳走様でした」
食べ終えて空になった食器類を洗えば、楽しい楽しい料理の時間は終いだ。
お腹も精神的にも満たされた私は、出勤前の準備に入る。
まずエプロンを脱ぎ、トイレを済まして、洗濯機で洗い、寝ている間に脱衣所で干して置いた洗濯物を日当たりの良い部屋に掛け直す。
弁当箱に昨日炊いた冷飯とおかずを詰め、箸と水筒と共にリュックサックに入れたら、ジャケットを着た上に背負う。
外に出たら玄関の施錠を確認。
プランターに水を与えたらヘルメットに被り、自転車で通勤する。
私の仕事先、株式会社キノエトへは自転車で二十分。車でも通勤時の渋滞を加味するとさして変わらない。
午前八時前に出社したら作業着に着替えて始業ベルを待ち、午前午後四時間ずつ仕事に励む。
本当にいつもと変わらぬ一日だったんだ。
そう、昼休みまでは…。
昼休みを告げるベルが工場内に響き渡る。
待ちに待った昼休み。
株式会社キノエトで働く五十名弱の従業員の大半が食堂に集まる。
うちの会社に調理場はない。
食堂には長机と椅子が並び、契約している弁当業者から届いた弁当が纏めて置かれている。
ここでの昼飯は二択。
会社を通じて弁当を注文するか、各々昼飯を持参するか。
私は当然手作り弁当の持ち込みだ。
いつものように人の少ない食堂の隅で、独り弁当箱を広げる。
弁当の割合は米とおかずの一対一。
今日は米の上に鮭が乗っている為、仕切り板がおかずの方に寄ってしまっている。
「いただきます」
さて、今日の出来栄えは如何なものか。
まずは卵焼きを一つ。
柔らかくしっとりとした口当たりで、出来立てとは違って冷めている分、味が落ち着いている。
それでもやはり甘みが強い。
卵焼きで米を食べ、今度は鮭を口にする。
赤々とした鮭の身に真っ白な白米が映える。
少々濃ゆい塩気と鮭の旨味。
米が欲しくならない訳がない。
バクバクと鮭と米が進み、口の中で塩気が増せば甘い卵焼きを放り込む。
ここでおかずの隙間に押し込んだプチトマトで口をさっぱりさせる。
水筒のお茶を一杯飲み、いんげんのピーナッツ和えにも箸を伸ばす。
本当に、ただただ砕いたピーナッツを混ぜただけなのに、何故こんなに美味しいのか。
いんげんの青臭さが消え、コリコリとしたピーナッツの破片と水気を帯びたいんげんの食感が楽しく、甘みすら感じる。
今日の弁当は卵焼きが甘過ぎたことを除けば、良い出来栄えだろう。
「ご馳走様でした」
しっかり感謝を口にして食べ終えた私は、若干の物足りなさを抱く。
これは料理に対する感情ではなく、単に食べ足りないだけの話。
昼飯を腹いっぱい食べた場合、午後の仕事中に睡魔が襲ってくるがゆえ、弁当の量は少なくしてある。
物足りなさをいつものように呑み込み、残り時間を読書で費やそうとした矢先、声が掛かった。
「先輩、ちょっと良いですか?」
視線を上げれば眉をハの字に傾け、申し訳なさそうにする羊山君が立っていた。
―――羊山 悠午。
去年中途採用され、私が面倒を請け負っている後輩だ。
真面目で仕事の覚えは早く、手が掛かることはなかったが、何処か放っておけないところがあり、あれこれ面倒を見ていたら、いつの間にか先輩と呼んで慕ってくれている。
そんな後輩が困り顔で来たのだ。
話を聞かない訳にはいかない。
取り出しかけたスマホを戻し、隣の席を勧める。
話の内容が何であれ、相談事の類なら聞かれたくない話も多いだろう。
仕事関係の悩みと当たりを付け、急かさずに話し出すのをゆるりと待つ。
促されるまま隣に座った彼は、少し間を開けて重い口を開いた。
「実は今日、泊まるところが…なくて」
「ん?」
「前に住んでたアパートが取り壊されることになって、次の住まいを借りるまでの間、友人のところに居候させて貰ったんですけど、長居し過ぎちゃって、明日には出てけって怒られて…」
「それはまた……って、アパートが解体された話、一ヶ月前ぐらいにしてなかった?」
「…二ヶ月前、ですね」
その友達も二ヶ月も泊めることになるとは思ってなかっただろうに。
思っていた話とは違うが切実な問題ではある。
彼と友人との事情は当人同士の問題。
私が立ち入る話ではない。
話をするならば今夜の寝床。
意を決して相談しに来たんだ。
解決案とまではいかずとも、せめて何かしらの糸口ぐらいは探ってやりたい。
「実家は?」
「県外ですね。出社に二時間以上…」
「遠いね。さすがに現実的じゃないな。ホテル――はこの辺にないか」
「ここ、社宅とか有りませんでした?」
「あったけど…」
確か年々利用者が減って、今年の始め頃に契約を解除したとかなんとか聞いた気がする。
利用することがなかったので記憶が曖昧だ。
事務所の誰か、または利用していた何人かに聞いた方が良い。
入社してまだ一年。
誰彼構わず聞くには躊躇われ、話し易い私から社宅の話を聞きたかったらしい。
てっきり話の途中で「今日、泊めてくれませんか?」なんて言われるかと思ったよ。
不意に一つ、考えが過った。
「その友達の家に厄介になってた時。宿泊代とかどうしてたの?」
「勿論渡してましたけど。それがどうしたんですか?」
回答を後回しに少し思考する。
私は彼という人間をある程度知っていて、信用もしている。
二ヶ月も友人に甘えて泊まり続けた一面はあれど、ちゃんと宿泊代を払う律儀さはある。
悩んだ末、今度は私が重い口を開けた。
「羊山君が良ければだけど―――家、来るかい?」




