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AIが変えた世界で、僕らはもう一度働き始める  作者: 北野風人
『余った時間』

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第40話 教える側の席

 東都精機の研修室に、椅子が並んでいた。


 今日の説明会の担当は、村瀬だった。


 参加者は、他の部署から来た作業者たち。


 主題は、記録の残し方。


 止めた理由を、どう書くか。


 分からないものを、どう保留にするか。


 佐藤は、後ろの席に座った。


 資料は持たない。


 今日は、教える側の席が一つ空いていた。


 村瀬が前に立った。


 「最初に、昨日の記録から見ます」


 画面に、保留の一件が出た。


 理由の欄が、短かった。


 参加者の一人が手を挙げた。


 「これ、書いた本人にしか分かりませんよね」


 「はい」


 村瀬は頷いた。


 「だから、次に読む人が分かる形に直します」


 村瀬は条件表を開いた。


 何を確かめたか。


 何が足りなかったか。


 誰に確認すればよいか。


 一つずつ、欄に移していく。


 佐藤は、後ろで手を組んだ。


 途中で、難しい質問が出た。


 「条件表にない場合は、どうするんですか」


 村瀬の手が止まった。


 佐藤の肩が、少し動いた。


 席を立たなかった。


 村瀬は条件表を最初から辿った。


 「表にない場合は、判断しません。保留にして、確認先を書きます」


 「遅くなりませんか」


 「遅くなります。でも、推測で進めるより、記録が残ります」


 参加者は頷いた。


 別の参加者が、自分の記録を出した。


 「私のは、理由が一行しかないんです」


 村瀬はその記録を映した。


 ――異常なしのため、次へ。


 「これだと、次に読む人は、何を確かめたのか分かりません」


 村瀬は、欄を三つに分けた。


 確かめた条件。


 範囲に入っていた値。


 判断を残した理由。


 「異常なし、の前に、この三つが要ります」


 参加者は自分の手元で、記録を書き直した。


 書き直した行は、元の三倍の長さになった。


 村瀬は、書き直した記録を、声に出して読ませた。


 参加者は、自分の書いた行を読み上げた。


 確かめた条件。


 範囲に入っていた値。


 判断を残した理由。


 読み終えると、隣の参加者が言った。


 「それなら、私でも引き継げます」


 「私も、さっきのは分からなかったけど、これは分かります」


 別の声が続いた。


 村瀬は頷いた。


 「読む人が分かるかどうかは、読む人に確かめてもらうのが早いんです」


 「これで、夜勤の人にも渡せます」


 村瀬は次の画面へ進んだ。


 佐藤は、組んだ手を解いた。


 最後に、参加者の一人が尋ねた。


 「来月、うちの部署でも同じ説明をしてもらえますか」


 村瀬は、自分の予定表を開いた。


 佐藤のほうは、見なかった。


 「水曜の午後なら、行けます。資料は今日のものを使います」


 「助かります」


 「条件表にない質問が出たら、その場では答えません。持ち帰って、記録に足します」


 参加者は頷いて、名刺代わりの連絡先を渡した。


 説明会は、予定の時刻に終わった。


 参加者が出ていく。


 村瀬は記録を保存し、佐藤のほうを見た。


 「どうでしたか」


 「最後まで、自分でやったな」


 佐藤は共有の記録を開いた。


 今日の説明会の欄。


 そこへ、一行だけ足した。


 ――条件表にない場合の扱いは、村瀬がその場で説明した。出典は、保留手順の二項。


 「これで、次に読む人が辿れます」


 村瀬はその一行を見た。


 「ありがとうございます」


 「礼を言うところじゃない。記録だ」


 研修室の扉のところで、大野が立っていた。


 途中から、聞いていたようだった。


 「佐藤がいなくても、回ったな」


 大野が言った。


 「席を空ける側の仕事です」


 佐藤は答えた。


 「空けたあとに、何が残るかまで含めて」


 大野は、村瀬の記録の画面を見た。


 「午後、その話をもう少し聞かせてくれ」


 参加者の一人が、扉のところで村瀬に声をかけた。


 「今日の条件表、うちの部署の分も見てもらえますか」


 「見ます。記録を持ってきてください」


 村瀬は即答した。


 「その場で直せるものは直して、無理なものは理由を書きます」


 佐藤は、そのやり取りを聞いていた。


 自分の若いころは、頼まれると、その場で答えを作っていた。


 今の村瀬は、記録の形で答えていた。


 研修室の椅子を、村瀬が元に戻していく。


 佐藤は、手伝わなかった。


 今日は、そういう日だった。


***


 その日の朝、佐藤は工場にいなかった。


 母親の検査の日だった。


 午前の確認作業は、三つに分けてあった。


 設備の立ち上がりを見るもの。


 前日の記録と条件を照合するもの。


 判断の残った項目を確かめるもの。


 先月、工程表の上で組み直した分担だった。


 立ち上がりは保全の中村。


 照合は村瀬。


 残りの確認は、同じ部署の担当者が引き受けた。


 誰か一人の休みに、仕事を預けたのではなかった。


 勤務の中に、最初から入っていた。


 病院の待合で、母親が言った。


 「あんた、仕事は大丈夫なのかい」


 「決めた通りに回ってる」


 「誰かに、無理を言ってないかい」


 「言ってない。先に表を作ったから」


 母親は頷いた。


 母親は、佐藤の端末をちらりと見た。


 「検査の日にまで、仕事の画面かい」


 「結果だけ見るんです。返事は、向こうで決まってます」


 「村瀬さんかい」


 「村瀬と、中村さんと、もう一人。三人で分けてます」


 「あんたが休むと、誰か一人に寄るんじゃなかったんだね」


 「寄せないように、先に分けたんです」


 母親は頷いて、待合の椅子に座り直した。


 検査の結果は、次回に聞くことになった。


 経過は、これまでと変わらないという。


 診察室を出て、母親は検査の案内を折り直していた。


 折り目は、何度も付いた跡だった。


 「長いこと通ってるからね」


 母親は言った。


 「紙もくたびれてきたよ」


 佐藤は、母親の隣に座った。


 会計の順番を待つ間、端末は開かなかった。


 午前中の結果は、もう届いているはずだった。


 でも、見るのは家に帰ってからでいい。


 今日の自分の仕事は、この人の隣にいることだった。


 帰り道、佐藤は端末を開いた。


 午前中の確認は、三つとも終わっていた。


 記録には、担当者それぞれの名前があった。


 自分の名前は、どこにもなかった。


 佐藤はそのまま、端末をしまった。


***


 午後の会議で、製造部から新しい知らせがあった。


 来月から、旧部門の例行の記録照合に、新しい道具が入る。


 集めた記録を読み、条件表と合うものを自動で振り分ける。


 人の確認が要るものだけを、残すという。


 「振り分けの理由は、残るんですか」


 佐藤が尋ねた。


 「残ります」


 説明の担当者が答えた。


 「どの条件に合ったか、合わなかったかは、記録ごとに表示されます」


 「合わなかったものは」


 「人の確認の箱に入ります。中身は、今までと同じです」


 佐藤は頷いた。


 減るのは、合っているものを一つずつ確かめる時間だった。


 大野が試算の表を示した。


 対象になる作業は、一週間で延べ三十八時間。


 そのうち、道具で置き換えられる見込みは、二十六時間。


 会議室が、少しざわついた。


 二十六時間。


 数字になると、大きかった。


 「この数字、どうやって出したんですか」


 製造部の担当者が尋ねた。


 「直近四週間の記録からです」


 大野が答えた。


 「照合にかかった時間を、作業ごとに足しました。個人の速さではなく、作業の量で数えています」


 「見込みです」


 大野は続けた。


 「実際に減るかどうかは、入れてから確かめます」


 佐藤は表を見た。


 村瀬も、森田も、この照合の仕事をしてきた。


 自分も、してきた。


 「確認です」


 佐藤は手を挙げた。


 「その二十六時間は、入れたあと、誰の時間になるんですか」


 大野は答えを急がなかった。


 「それを、入れたあとの初週の数字を見て決める」


 「佐藤、初週の集計を頼む」


 大野が言った。


 「作業ごとに、実際に空いた時間を出すんだ」


 「個人別にはしません」


 「ああ。速さを比べる表にはするな」


 会議の予定表に、新しい件名が入った。


 余った時間の扱い。


 佐藤はその文字を、しばらく見ていた。

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