第17話 一人で引き受けない
「林さんが休む日は、翌営業日の回答にする。それでは足りないか」
陳凱の声を聞きながら、林遠は契約書の一行を選択した。
担当者の変更には、事前承認を要する。
午前九時十二分。回答期限まで、三時間を切っていた。
「僕が三日休めば、三日止まります」
「会社の窓口は開けておく」
「受けた問い合わせを、誰が見ますか」
画面の向こうで、陳凱が手元の資料に目を落とした。
「もう一人分の費用は入っていない。先方が指名しているのは君だ」
「はい」
「代わりを置くなら、引き継ぎにも時間がかかる」
林遠は金額の欄を見た。
退職後の収入が、ここにある。
住宅の支払いも、一舟の学校にかかる費用も、これでしばらくはつなげる。昨夜、葉寧と確かめたばかりだった。
署名するだけで、その不安は小さくなる。
ただ、問い合わせを開くたび、自分の名前しか見つからない日々も想像できた。
「十時半に、修正案を出してもいいですか」
「費用は増やせないぞ」
「その条件で考えます」
陳凱は一度うなずいた。
「待ってる」
通話を終えると、小趙から通知が届いた。
東都精機から、引き継ぎ資料への質問が来ている。
新しい測定記録にも、既存の「確認済み」の表示を付けてよいか。
添付された二件は、機械も部品番号も荷重も同じだった。
治具の番号だけ、末尾が違う。
林遠は資料を開き、自分の判断を短く書いて保存した。それから小趙に連絡した。
「十五分、取れる?」
「はい。東都の件ですか」
「先に見てほしい。根拠も付けて」
「林さんは?」
「僕も答えを書いた。あとで比べよう」
小趙はすぐに資料へ目を移した。
河図に検索範囲を指定し、出てきた引用元を開く。記録番号と適用条件を、一つずつ照合していた。
林遠は口を挟まず、冷めた茶を飲んだ。
八分後、小趙が顔を上げた。
「このままでは付けられません」
画面に、該当する条件が示された。
「確認済み」は機械全体への評価ではない。使った治具や姿勢、記録、評価版の組み合わせに付いている。
「ただ、治具の現物が変わったのか、登録番号だけ変わったのかは、この資料では分かりません」
小趙は回答文を表示した。
「村瀬さんに現物の識別番号を確認してもらいます。それまでは、二件目の表示を引き継がない」
林遠は自分のメモを開いた。
結論は同じだった。
自分の方には、現物を誰に確認するかまでは書いていなかった。
「いい。そのまま送って」
「確認、要りませんか」
「今した。僕の答えより、一つ先まで書いてある」
小趙の口元が緩んだ。
送信を済ませると、彼は別の予定を開いた。
「午後、新しい配属先の説明があるんです。こっちの整理は、午前中に進めておきます」
「分かった。向こうの準備もあるだろうから、残りを分けよう」
通話を切り、林遠は修正案に戻った。
代替担当の候補欄に、小趙の名前を打ちかけていた。
事情を知っている。手が速い。分からないところでは止まれる。
その名前を選び、消した。
来月からの彼の時間まで、ここで押さえるわけにはいかなかった。
十時半。
陳凱は送られてきた費用表を開いた。
「新しい治具への対応を外すのか」
「はい。初期契約は、今回整理した評価手順と記録への照会に絞ります。条件が変わる分析は、別に見積もる」
「その分を引き継ぎに回す、と」
「通常の問い合わせを見られる人を、一人置いてください。窓口で受けても、結局全部僕に転送されるなら、休みは決められません」
陳凱は表を下へ送った。
代替担当には、過去の一件を資料から追い直してもらう。その後も、更新された資料を確認する時間を取る。
「説明会を一回やって終わり、ではないんだな」
「今日、小趙に一件見てもらいました。結論は合っていました。現場への確認先まで出せています」
「小趙を残すのか」
「いえ。彼は異動します」
陳凱が顔を上げた。
「本人には、まだ何も頼んでいません。別の人を、業務として付けてほしいんです」
しばらく、陳凱は画面を見ていた。
「この配分なら、君の委託額が下がる」
「確認しました」
「最初の提示額には戻せない」
林遠は手元の家計表を見た。
減る額は小さくなかった。次の仕事を探す必要もある。
ただ、対応する日が決まれば、面談を入れられる。別の仕事を引き受ける余地もできる。
葉寧と約束した時間を、あとから取り消さずに済む。
「この範囲なら、引き受けられます」
陳凱は息を吐き、費用表を自分の画面へ移した。
「先方と、技術チームに確認する」
通話が切れた。
林遠は資料の整理に戻ったが、同じ行を二度読んだ。
十一時。
十一時二十分。
台所で湯を沸かしていると、元の条件で引き受ける文章が頭に浮かんだ。
まず収入を確保する。次の更新で、もう一度相談する。
湯が沸いた。
カップに注ぎ終えたところで、端末が鳴った。
「先方は了承した」
陳凱だった。
林遠はカップを置いた。
「新しい条件の分析は別見積もり。既存資料への照会は、会社の担当者でも回答できる」
「人は確保できましたか」
「検証チームから一人。上司と工数の調整まで済ませた。権限の確認が終われば、午後に顔合わせできる」
「資料を読む時間も?」
「取った。君の説明を聞くだけじゃなく、自分で一件追うところまで」
届いた契約書を開く。
対応日。対象範囲。不在時の窓口。
担当者の変更に関する条項も、会社が承認済みの代替担当を置ける形に変わっていた。
金額は、話したとおり下がっている。
林遠は添付の対応表まで読んだ。
自分が休む日に、別の欄が埋まっていた。
「確認して返します」
「問題があれば、先に電話してくれ。先方には、こちらの確認が終わってから返すと伝えてある」
陳凱の声に、少し疲れが混じっていた。
「ありがとうございます」
「引き継ぎ、頼むぞ」
「はい」
十一時四十六分。
林遠は署名し、送信した。
椅子に深く座り直す。
肩を回すと、思った以上に固くなっていた。
午後の顔合わせでは、新しい担当者から質問が続いた。
なぜ、この記録を採用したのか。
どこから先が、現場でなければ確認できないのか。
同じ単位の数値を、何で見分けるのか。
林遠が説明すると、相手はメモを取りながら尋ねた。
「その根拠は、どこから開けますか」
林遠は共有フォルダをたどった。
自分の頭の中ではつながっている資料が、別々の場所に置かれていた。
片方の資料に、もう一方へのリンクを足す。
小趙が横から言った。
「そこ、僕も最初に迷いました」
「聞いてくれればよかったのに」
「聞きましたよ。林さん、すぐ答えてくれました」
林遠の手が止まった。
小趙は責める様子もなく、前のやり取りを表示した。
確かに、答えだけ返していた。
林遠は説明文を消し、参照先から結論までを短く書き直した。
「今度は、これで追える?」
新しい担当者が自分の画面でリンクを開いた。
「はい。次は、こちらでやってみます」
林遠は操作を渡した。
相手が資料を行き来する間、口を挟まずに待った。
夕方、葉寧から来週の予定が届いた。
学習会の日、一舟の迎えに行けるかという。
林遠は対応表を開く。
その日は自分の担当日ではない。窓口と代替担当の枠も確認した。
『行ける。帰りに買い物もしてくる』
すぐに返事が来た。
『じゃあ申し込むね』
続いて、一舟から届いた。
『カレー?』
林遠は笑った。
『野菜を切る係、頼む』
『玉ねぎ以外』
『それは帰ってから相談』
予定表に、迎えの時間を入れた。
今日決まった仕事の横に、もう一つ予定が並んだ。
終業まで、あと十分。
共同作業の端末に、東都精機から連絡が入った。
佐藤だった。
次回の確認運転について、体制を変えたいという。
実施するのは、すでに認められている条件の範囲内。
村瀬が手順と記録を担当し、佐藤と中村が現場を受け持つ。技術照会が必要になれば、会社の窓口から代替担当につなぐ。
その下に、一文あった。
『次は、林さんが通話に入らない形で実施したいと思います』
林遠は続きを読んだ。
『判断できない場合は止めます。その場合も含めて、引き継いだ手順で対応できるか確認したいです』
最初に三号機の音を聞いた日のことが浮かんだ。
画面の向こうで、佐藤が機械を止めた。
それから何度も声をつなぎ、同じ記録を見てきた。
次は、その通話に自分がいない。
返信欄に置いた指が、少し止まった。
『分かりました。交接資料の最終確認を、明日までに終えます』
送信してから、当日の予定を開いた。
仮で入れていた「東都・確認運転」の枠がある。
林遠は、自分の参加を外した。
代わりに待機時間を入れかけて、手を止めた。
その枠は、空けたままにした。
お読みいただき、ありがとうございます。
少しでも続きが気になりましたら、ブックマークや評価で応援いただけると励みになります。




