第1話 止めたのは、人間だった
「止めてください」
佐藤健一がそう言ったとき、制御室にいた三人は、誰もすぐには動かなかった。
壁一面のモニターには、緑色の表示が並んでいる。
異常なし。
温度、電流、振動、位置決め精度。どれも規定値の範囲内だった。
「佐藤さん?」
若い制御担当の村瀬が振り向いた。
「何か出ましたか」
「三号機を止めてくれ」
「でも、警告は一件も——」
「分かってる。だから、もう一度見たい」
村瀬は一瞬ためらったあと、操作卓に手を伸ばした。
停止指令が送られ、ガラスの向こうで動いていた産業用ロボットが、決められた減速動作に入る。
六軸のアームがゆっくりと姿勢を戻した。
搬送コンベヤーも止まる。
制御室に、それまで気にならなかった空調の音が戻ってきた。
「……何が気になったんですか」
村瀬が聞いた。
「音だ」
「音?」
「三号機が部品を置いた直後。手首を返すところで、一度だけ鳴った」
村瀬は窓の向こうを見た。
「聞こえませんでした」
「小さい音だったからな」
「振動センサーには何も出てませんよ」
「それも見た」
佐藤は画面を指した。
「でも、ここ。手首軸の補正量が、ほかのサイクルより少し大きい」
村瀬がログを拡大する。
「〇・〇六度……許容範囲です」
「ああ」
「AIの予測値とも一致しています」
「それも分かってる」
佐藤は椅子を引いた。
「現物を見よう」
村瀬は時計を見た。
午前九時四十二分。
今日の試運転は、午後一時までに所定の連続稼働時間を達成する予定だった。
それが終われば、来週から新しい制御方式への切り替えが始まる。
ここで止めると、予定がずれる。
村瀬が何も言わなかったのは、反対する理由がないからではない。
反対したところで、佐藤が行くと分かっていたからだ。
*
東都精機の第三工場は、古い建屋の中に新しい設備を押し込んだような場所だった。
床には昔のラインの固定穴が残り、その上を最新型の搬送ロボットが走っている。
人の数は、五年前の半分以下になった。
以前なら十人以上が並んでいた工程に、今は作業監視員が二人いるだけだ。
佐藤は安全柵の外から三号機を見上げた。
白いアーム。
黒い関節部。
新品に近い外装。
だが、先端に取り付けられた把持装置は、前のラインから流用したものだった。
「この治具、いつ交換した?」
佐藤が聞くと、村瀬は端末を操作した。
「本体の更新時です。把持装置は継続使用ですね。朝の保全確認でも、外観と固定部に異常はありません」
「軸受けは?」
「前月に点検済みです」
「そうか」
佐藤は操作卓を見た。
「村瀬。さっきの動作、低速で一回だけ再現できるか」
「できます。ただ、今のAI制御は——」
「自動補正を切ったら、どうなる?」
「通常の教示軌道に戻ります」
「じゃあ、まずそれで」
村瀬は少し考えてから、うなずいた。
安全確認を済ませ、立ち入り区域から全員が出る。
低速試験が始まった。
アームが部品を持ち上げる。
右へ移動する。
治具の上に置く。
手首を返す。
何も起こらない。
「正常ですね」
村瀬が言った。
「もう一度」
二回目も正常だった。
三回目も。
佐藤は腕を組んだ。
村瀬が遠慮がちに口を開く。
「AI制御に戻してもいいですか」
「ああ。ただし低速のままで」
切り替えを確認し、試験を再開した。
一回目。
異常なし。
二回目。
異常なし。
三回目。
部品を置いたアームが、手首を返す。
その瞬間だった。
カッ。
金属同士が軽く触れたような、乾いた音。
佐藤は顔を上げた。
「今のだ」
村瀬も聞こえたらしい。
「……鳴りましたね」
「ログは?」
「少し待ってください」
画面を確認した村瀬が眉を寄せた。
「やっぱり警告は出てません」
「補正量は」
「さっきと同じです。〇・〇六度」
「その前の動作は?」
「搬送位置を少し修正しています。部品の置き方にばらつきがあるので、AIが最適化して——」
「その修正のあとだけ、鳴るのかもしれないな」
村瀬は黙った。
佐藤はもう一度アームを見た。
最新の制御システムが、古い治具を動かしている。
それ自体は珍しくない。
工場の設備は、一度に全部を新しくできるものではないからだ。
新しい機械と古い機械。
新しいソフトと古い記録。
その組み合わせで、現場は動いている。
「村瀬」
「はい」
「この補正、過去の試験データを使ってるよな」
「はい。旧制御器の運転履歴も学習用に取り込んでいます」
「旧制御器のとき、同じ補正をしていたか?」
「そこまでは……」
「調べよう」
村瀬は少し困った顔をした。
「でも、旧制御器のログって、形式が違いますよ」
「知ってる」
「全部変換されてるはずです」
「変換されてるのと、同じ意味で使われてるのは別だ」
村瀬が顔を上げた。
佐藤は三号機を見たまま続けた。
「機械は、数字が同じなら同じ条件だと思って動くことがある」
「人間もそうじゃないですか」
「そうだな」
佐藤は小さく笑った。
「だから、両方とも間違える」
*
午前十一時を過ぎたころ、製造部長の大野が現場に来た。
「佐藤さん、何をやってるんですか」
挨拶より先に、その言葉が出た。
「三号機の確認です」
「それは聞きました。問題が出たんですか」
「異常音を確認しました。特定の動作条件で再現しています」
「故障ですか」
「まだ分かりません」
大野は眉をひそめた。
「まだ分からない?」
「現時点では、停止が必要な故障かどうかも判断できません。ただ、確認せずに連続運転へ戻すのは避けたい」
「佐藤さん。少し話せますか」
連れていかれたのは、現場脇の小さな会議室だった。
窓のない部屋に、古い机と四脚の椅子。
壁には、今年度の生産目標が貼られていた。
大野は椅子に座らず、端末を机に置いた。
「今日の試験が遅れると、来週の切り替えにも影響します」
「承知しています」
「取引先にも説明が必要です」
「はい」
「それだけの理由があるんでしょうね」
佐藤はすぐには答えなかった。
理由はある。
ただし、証拠はまだ足りない。
それを隠して大きな事故が起きると言えば、停止は認められるかもしれない。
だが、そんなことをしても意味がない。
「現段階で危険だと断定することはできません」
佐藤は言った。
「ただ、制御モデルが想定していない負荷条件がある可能性があります」
「可能性ですか」
「はい」
「それでラインを止めるんですか」
「確認が終わるまでは」
大野はため息をついた。
「佐藤さん。あなたの慎重さには、これまで何度も助けられました」
嫌な前置きだった。
「でも、これからは違うんです」
大野は端末を佐藤の方へ向けた。
新しい工程管理システムの画面だった。
設備の稼働状況。
品質予測。
保全計画。
そのほとんどがAIによって更新されている。
「人が一つずつ確認するやり方では、もう競争に勝てません」
「人が全部確認する必要はありません」
「だったら、AIの判定を信じてください」
「信じるために、検証してるんです」
大野は口を閉じた。
しばらく、空調の音だけが聞こえた。
「……今日中に報告書を出してください」
「分かりました」
「それと」
大野は端末を伏せた。
「来月からの組織変更、聞いていますか」
「いえ」
「設備検証部門を統合します。AIによる自動検証が進んだので、人員配置を見直すことになりました」
佐藤は大野を見た。
「何人ですか」
「まだ最終決定ではありません」
「何人減るんですか」
大野は答えなかった。
その沈黙で、佐藤はだいたい理解した。
「あなたの経験は高く評価しています」
大野はそう言った。
佐藤は、その言葉に返事をしなかった。
*
昼休み。
佐藤は食堂へ行かず、制御室に戻った。
村瀬が一人でログを整理していた。
「休憩は?」
「あとで取ります」
「飯くらい食べろ」
「佐藤さんもですよ」
言い返されて、佐藤は苦笑した。
村瀬は画面を回した。
「さっきの条件、少し調べました」
グラフが三つ並んでいた。
通常の教示軌道。
AI補正後の軌道。
手首軸の電流変化。
「音が鳴ったときだけ、手首軸の電流が少し上がってます」
「どのくらいだ」
「二・八パーセントです。これも規定値以内です」
「ほかの条件では?」
「上がりません」
佐藤は画面を拡大した。
波形の立ち上がりが、わずかに鋭い。
それだけなら、問題にするほどではない。
ただ、特定の動作と重なっている。
「同じ姿勢を何度も繰り返すと、どうなる?」
「まだ試してません」
「試す前に、負荷の上限を確認しよう」
「はい」
村瀬は別の資料を開いた。
旧制御器の運転履歴一覧。
更新日。
変換処理の番号。
データ提供元。
そこに、見慣れない会社名があった。
瀾華のソフトウェア企業だった。
「海の向こうの会社か」
佐藤がつぶやく。
「旧システムの一部を開発していたみたいです」
「今も保守してるのか?」
「分かりません。契約はもう終了しています」
佐藤は一覧をスクロールした。
古い担当者名が、いくつも並んでいる。
ほとんどは部署名だけだった。
その中に、一件だけ個人名が残っていた。
林遠。
佐藤には読み方が分からなかった。
「この人、何を担当していたんだ」
「データ変換の仕様確認、ですね」
村瀬が答えた。
「連絡先は?」
「昔の会社のアドレスなら残っています。でも、今も使えるかどうか」
「まずは正式な窓口から確認しよう」
佐藤は名前を控えた。
それから、もう一度グラフを見た。
調べる順番は見えてきた。
*
午後四時半。
佐藤が報告書を提出すると、部門長から短い返信が届いた。
『試運転の再開可否については、明朝の会議で判断します』
その下に、もう一通の通知があった。
件名は『次期組織体制に関する個別面談のお知らせ』。
添付資料を開く。
設備検証部門。
現行十二名。
次期予定六名。
佐藤は、しばらく数字を見つめた。
半分になる。
窓の外では、三号機が止まったままだった。
佐藤は添付資料を閉じた。
机の端に置いたメモには、海の向こうの技術者の名前が残っていた。
林遠。
まだ会ったこともない人間だった。
佐藤はその名前の横に、小さく丸をつけた。
明日、確認することが一つ増えた。
その名前をもう一度見てから、佐藤はメモを伏せた。
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