第十一話
どうなることかと思われた婚約の話は、意外にも保留が認められた。父が王弟殿下から直々に、そう言われたらしい。「さすがに急だから」とのことだった。けれどそれは「断ってもいい」というものでもない。「お互いの相性をみてから決めていい」なんて耳触りのよい言葉もいただいたようだけれど、それはつまりただの猶予期間だ。準備をしろ、と言われているようなものである。
父にも「断るのはほぼ不可能だと思っていてくれ」と言われてしまったが、私だってもうそのくらい分かっていた。それでもすぐに「はい、分かりました」と言えないのは「友人」という言葉が引っかかっているからだろう。
当時の私たちは幼く、そして友人だった。でも、私はあの頃のブライアンに恋していた。だからきっと、あのままブライアンが留学せずにいたのなら、私たちは友人ではいられなかっただろう。ブライアンが昔に見た「友人」の面影を、今の私に見つけることができないことも考えられる。そうすると、やはりあちらから撤回してくることも可能性としては高かった。
あの日、ブライアンは私に複数の感情を向けている、と言っていた。ドリスにも何だかそんなことを指摘され「お姉様って鈍い……」と渋い顔をされたが、結局それが本当だったとしても過去の話だ。……さすがに、短期間で二度も婚約を駄目にしたくはない。だから保留が許される内は、そうしていたいのだ。ずるいことをしている自認も、意味のないことをしている自覚もあるが、だからといって簡単に頷くこともできなかった。
けれどブライアンはそんな私を詰めることなく、しかし何食わぬ顔で顔合わせとやらに誘ってきた。一度目は王宮の庭園でお茶会、二度目は視察同行という名目でピクニック、そして三度目の今日は飛竜のお世話体験である。……顔合わせとは何ぞや、とは、誰も聞けなかった。
いやしかし、飛竜が可愛い。誰だ、獰猛なんて図鑑に書いたのは。まあ、この子は生まれた時からブライアンが世話をして育てていたらしいから、野生とはまったく違うのだろうけれど。近寄ると「撫でろ」と頭を下げて来るし、おやつを食べる時は牙が当たらないように器用に舌で舐めとるし、おめめがくりんくりんだし。ああ、本当に可愛い。
「それで、私との婚約の件はどうなっているのだろうか」
撫ですぎて眠ってしまった飛竜を眺めていると、隣からそんな言葉を投げかけられた。当然だが、ブライアンである。彼は詰ってくることはないが、会うと必ず進捗を聞いてくるのだ。進捗とはつまり、私の心の準備のことである。
「今それを聞くのは、ちょっと卑怯ではないでしょうか」
「……」
「……」
「ふはっ、言うようになったな」
「多少の無礼には目を瞑ってくださるということでしたので」
にこりと微笑めば、ブライアンもそれに返してくれる。再会してまだ数回だというのに、空気はもう昔のそれに近い。それが嬉しくて、けれどこれでいいのかと不安にもなる。
「私と婚約してくれるなら、いつでも飛竜に会いにきてくれていいんだが」
「それも、卑怯ですわ」
「ふ」
「ふふっ」
子どもっぽい言い回しに笑いが込み上げる。ここは王宮ではあるが片隅の飛竜の小屋なので、作法だって気にしなくてよかった。少しだけ昔に帰れた気分だった。あのままでいられたら、どれだけよかっただろうと苦笑する。
「一応、王族からの打診だ。断る要素は少ないと思うんだが」
「断れる要素、ですわね」
「否定はしない」
「……わたくしには、婚約者との縁があんなふうに拗れた実績がございます。縁起が悪いではありませんか」
「まあ、そうでなければ正式に求婚できなかったから私としては助かったんだが」
「……」
「はは、そんな顔をしないでくれ」
「……殿下は、楽しそうですわね」
「楽しいな。君と普通に話せているから」
からりと笑うブライアンは、それこそ昔のままだった。背丈は伸びて、丸みのあった頬は別人のようにすっとしているのに、その瞳だけが変わっていないのだ。
「留学も楽しかったよ。あちらはこちらよりも大国だから、いろいろなことが進んでいてそれを学べて、留学生も多くて異文化交流も盛んだった。でも、郷愁はあった。それに君がいなかった」
差し出された手を取ると、そのまま小屋の外に連れて行かれた。あのままでは飛竜を起こしてしまうだろうから仕方がない。飛竜の為に整えられた小屋の周辺は下手な馬場よりも広くて、けれど大きな木がいくつも植わっていた。そこを、そのまま歩く。手は取られたままだったが、まあ、エスコートだと思えばそこまで騒ぎ立てることでもないだろう。頬が熱いのは、きっと日差しのせいだ。
「殿下は、わたくしのことを友人と仰ったではありませんか」
「そうだな。現状の我々を指すのだとしたら、友人以外にはないだろう。少なくとも婚約者ではない」
「……婚約を打診されている以上、我々の関係を友人とするのは無理があるかと」
「そうだろうか。では、我々の関係性をどう表せばいい?」
「臣下と主君のご親族、ではないかと」
「……こんなにも気安くしておいて?」
「そ、それは……」
「はは、冗談だ。私が強要していることだからね」
強要をされた覚えはないが、どう返すのが正しいのか分からず黙り込む。あまり褒められない行いだ。けれど、ブライアンは気にしないらしい。
「まあだから、適当な言葉がないんだ。どれも当てはまらない。関係性なんて変わるものだし、とりあえず今は友人でいいんじゃないだろうか」
「……そういうものですか」
「ああ、もし婚約をしてゆくゆくは結婚をしたとしても、我々が友人であった時間がなくなる訳でもない。……と、私は思う」
そういった考え方は初めて聞いた。男女の友情はあるかないかの二択だと思い込んでいたが、少し知見が広がったような気分だ。けれどだからこそ、私はこの胸のつかえを無視できない。
「……わたくしの初恋は、殿下でした」
「詳しく聞こう」
「う、それはまあ、いずれ」
ゆっくり息を吸って顔を上げる。見上げたところにいたその人は、昔とはやはり違う人のようだった。でも、確かに面影がある。
「ですが殿下は、わたくしのことを友人だと、はっきり仰いました。ですから子どもながらに、わたくしは殿下のそういった対象にはならないのだと」
「……いつの話か分からないが、多分、当時も今と同じような考え方だったのだと思う。今は友人でも、関係性は変わるんだと思っていた。そもそも、僕の初恋も君だった」
「え」
「君が『竜騎士が格好いい』と言うから無理を言って留学をしたのに、とうの本人がさっさと婚約してしまうなんて思ってもなかった。……当時の私は、あまりに子どもだった。何も理解していなかった。だから君の手紙に『婚約者に悪いので、文通をやめたい』と書かれていた時も荒れた」
王弟子息がどうしても結婚したいのだと主張し、それを父である王弟が認めれば大体の貴族の家はその娘を差し出すだろう。我が家も例外ではなかった筈だ。私は跡取り娘ではあったけれど、すぐ下に健康な妹がいた。家はどちらが継いでもよかったのだ。だから、ブライアンが留学前に手筈を整えていれば、私たちは婚約をしていただろう。けれど、あの時の私たちは確かに子どもだった。ブライアンはそこまで頭が回らなかったのだろうし、私は彼の気持ちを確認しようともしなかった。すれ違っていた、と言えばそうなのだと思う。では、この結婚を受けるのに何の問題もない、のだろうか。
……いや待て、そんなに簡単なことではない。私は貴族の娘で、ブライアンは王弟の息子で、やはり彼にはもっと相応しい相手がいる筈だ。我がアルマトゥーラ伯爵家だって中堅どころではあるけれど、不安定な王弟子息の足場固めには弱い。婚約を破棄したばかりだし、それに。ああけれどダコタとの兼ね合いやジュリアンの地位を脅かさないという意味では別に悪くは、いやでも、それなら……。
「はは、考え込んでしまう癖は相変わらずみたいだな」
「ぁ、も、申し訳ございません」
「いいんだ。……だが、そうだな。話を戻すと、私には男女問わず友人がいる。グロリア帝国では優秀であれば女性でも竜騎士の称号を得られたから、どちらかと言えば修行仲間といった感じの人たちだが……。けれど、関係を変えたいと思ったのは君だけだ」
「……」
「君でなければならない理由なんて、いくらでもある。足りないなら作る。だから、頼むから、私を選んでほしい」
この人は、誰なのだろう。あの頃のブライアンは、こんなことは言わなかった。でも、ああ、胸が苦しい。
「……本当に、わたくしの為に留学をして、竜騎士になられたのですか?」
「ああ」
「わたくしは、変わりました。昔のように純粋無垢な少女ではありませんし、打算も多くいたします」
「普通だろう。私だってそうだ。大人になるとはそういうことだし、それができなければ貴族社会で生きていけない」
「それに、再会してまだ一月もたっておりません」
「会ったその日に結婚する人もいる」
……無茶苦茶だ。すごく無茶苦茶なことを言われている。もう、笑ってしまうくらいに。
「……それに君、私のことが好きだろう」
「……な」
「顔を見れば分かる。それなのに駄目なんておかしい」
手に、力がこもる。押しの強さは、子どもの頃と変わらないようだ。
「……わたくしが頷いてしまったら、後戻りはできないんですよ」
「する必要がない」
「やっぱり、別の方がよかったとなっても」
「ならない」
「今のわたくしのことなんて、そんなにご存じないのに?」
「ああ、だから、これからも沢山話してほしい。私のことも聞いてほしい」
私はゆっくり息を吸って、それからまた顔を上げた。ダコタとのお茶会が台無しになった日には、もう私の人生のほとんどは終わったと思っていたのに、まだまだこれから始まってしまうらしい。
「……はい」
「っ、ペトラ!」
「ぇ、きゃあっ!?」
この返事のあとの私たちは、穏やかに幸せに暮らしました、とはさすがにならなかった。いろいろなことがあった。心配していた通り、ブライアンを担ぎ上げようとする勢力が接触してきたり、コリーが労役から抜け出してきてひと悶着あったり、ダコタとジュリアンの夫婦喧嘩に巻き込まれたりと本当にいろいろあった。
けれど、私はあの返事を後悔したことなんて一度もない。だってブライアンが、いつだって隣で機嫌よさそうにしてくれていたから。彼は本当に、私のことが好きだったらしい。だからまあ、穏やかではなかったかもしれないけれど、私は、幸せな人生を送ったのだ。
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