第1話 プロローグ
※この作品は以前投稿した短編小説を加筆修正を加えたものです。すでに最終話までの執筆は完了しておりますので、毎日2~3話程度の頻度で更新します。
父さんは、夜明け前に帰っていった。
北国の朝は、遅い。
東京よりもほんの少しだけ遠い太陽は、まだ地平線の下で惰眠を貪っている。
空気が澄んでいて町には灯りが乏しく、だから、駅のプラットホームの外れに立てば、空にはしんしんと星が瞬いている。
星明りに感じ入るほど、センチメンタルには生まれてこなかった。
星座に想いを馳せるほど、ロマンチックにも育たなかった。
だから、満天の星空には何もないこの町に、やっぱり何もないという事を思い知らされるばかりだ。
そんな事は五年前から解っていた筈なのに、僕――支倉優斗はここに戻ってきてしまった。
三日前、付き合いのなかった親族の葬式のため、一族の棟梁である父さんと、はるばる北海道は上富良野町までやってきて、そして今、僕は一人だった。
五年前、妹と姪を置き去りにした父さんに、僕はこの町へ置いていかれた。……そんなつまらない事を、たった一人のプラットホームで考えた。
一旗上げに飛び出した東京で成功を収めた父さん。
忙しい人だから、午後にはもう会議が入っているのだという。
妹の恭子さんと親しげな抱擁を交わし、姪の遥香の頭を撫で慌しく出ていった。
僕はといえば、これから一ヵ月分の遊興費の代償に、荷物持ちとして上富良野駅まで連いてきて、そして帰京する父さんを見送ったところ。
暖かい東京に背を向けてこの駅に残ったのには訳がある。
『せっかくだからゆっくりしていきなさいよ』
昨日の夜、恭子さんが急にそんなことを言い出した。
父さんと、その妹さんであるところの恭子さんはとても仲がいい。
だから、父さんは恭子さんの我儘ならたいてい聞き届けてきた。
でも、今回は、そうではなかった。
父さんは親しみと情愛を込め、心の底から残念そうに、しかし恭子さんの懇願を拒絶した。
『えー、もう帰っちゃうの? あ、そうだ、伯父さんはいらないからお兄ちゃんだけ残ればいいんだよ!』
と、恭子さんの娘――僕の従妹が、姪っ子を溺愛する伯父に対し大変ひどい提案をして。
恨みがましい目をした父さんが、その提案を受け入れて、滞在中の遊興費と引き換えに僕に荷物持ちを命じたというわけだ。
…………寒い。
今年は暖冬で今日も四月並の陽気というが、それは上富良野基準での話だ。南関東だったら二月初頭並。
すっかり東京人になってしまった僕には十分応える寒さだった。
そもそもこんなに早く起きたって僕にやる事はない。
父さんを見送った駅に突っ立ってぼーっとしていると、恭子さんが4組3万円で買った高級羽毛布団の温もりもあっという間に失せていく。
「帰り道、こっちだったっけ……」
僕は、三月の北海道の肌を刺すような空気に一つ身震いをした。首をすぼめ、とぼとぼと五年前まで暮らしていた支倉家に戻る。
これからほんの少し、またここが僕の家になる。
◇
「あ、お兄ちゃんだ! お兄ちゃんが戻ってきた!」
「遙香、見たまんまを口にしないの」
僕を見つけるなり、ぴょんぴょんと小躍りしているのは支倉遙香。栗毛のツインテールに恭子さん譲りの整った顔立ちの高校一年生。
僕、支倉優斗の父親の妹の娘で、つまり従妹に当たる。ちなみに僕はこの春から都内の大学に通う予定の高校三年生。
その隣で少し呆れたような顔をしているのが、支倉恭子さん。僕の父さんの妹。
つまり僕の叔母さんなのだけれど、そう呼んでも返事をしてくれないのだ。
実際、三十路がらみの凄艶な年増、という印象はあまりなく、就職してからもう長いはずなのに、大学の四回生くらいにしか見えない。
しかしこれでも遙香の実母で、そうは見えないとか言おうものなら、子供を産むとはどれくらい大変なことなのか延々と語り出すのでそんな話題を振ってはいけない。
ちなみに雅弘さん――婿養子である恭子さんの旦那さんは外資系企業に勤めていて、常に海外を飛び回っていている。もう十年は顔も見てない。
そして、そんな苦労の末に産み落とされた遙香は危なげもなく丸々とよく育ち、特にその胸元は北海道名産夕張マスクメロンのごとく、たわわに実っているのだった。
まだまだ育ち盛りだというのに胸だけは母親を既に遥かに追い越してる。
「今ごはんだよ! 帰ってくるのぴったりだったね!」
「みたいだね」
遙香は屈託なく、五年前から何も変わっていないかのような笑顔をくれる。
「はい、豆腐多めに入れといたよ!」
味噌汁を差し出してくる。
どたばたと短い手足を不器用にぶん回す仕草につれて、大きな胸がぽよんぽよんと跳ねる。
眼福眼福、とか思っていると。
「やーらしー」
恭子さんが茶化すように横から僕を肘で小突いてくる。
「そ、そんな事ないですよ? あ、遙香ありがとー、豆腐いっぱいで嬉しいなあ」
席について、味噌汁を受け取る。
「うん! 私がたんせーこめて作ったんだよ」
遙香は相も変わらず満面の笑顔。遙香の大好物は大豆であり、遙香の趣味の一つは家庭菜園だった。その家庭菜園で遙香が丹精込めて育てた大豆が、この家では毎朝自家製豆腐味噌汁の実になる。ありがたいありがたい。と僕がそれに手をつけようとした時――
「あのね、遙香」
恭子さんがよからぬ事を考えているときの顔だ。
「なに、 おかあさん」
「すごく言いにくい事なんだけどね」
無闇に深刻ぶった声音で。
「優斗君、 さっきからずーっと遙香の胸ばっか見てるよ」
「――ッ!?」
恭子さんが、とんでもない事を言い出した。
「え? なにかついてる?」
「……あー、うん、 デカイのがね」
あまりの事態に僕の脳味噌は簡単にオーバーヒート。
それで、僕の口は言わなくていいシモネタをあっさりと口走る。
「えー!? とってよとってよ」
ぷるるんとかぽよよんとかそんな可愛い感じではなく、グワングワンと揺らながら胸を突き出してくる。
流石に目に毒だ。
僕は、 照れ臭さのあまり視線を逸らした。
「ちゃんとこっちみてよー」
遙香が胸を見せ付けてくる。
流石に温厚な僕もこんな仕打ちをされては平静でいられない。
「うん、とったよ」
むに、と遙香の爆乳を鷲掴む。
「わわわっ!?」
「……ごめん、よく見たらおっぱいだった」
自分でもそれはないだろうと思う言い訳。
いくら遙香がバ……ちょっと知的にチャレンジされた女の子であっても、これは怒るだろう、と思った。
「…………」
さっきまであんなに騒がしかった遙香が、僕の目を不可解そうな表情で見つめながら黙り込んでいる。
可愛い従妹にひどいセクハラを仕掛けてしまった。
僕は遙香にどんな事をされても文句は言えないと覚悟を決めた。
泣くかな、怒るかな。
でも……やらかいなあ。
別にもう覚悟は決めたんだからもうちょっとしっかり揉んどいてもいいかな、と思いかけたとき、遙香が口を開いた。
「なあんだ、そうだったんだ!」
満面の笑顔。
なんと、遙香は僕の言い訳に納得してしまったらしい。
恭子さんは僕のごまかしが上手くいったのがどうにも気に食わないらしく、その整った顔をぶすくれた形に歪めていた。
で、ぶすくれた顔のまま、恭子さんは話題を変える。
「おにーたん、どうだった?」
見てるこっちが照れるくらいに仲のいい恭子さんと父さんのこと、気が向いた時のおにーたん呼ばわりは当たり前だった。
「どうとかこうとか……元気に帰っていきましたよ」
「私と別れて寂しい寂しいって泣いてなかった?」
「そんなわけないじゃないですか」
「……そうね。で、お小遣いは分捕れた?」
「あ、はい、それは。十分。お祭りまで持ちます」
「それは結構」
付き合いのほとんどなかった叔父の葬式、
などという比較的どうでもいい用事でたまたま帰郷した父さんに恭子さんが長の逗留を要請したのは、気まぐれだけではなかった。
『かみふらのふれあいフェスティバル』
僕たちがこの町を去ってから始まった、この恥ずかしい名前の町おこしイベントが、もうすぐそこに迫っていたのだ。
「兄さんも薄情よね。妹のせっかくの晴れ舞台なのに。ねえ、遙香?」
「そーだそーだー!」
恭子さんは、上富良野町役場観光課イベント係主任として、今回の祭りで様々な企画に関わっていた。
だから、愛するおにーたんにお祭りを見ていってもらいたかったらしい。
「父さんも忙しいから」
「知ってる。叔父さんももうちょっと待ってくれればよかったのに」
「そんな不謹慎な……」
「んーまー、そうね。でもさ、やっぱり頑張ったから見てもらいたいじゃない」
「そうですね。ちょっと父さんも薄情ですよね」
相槌を打ちながら、僕は違うことを考えていた。
今回亡くなった大叔父さんは、おじいちゃんおばあちゃんと大分折り合いが悪かったらしく、同じ上富良野町内に住んでいながら、ほとんど僕たち一家とは付き合いがなかった。
彼について僕が覚えているのは、僕が学校に上がる前、 祖父の葬儀に顔を出した時のことだけだ。
大人同士の険悪な空気が読めなかった僕は、大叔父さんに近寄っていって、一言二言、言葉を交わしたのではなかったかと思う。
おばあちゃんはひどく彼を毛嫌いしていたが僕はその時あまり悪くはない印象を彼に抱いたらしく、おばあちゃんに反論めいたことも言ったのではなかったか。
結局僕は生きている彼と、死んでいる彼に一回ずつ、それも葬式でしか会ったことがないのだ。
そして彼は、おばあちゃんの葬儀には姿を見せなかった。
体調を崩した、という彼の言い訳を、この支倉本家の大人たちは誰も信じていない。
「あ、そーだ。あのねあのね、あのねっ」
僕の出口のない思考を断ち切ったのは、遙香の底抜けに明るい声だった。
遙香は何か言おうとするたび、家庭菜園で生産されたネギをぶんぶかと振り回す癖があった。
その鋭い切っ先をダッキングとスウェーバックを多用してかわしながら、僕は相槌を打つ。
「なになになに?」
「私、 ゲート…………あひっ!?」
遙香のラッシュの回転が落ちた隙を見逃さず、僕は鋭くカウンターを打ち込んだ。
常に半開きのだらしない口元に、必殺の味付け海苔を叩き込んだのだ。
「優斗君、食べ物で遊ばない」
「はい」
恭子さんに怒られてしまった。
遙香は僕に叩き込まれた味付け海苔をもしゃもしゃと咀嚼している。
「食ってる……海苔を食ってる!」
「うっ」
口元を押さえてる蹲る恭子さん。こんな分りにくいギャグによくもまあ付き合ってくれるものだ。
「ノリいいですね、相変わらず」
「海苔だけに、と言わせたいんでしょう! そうしておいおい、『初代・ミスかみふらの』もギャグセンスがオヤジだな、中年だな、思秋期だな、更年期だな、とかそういういやらしい目で私を見て!」
「……朝からテンション高いっすね」
恭子さんは、道内で一番偏差値の高い大学を出た才女で、遙香のような知的にチャレンジドな印象を与えることはない女性だった。
しかし、そんな彼女にも間違いなく遙香の母親だ、と思わせるところがある。
反応に困る言動が非常に多いのである、遙香とはまた違った意味で。
「お祭りも近いからね、テンションあげてかないとはじけちゃう」
「何が?」
「えっち」
わざとらしく目をしばたたかせる。
何を言っているのかは解らなかったが、何にも言ってないことだけはよくわかったので、無視して話を遙香に戻す。
「遙香、さっき何を言いかけたの?」
「? あ、はほへ、ははしへ」
「……口の中に物入れたまま喋らない」
遙香の口には、味付け海苔八枚は多少オーバーサイズだったようだ。
僕の大好物なのに何を無駄に遙香に食わせてしまったのか。少しだけ、後悔。
「ん……(ごっくん)あのねあのねあのね」
「遙香はゲートボール部に入ったんだよね」
「あー、おかーさん言っちゃダメー!」
ぶう、と頬を膨らませた遙香は、まるで子ダヌキだった。
あんまりにも間抜けで、あんまりにも可愛らしい。
「さっきからそれを言おうとしてたんだ」
「……うん」
遙香はまだぶすくれたままだ。
愛娘を出し抜いた恭子さんは、してやったりとにやついている。あなた本当に母親ですか?
「それで毎朝こんな早くに起き出してじーさんばーさんと早朝ゲートボールを楽しんでるってわけよ」
「健康的でいいんじゃないですか」
「一人で行く分にはかまわないんだけどねー。何故かこの子私をたたき起こしてくの。私ゃまだ眠いのに」
ふあああ、と恭子さんが大きく欠伸をする。
「えー、早起きはいいんだよ。お兄ちゃんも早起きいいよね? ね?」
「いや夜遅くまで働いてる社会人はゆっくり寝かせてあげてもいいんじゃないかな」
「いいこと言うなあ、優斗くん。もっと言ってやってよ」
恭子さんは、ここのところ残業続きで、忌引中なのにちょこちょこ職場に顔を出していたらしい。
上富良野町役場観光課主催の第五回のかみふらのふれあいフェスティバルまで一ヶ月弱。
忙しくて当然だった。
このイベントは順調に成長しており、今では道東から、さらには内地からも観光客が来るようになっているという。
僕は、このお祭りを見たことがなかった。
タイトルは気に食わないというか気恥ずかしいことこの上ないけど中身はそうバカにしたものでもないのよ、と恭子さんは言った。
「恭子さん、休んでて大丈夫だったんですか?」
「んー、あんまり。今日も残業明日も残業よ。とっとと終われよこの文化祭前夜」
「なんかちょっと楽しそうですね」
「そりゃ充実感がないとは言わないけどね。 でも…………何分眠い。ふああああ」
大欠伸。
綺麗なのどちんこが露になる。
「遙香、そろそろ時間じゃないの?」
眠い目を擦りながらも、しっかり娘の予定を把握している恭子さんだった。
「あ、うん。もう出ないと」
ばたばたいそいそと立ち上がる。
「遙香、食べかすついてる」
恭子さんは、ぐいぐいと遙香の口元を拭った。
制服の乱れをぱぱっとチェックし、うん、と頷く。
こっちに戻ってからはじめて見た、母親らしい恭子さんの姿だった。
「それじゃね、お兄ちゃん。行ってくるね、お兄ちゃん。またあとで、 お兄ちゃん」
甲斐甲斐しく世話をしてくれる母親を、見事に無視した挨拶だった。
「あっ! そうだお兄ちゃん、それと……」
と、遙香は何かを思い出したように僕へ目を向ける。
「ん、なに?」
「おかえりなさい……」
それは此処に来たことを実感させた一言だった。
「うん、ただいま遙香、恭子さん。それと、しばらくの間ですが宜しくお願いします」
僕がぺこり、と頭を下げると、恭子さんと遙香は互いに目を合わせ、そしてにっこりと微笑んだ。