第2話 羽代華凜
「さてと。私片付けたらもう一眠りして出るけどどうする?」
「じゃあ片付けと洗い物やっときます。恭子さんはどうぞゆっくり休んでください」
「お、流石共働き家庭。じゃ、お言葉に甘えちゃおうかな。起きらんないってことはないと思うけど、 一応時間見といてくれると嬉しいな」
「了解す」
「じゃ、おやすみー」
恭子さんは、 軽く口をゆすいで歯を磨くと、寝室へ引っ込んでいった。
この叔母は、食後の歯磨きを絶対に欠かさない人だった。
さて。
僕は、三人分の食器をとりあえず洗い場に運び、 ごしゅごしゅと洗い始めた。
ガス代がかかるが、流石に冷水を使う気にはなれなかった。
洗い終わった食器を乾かしながら戸棚を物色する。
いや、決して変な意味ではなく、乾いた後どこに戻せばいいのか考えていただけだ。
戸棚の中には二人暮しにしては随分と多い食器があった。お茶碗だけで十人前。
そんなに来客があるわけでもあるまいに……と考えて、ふと思い至った。
これ、 僕が子供の頃に使ってたお茶碗だ……
慌てて僕がさっきまで使っていたお茶碗を確認する。男性用の大きな茶碗には、なんとなく見覚えがある。昔、おじいちゃんか父さんが使っていたものではなかったか。
大体、この家は六部屋もあるのだ。うら若い女性二人で暮らしていくには、どうしたって広すぎるだろう。
僕たちの家族も、彼女たちをこの広い家に置いていったのだ。
愕然とも呆然ともしなかったけれど、とにかく僕はそういうことに気付いてしまった。父さんがそそくさと帰っていったのは、ひょっとしたら同じことに気づいたからかもしれない。
僕たちがこの町を、そして彼女たちを捨てたことの痕跡は、いったん注意してみればいたるところに見いだすことができた。
おじいちゃんもおばあちゃんも、おじさんも、ちいおじさんも出て行って、或いは死んでしまった。
おじさんたちは道内で暮らしているのに、今回の葬式にさえ顔を出さなかった。
大叔父さん一家がおばあちゃんの葬式に参列しなかった意趣返しのつもりなのかもしれないけれど。
それは、二人の妹をこの何もない町に放置したまませねばならないほどのことなのか。
実のところ、こんなのは問うまでもない話だ。
実際、彼らは、そして僕も、彼女らを平然とここに置き去りにして、それで今日まで悔いることとてなく楽しく暮らしてきたのだから。
僕には彼らを責める資格も、彼女らの寂しさに胸を痛める資格もありはしないのだ。
遙香におかえりなさいなどと言われて浮かれていたさっきの自分に、だから僕は少し怒りを覚えた。
僕は、旅人だ。
その事を忘れられようなどとは努々思ってはならなかったはずなのに。
◇
恭子さんは、起こしに行くまでもなく勝手に起き出して来た。
寝ぼけ眼をわずか0.005ミリ年、っていうかものの2,3分で働く女の顔に作り変え、バイクに跨って出かけていく。
その姿はまるで戦場へ向かうベテランのようで、その若々しい美貌とは裏腹に年相応の貫禄を感じさせた。
それで二人を送り出した僕は、すっかり暇になってしまった。
居間でごろごろしつつ、国営放送の教育局をぼーっと眺めていたりしたが、しかし唐突に自分が虫食い算を解いている場合なのかという疑問にとりつかれてしまった。もっと有意義な時間のすごし方ってのがあるんじゃないか。
そういえば、父さんが手荷物が重いのが嫌だから、と言って置いていった荷物あったのを思い出した。寝間着とか着替えとか、そういうなければないでどうにかなるような物品は置いていったのだ。これを東京の家に送りつけるという用事があったではないか。
そうと決まれば話は早い。荷造り自体は夕べのうちに終わっている。宅急便の伝票なんかはどっかに溜め込んであるのかもしれなかったけれど、何分五年ぶりのこの家。勝手知ったる他人の家、とはいかなかった。そこで、散歩がてら近所の営業所まで取りにいくことに決めた。
このあたりで宅急便を取り扱っているのは羽代商店という店だった。何屋、とも分類しがたい田舎特有のいわゆる商店。
支倉家からは徒歩0分。よく考えてみれば散歩にもならない距離だ。
「こんちわー」
と曖昧な声で暖簾をくぐる。
店内には酒やつまみ、米、歯ブラシなどの雑多な商品が所狭しと陳列されている。さすがは土地あまりの北海道、店の敷地自体は東京の小さなコンビニの倍近くはあった。
「いらっしゃいませー」
なんとなく美人っぽい声が返ってくる。
まさか返事が来ようとは欠片も思っていなかった僕は、驚いて狼狽えた声をあげてしまう。
「わわわっ!?」
店に入ってきた見慣れぬ男が、声を掛けた途端にいきなり狼狽える、なんていうのは女性にとってはかなり怖いことだろう。
しかし、美人っぽい声は微塵も動揺した様子なく、言葉を続ける。
「何かお探しですか?」
「あ、宅急便の伝票を」
「はい、少々お待ちください」
美人っぽい声はあくまで冷静だ。その憎たらしいくらいの落ち着きに、変な声を出してしまった自分が気恥ずかしくてどうにも顔が火照ってしまう。店に入るなりいきなり変な声をあげ、今は真っ赤な顔で興奮している……完璧にヤバイ人じゃないか。こんなところを見られたら通報されてしまう。
僕は、すたすたとやけに大きなストライドで近づいてくる店員の気配に思わず背中を向けてしまった。
「お待たせしました。……お客様?」
真後ろにまで、美人っぽい声が近づいていた。さすがにこのまま背中を向け続けては、そっちの方が変態だ。
僕は覚悟を決めて――こんな美人っぽい声なのに顔がおかちめんこだったらどうしようとかいう不安も抑え込んで……振り返った。
不安は、幸いにも的中しなかった。すらりとした長身に加えて、濡れ羽色の長い髪、そして惹き込まれるような切れ長の目をこしらえた、大層な美人だった。
「何枚くらいお入り用ですか?」
「えっと、五枚くらいあればいいかと」
父さんが残していった荷物は二箱。僕が送り返すだろう荷物がそれよりはきっと多くなるから、五枚は多分使うだろう。
美人の店員さんは慣れた仕草でポケットから伝票の束を取り出し、五枚数えると、僕に手渡そうとして止まった。
「………………」
「どうかしましたか?」
美人の店員さんは、不審そうに、僕の顔を無言で覗き込んできた。好意的、とは言い難い表情だけれど、綺麗な顔がすぐ近くにあると、それだけでどぎまぎしてしまう。
「お客様、この辺の方じゃないですよね?」
「あ、はい、昔ちょっと住んでたことあるけど、今は」
僕の返事に、店員さんは少し思案顔。
やがて、思いついたように口を開く。
「支倉さんとこの末の子が最近家に連れ込んでるという噂のいい男?」
「えっ」
とんでもない事を、さらりと口走る。
「恭子さん色々あったしそんな風に言われがちで……」
急に真面目な口調に戻る。このわがままな話の進め方が、何か変に懐かしかった。寒いところの人間てのは、急ぎ足で喋るものだから、北海道に帰ってきた、という感じがする。
「うん。小父さん、帰ってきてたし」
一人で頷いて、勝手に満足して微笑む。こっちが話についてきているかどうかなんてお構いなし。たまらぬ北国的お姐さんであった。
「優斗君、だよね?」
「?」
とん、と胸の前で手を合わせる。少し芝居がかかった仕草も実によく似合う。美人は得だ。いや、そうじゃなくて。
「ひっさしぶりだよねー。もー水臭いんだから、帰ってるんなら帰ってるって言ってくれればいいじゃない」
すっかり合点が行った、という調子で、彼女は相も変わらずわがままに話を続ける。でも、僕には全然話が見えていない。なんか、親しげだけどこんな綺麗なお姐さんこの町にいたっけ?
「…………ひょっとして私が誰か解ってない?」
「うん、多分」
「ひっどいなー。じゃあヒントあげるからさっさと思い出しなさい。ヒント1、羽代商店、ヒント2、君の幼馴染、ヒント3、大変な美人」
すごい美人なのにどうにも人を食った態度。やたらに落ち着いた物腰。これは、覚えがある。
そして、何より僕の幼馴染、といえば。
「華凜ちゃん?」
「はい、正解。ひどいんじゃない、一目見てわかってくれないなんで」
「いやわからないのも当然だよ。あんれまあ綺麗になっちゃって」
「昔は綺麗じゃなかったと?」
「昔は可憐だったから」
「今は可憐じゃないのかしら」
「その倨傲な態度は憐れっぽいかなあ、大人として」
「……一本取られたということにしといてあげる。……あらためて、久しぶりね」
「うん、久しぶり」
「東京、どうだった? かゎぃぃギャル文字覚えた? パギャルムリウチしまくった?」
「……相変わらずプ○イボーイしか東京情報ないんだ、この町」
「この町にだって『SA○IO』くらい入ってきてるわよ。そんなリアリティのないことを言って」
「昔の君の口癖じゃない!」
「そうだったかしら」
「そうでした!」
ご町内の話題といったらゲートボール・ロマンスがあるばかり。
東京情報といったらプレ○ボーイ一誌があるばかり。
無闇に真っ直ぐな道。
アホほどでっかい空。
こんなところに若者のギラついたあれやこれやを満足させるものなんてあるはずないわ、というのが五年前の彼女の口癖だった。
ゲートボール・ロマンスという造語が気に入っただけなんじゃないかとその頃から疑ってはいたんだけれど、これはどうやら当たりらしい。
「昔の話なんていいじゃない。それより未来の話をしましょ、若者らしく」
「胡散臭いなあ……。あ、大学受かったよ。春から憧れのキャンパスライフさ」
「あら、おめでとう。どこか聞いてもいいかしら?」
僕が大学名を告げると、彼女はあながち社交辞令でもなさそうな顔で驚いた。
「……慶應ボーイなんて、やるじゃない」
「勉強しか取り柄がないって、昔誰かに言われたけどね」
「……さあ、誰かしらね。って、大叔父様、お亡くなりになったのよね?」
この唐突な話題の切り替えが華凜ちゃんの真骨頂。
僕は、ついさっきまで誰だか解ってすらいなかったというのに、もう五年前に戻ったような居心地のよさを感じていた。
「あ、うん。だからこっち戻って来たんだけど」
「まあそうよね。……この度は大変ご愁傷様でした。もっと早くにご挨拶に伺うべきところをこのような形になりまして……」
深々と腰を折る。さすがは商店の娘、いきなりの大人モードだ。
「あ、いえいえ……」
我ながらしどろもどろな対応だった。
「いえいえ、そのお気持ちだけで故人も草場の陰で……くらい言えないものかしら?」
「うっ……」
「なんか、安心したな。そのしっかりしてるのかしてないのか判断のつかないとこ全然変わってないのね」
「ひどいなあ」
「一応褒めたはずなんだけどな。ま、それはいいわ。こっちにはいつまでいるの?」
「ふれあいフェスティバルを見て帰ろうかなと」
「はんかくさっ! そんな正式名称、地元じゃ誰も言わないわよ」
「あー、やっぱり?」
「だってクソダサいじゃない」
「言い切るなあ……」
歯に衣着せぬ性格は何年経っても相変わらずだった。
「まあ、常識だからねえ。観光課の恭子さんはそのタイトルに決まった時、奥歯を嚙み潰しそうな形相でウチに来てね、母さん相手にウイスキーのボトルをじゃんじゃん開けながら日本の縦割り行政と護送船団方式の一大批判を……って、恭子さんに見てけって言われた?」
「うん。いいじゃんいいじゃんせっかくなんだからさー、って」
「町役場の職員には動員ノルマがあるから」
「僕って実はただの数合わせ!?」
「……嘘よ」
「ああ、うん、そうだよね……」
恭子さんの性格からしてちょっと不安になってきたけど……。
「恭子さんは普通に仕事熱心だからね。そこだけは無条件で尊敬できる」
「そうだね。というかなんか恭子さんと親しげだね」
「ご近所さんだし色々とね。ま、残念ながらお祭りは今回不参加だけど」
「なんで?」
「お引越し。大学生になるのは君だけじゃないわ」
「あー、そっか。どこ?」
「北大に受かってる予定だけど、こればっかりはね。予備校もあっちだからどの道越すしかないんだけど」
「予定って、手応えあるの?」
「有体に言ってばっちりね」
「いいなー、国公立」
「まだわかんないってば。でもねー、所詮は地方よ?」
「それは……なんともコメントしがたい」
華凜ちゃんが子供の頃一番好きだった遊びは、銀座ごっこだった。クラブのママ、三越に買い物に来た奥様。裏通りのホームレスなどと役割を決め、華やかな街に集う人々の人生模様を演じ分けるという、高級なんだか悪趣味なんだかよくわからない遊びで、他の子供たちは当然のように嫌がった。
この奇妙な遊びにつきあっていたのは、僕と遥香と、あと何故か恭子さんくらいのものだった。ある意味華凜ちゃんよりもこの遊びが好きだった恭子さん指導により、昔の僕は日本で一番リアルなホームレスを演じられる幼稚園児だったりもした。
……いい思い出だ。
「田舎、まだ嫌い?」
「と言い切ってしまうとそれこそ田舎者よね。でも、ジンギスカンは好きよ」
「あー、ジンギスカンまだやってないや」
「だめよ、北海道なんだから。一日六食ジンギスカンの勢いで食いまくらないと。あ、いらっしゃいませー!」
そりゃいくらなんでも食い過ぎだ、と反論しようとした瞬間、他のお客さんが入ってきた。
「じゃ、また後で」
僕のコートのポケットにさっと伝票をすべり込ませると、彼女はまた店の奥へ戻って行ってしまった。
「あ、それと」
華凜ちゃんは、店の奥から顔だけを出して。
「おかえりなさい、優斗」
そう言って、また店に消えた。
「……ただいま。華凜」
こうして僕は、かつての幼なじみと邂逅を果たした。




