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六分儀  作者: 小鳩子鈴
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 三次会に向かうグループに別れを告げて、駅へ向かう。

 この時間は乗り継ぎの接続が悪く、自宅マンションに着いたのは深夜を過ぎていたが、意外なことに留衣は起きていた。

 昼間は蓮と公園にでも行ったのだろう。疲れているのに無理をして起きていたのか、顔色が悪い。


「……寝てるかと」

「たまには起きて待っていようかと思ったの。楽しかった?」

「ああ、まあ、結構集まってたな」


 二次会の参加記念品を渡しながら、ぽつぽつと言葉を重ねる。


『二人とも生きているんだから、お喋りくらいできるでしょ』


 あの声がまだ耳元に残っている――()()()()()()()()()


 寝室のクローゼットにジャケットを掛けると、手土産の紙袋を持って立ったままの留衣が俺の足元を見つめながら口を開いた。


「……あの人も、来た?」

「誰」

「お父さんが、付き合ってた……結衣さん」


 どうしてそれを。


「……知ってたのか」

「名前を知ったのは結婚式の時だけど。大学の時からずっと付き合っている彼女がいたことは、前から知っていたわ」

「そうか。別に隠してたわけじゃないけど」


 赤峰が漏らしたらしい。結衣ちゃんと別れてから唯一続いた彼女だね、なんてことを他意なくぽろりと、俺達の披露宴の後で。


「……来てなかった、というか来られなかった。入院中らしい」

「え?」

「二ヶ月前から意識不明だそうだ」


 ほかに音のない寝室で、留衣が息を呑む。


「……行かないの」

「どこに」

「結衣さんの、お見舞いに」

「どうして」


 どうしてお前がそんなに泣きそうな顔をしているんだ。紙袋を握り締めすぎた留衣の手が、白く震えている。


「って……だって、好きなんでしょう」


 今でも。小さく口にした一言が刺さった。


「わ、私とは、蓮ができたから結婚してくれただけで……別にそんなに好きじゃなかったでしょう」

「留衣」

「それでも、私は佐山さんが好きで、」


 佐山さん――結婚前の呼び名。

 それが、今の俺と留衣の距離か。


「留衣、俺は別れてからあいつと一度も連絡を取ったことはない」

「そうかも、しれないけど……っ」

「向こうが結婚してたのだって、入院してるのだって、今日初めて聞いた」


 だって、そう言いながら下を向く留衣の足元に、ぽたぽたと雫が落ちる。


「……いつも、比べてた。私と誰かを比べて、がっかりしているの」

「そんなこと」

「仕方ないって思ってた。……私ばっかり好きで、無理言って付き合ってもらって。あんなに気を付けてくれていたのに、妊娠して。でも、堕ろせって一度も言わないで、当然のように結婚してくれて。だから私、できることは何でもやろうって頑張った、これでも。奥さんとして恥ずかしくないようにって、家だって綺麗にして、れ、蓮をちゃんと育てて、って……」

「留衣、」

「でも、佐山さんは見てくれない。ずっと遠くばっかり見て、私も蓮も見てくれない。……好きでもないし、したくもないのに結婚させた私のせいだって、分かってるけれど」


 泣き声の間、留衣は苦しそうに息を吸う。


「頑張ったんだけれど、なんだか、急に疲れちゃって。そうしたら、もう、何もかもやりたくなくなって……」


 ちゃんとできなくてごめんなさい、最後にそう言って黙り込んだ。


 六年間。留衣と一緒にいる時間は、菖蒲と過ごした時間をとっくに超えていた。

 その時間の殆どを留衣は、比べられていると思って過ごしてきたのか。

 たとえ俺にその気持ちはなくても、本人がそう思っていたとしたら。

 ……糸が切れてもおかしくはない。むしろ、よく六年も保った。


「何でそんなことずっと黙って……違うな、俺のせいか」


 仕事を言い訳に、留衣にも自分にもちゃんと向き合わずにきたそのツケか。

 涙に濡れた手を引いてベッドに座らせ、隣に腰を下ろす。

 軋むスプリングに驚いたように顔を上げた留衣にティッシュペーパーを箱ごと渡せば、こんな時でも、ありがとうと涙声が返ってきた。


「……比べたつもりはなかった。でも実際にお前は比べられてるように感じたんだから、俺がどう言ったってそこは変わらないんだろうな。だから、悪かった」

「佐山さん」

「留衣に……甘えていたんだと思う。言わなくとも、話さなくとも大丈夫だって」


 放っておいてもいいんだと思ってしまった。俺に惚れているのだから、見ていなくとも離れないだろうと。

 父親になる、なんて自覚を持つ前に生まれてきた蓮のことも押し付けて。

 子どもだって、可愛くないと思っていたわけではない。ただ、どう接していいか分からなかった。仕事を口実に逃げていた。

 こんな父親なのに子どもが無邪気でいられるのは、母親のおかげだろうに、それにも気付かずに。


『困ったひと』


 本当だな。

 寄せ書きの周りにあった写真は大学時代のものばかりだったが、一枚だけ卒業後のものがあった。

 ウェディングドレス姿の満ち足りた笑顔。

 お前は、ちゃんと前を向いて進んでいたのに。


 なあ、どうして現れたんだ。こんなどうしようもない俺の前に。


『心配しないで、幸せになって』


 その言葉を受ける資格が俺にはあるだろうか。

 手にした、自分の子どもを産んでくれた女をこんなふうに泣かせた俺に。


 荒れた肌と髪……ろくに美容院に行く時間も取れていないのだろう。結婚前の姿を思い出せば申し訳なさが募る。

 泣きはらした顔はぐちゃぐちゃだが吹っ切れた感じもあり、今朝までその表情にかかっていた仮面のような薄い膜は消えている。

 不思議とその顔は初めて見る女のように思えた。


 罪悪感を上回る思いが湧き上がる。

 ――失くしてはいけない。今度こそ。

 今更、足掻くことが許されるなら。


「……留衣。もう一度、今から、やり直させてくれるか」




 その後暫くして、菖蒲が目を覚ましたと赤峰から連絡があった。今はリハビリ中だという。


『俺らの結婚式の少し後で意識が戻ったらしいよ。莉奈は、寄せ書きが効いたんだなんて言ってるけどな』

「……そうかもな」

『お、珍しい。お前が非科学的な事を肯定するなんて』

「不思議なことはあるって、あそこの喫茶店のマスターにも言われたからな」

『ああ、駅近くの? お前ら、よく行ってたよな』


 なんにせよ良かったよ。赤峰はそう言って通話を切った。


 明けた正月には年賀状が届いた。寄せ書きにメッセージを書いた全員に出したようで、回復の報告と、礼が記されていた。

 小さな赤ん坊を抱き、夫婦で並んでソファーに掛けた写真。

 初めて見る菖蒲の夫はいくらか年齢が離れていそうだったが、その表情からは妻と子を慈しんでいるのがありありと伝わってきた。


 返事に、手元に残っていた年賀状を寒中見舞いとして投函した。こちらは、幼稚園の運動会で親子で弁当を食べている写真だ。

 息子の蓮は、スーツのような制服の幼稚園を辞めた。

 今は歩いて通える近所の幼稚園に、青いスモックと紺色の帽子で楽しそうに通っている。

 転園直後に行われた運動会で活躍をして、あっという間に園にも馴染み友達もたくさんできたと留衣は嬉しそうに言う。


 そんな留衣自身も、いわゆるママ友ができて日中が充実しているようだ。

 意を決して自分から話しかけてみれば、驚くほどあっさりと打ち解けたという。向こうも、毎朝思いつめた顔で出かける留衣達を気にしていたそうだ。


「前の園ではお受験以外の話ができなくて。今は先生ともママ達とも、普通に子育ての話やバカな話ができるの」


 園の役員や付き合いとかで面倒くさいこともあるけれど、それ以上に、ただお喋りできるのが楽しいと。

 相変わらず部屋は散らかったままだが、荒れた感じはない。

 部屋いっぱいに広がるブロックも、夕方には蓮も一緒に片付けるようになった。


「おとうさん、ぼく、きょうはこっちでねる! おとうさんと、ねるー!」

「蓮、もうちょっと待って、まだお布団敷いてる途中っ」

「おとうさん、えほんよんで! くるまのえほん!」

「……それは見る本で、読むとこないだろう」


 寝室から俺の枕を両手に抱えてきた蓮は、写真ばかりの絵本をぐいぐいと押し付けてくる。

 ひたすら車種と車名ばかりを読む羽目になるその本の、ワンボックスカーのページで一台の車を指差した。


「これにのる! おとうさんと、おかあさんと、ぼくと、いもうとで、おでかけするんだ」

「「妹?」」


 俺と留衣の声が重なった。

 楽しげに頷いている蓮の中では決定事項らしい。

 留衣を見れば赤い顔で、両手と首を横にぶんぶんと振って否定している。


「でもぼく、しろはいやー、くろいのがかっこいい」

「色まで指定か」

「おとうさんは、しろいほうがいい?」

「……黒でいい」


 お母さんは白がいいわ、とまだ赤い顔で笑いながら、布団を敷き終えた留衣はキッチンに戻る。

 俺が蓮の寝かしつけをするようになった休日は、その間コーヒーを淹れて雑誌などを眺めている。


 菖蒲からの年賀状は、下の余白に手書きの一言が添えてあった。

 夫の字だろう、かっちりとした万年筆のブルーブラックと、見覚えのある傾斜のついた細い文字。


『いつかお会いできるのを楽しみにしております』

『マスターによろしくね』


 その「いつか」の時は、留衣と蓮を連れて行こう。もしかしたら、蓮の言う()もいるかもしれない。

 リビングから漂ってくるコーヒーの香りに、その前に二人を連れてあの喫茶店に行こうと思った。



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