軍の帰還
グリディア帝国軍総指揮官ラファエル・レッドホースは、外見で損をしている男だった。
彼は常に眉間に皺を刻み、太めの眉を斜めに持ち上げ、睨むように目を細めていた。おかげで彼と初めて対面する者は、一様に「この人はどうして怒っているんだろう」と不安にならざるを得なかった。常人よりも大柄で屈強な体躯を備えていたこともまた、周りから恐れられる要因の一つになっていた。
もちろんラファエルは、年がら年中怒っているわけではない。歳を取るにつれて自然とこうなっていっただけであって、ラファエル本人はいたって温厚な人物であった。無駄な喧嘩はせず、滅多に怒らず、面倒見も良い。理想の上司である。しかし「顔が怖い」というただ一点だけで、彼は回りから必要以上に畏怖の感情を持たれていたのである。
「ラファエル様、討伐軍が帰還したようです」
しかしそんな恐ろしい外見を持った彼を前に、全く動じない人物もいた。ラファエルお付きの秘書、ヘカテス・メイデもその一人だった。ラファエルにその事務能力の高さを買われスカウトされた彼女は、以来彼の片腕として、常に毅然とした態度でラファエルをサポートし続けた。そして彼女はヤクザ者か何かのようにしか見えない外見を持ったラファエルと二人きりで対面しても動じないだけの、人並み外れた胆力を持ってもいた。
それもまた、ラファエルが彼女を重用する理由であった。別に「眼鏡をかけた長身の才女」という彼女の見た目が、ラファエルの好みにどんぴしゃであったからとかいう理由では無かった。
「埼玉に向かわせた連中が帰って来たのか。ついさっきか?」
「はい。正確には五分と二十秒前です」
「そうか。わかった」
指揮官用のデスクの前に立ち、淡々と報告するヘカテスを見ながら、ラファエルは小さく頷いた。彼の声はドスが利いたように低く、その低い声もまた周りが彼を畏怖する理由の一つとなっていた。ヘカテスは顔色一つ変えずに、続けてラファエルに言った。
「予定より二日ほど早い帰還となっておりますね」
「向こうの方で、何か事件でも起きたんだろう。それも後で聞いておかないとな」
「かしこまりました。では後程、私が聴取を行います」
「いや、俺がやる。討伐軍から直接事情を聴いてみたい。お前は来なくていい」
ラファエルが秘所の提案を跳ね除ける。ヘカテスは一瞬片眉を動かし、すぐに「かしこまりました」と頭を下げる。ラファエルはそんな彼女を見て小さくため息をつき、諭すようにヘカテスに言った。
「お前は少し休め。何から何まで自分一人でやろうとするな」
「私は私の仕事をこなすだけです。無理はしておりません」
ヘカテスは元々、帝都内にある図書館で蔵書や資料の整理を専門に行う部署にいた。その部署には彼女一人しかおらず、その理由は「ヘカテス一人で全てこなしてしまい、他の局員がただの足手まといと化すから」というものであった。ラファエル専属の秘書になれたのは、そんな何千何万もの書物をたった一人で捌ききる手腕を買われての大抜擢であったのだ。しかし当のヘカテスは、その異例過ぎる出世コースに負い目を感じており、他の者に軽く見られないよう常に仕事第一で生きてきた。まさに仕事の鬼と化したのだ。
ラファエルはそんな彼女が不憫でならなかった。彼はロクに休みもせず、憑かれたように職務に没頭する彼女に、なんとかして休暇を与えてやろうと腐心していた。
「お前に倒れられたら俺が困る。上司としての命令だ。たまには休め」
「お言葉ですが、私は既に長期休暇を一度いただいております。これ以上休暇をもらうことは、とても恐れ多いことです」
「二連休を長期休暇とは言わん。それも四か月前の話だろう。いいから休め。椅子に縛り付けてでも休ませてやるからな」
ラファエルは本気で言い放った。ヘカテスも負けじと彼を睨み返した。どうでもいいことで部屋の空気が張り詰めていく。
ラファエルの部下が扉を開けて中に入って来たのは、その直後の事だった。
「失礼します。ラファエル様、申し訳ありませんが、正門前までご同行願えませんでしょうか?」
「正門前?」
兵士の言葉を聞いたラファエルは怪訝な表情を浮かべた。ついでにヘカテスも同じ顔をした。兵士は相手に悟られないよう、心の中で小さく悲鳴を上げた。彼の努力は実り、兵士は真顔を貫くことに成功した。
そんな兵士に向かって、怒り顔の――当然彼は怒っていない――まま、ラファエルが問いかけた。
「帝都に入れない理由でもあるのか」
「は、はっ。なんでも彼ら、ドラゴンを生け捕りにしたということでして」
「なに?」
執務室にいた二人は揃って驚きの顔を見せた。兵士はその表情、特にラファエルの顔を見て怯みつつ、それでもなんとか相貌は崩すことなく姿勢を保ちながら二人に言った。
「ドラゴンは巨大で、それを引き連れたままでは帝都の中にはどうしても入れないとのことです。それに相手はドラゴンでありますから、やはり司令官クラスの方にご確認していただきたく……」
「だから俺が直接正門まで向かって、そこで直接見てきてくれってことか」
「はい。お手数ではありますが、お願いできるでしょうか?」
兵士は本当に申し訳なさそうに、平身低頭して懇願した。ラファエルは嫌な顔一つせず――兵士にとってはなおも怒った顔のままに見えたが――椅子から立ち上がって兵士に言った。
「よしわかった。案内してくれ」
「ラファエル様、私もご一緒させてください」
そこでヘカテスが食いつく。ラファエルと兵士は彼女を見やり、ヘカテスはラファエルをじっと見つめた。
短い沈黙の後、先に折れたのはラファエルの方だった。
「……わかったよ。一緒に来い」
結局、彼の目論見は失敗に終わった。
ラファエルとヘカテスが部下の連れてきた馬に跨り、正門まで出ていった時には、既に多くの人間がその討伐軍が持ってきた「戦利品」に群がっていた。もっとも民間人はそれを取り囲む衛兵によって露払いをされ、それ――倒れ、巨大な台車の上にがんじがらめにされた黒竜――に近づいていたのは、帝国軍の将軍や帝国の重鎮達が殆どであった。
「おお、ラファエル君。君も来てくれたか」
そんな取り巻きの一人が、ラファエルらの姿に気付いて声をかけてくる。マーチ・ボウガン。グリディア帝国司法長官であり、この国の法や規則を一手に担う大物であった。彼はずんぐりと太った体躯を軽快に動かし、頭頂部のみ禿げ上がった頭をかきながら彼に言った。
「いやまさか、こんなことになるとは思わなかったよ。生きてる内にドラゴンを目の当たりにするなんてね」
「私も初めてですよ。ここまで巨大なドラゴンを見るのは初めてだ」
そう答えて、ラファエルが眉間を寄せて目を細める。おかげで厳めしい顔がさらに険しくなったが、年上のマーチは意に介さなかった。それどころか彼は「全くその通り」とラファエルの言葉に同意し、彼の鬼面を見ながら楽しそうに笑い声をあげた。
「ところで、こいつは生きているんですか?」
笑うマーチにラファエルが問いかける。マーチは笑みを消し、拘束された黒竜に視線を向けながら、「どうもそうらしいよ」と他人事のように言った。
「討伐軍の面々が言うには、あの黒竜は気絶してるだけらしい。いつ目覚めるかわからないから、扱いには細心の注意を払ってほしいとのことだ」
「なるほど。それで、こいつはどこの管轄になるんで?」
「たぶん、軍事じゃないかな。君の管轄だ。私もマエダ君も、ドラゴンの面倒は見きれないよ」
グリディア帝国は、純粋な王政とは異なる社会構造によって成立していた。ヒエラルキーの頂点に王がいるのは当然であるのだが、彼が全ての権力を持っている訳ではなかった。彼の下にはそれぞれ法を定める「司法」、一般人の生活に関与する「民生」、文字通り軍事面を一手に引き受ける「軍事」と呼ばれる三つの部門があり、さらにその三部門の下にそれぞれに関連する多くの部署が置かれていた。そして各部署から意見を聞いた三部門と王が折衝を繰り返し、それを経て国の道を決めるのであった。
そしてマーチは、今回のドラゴンの取り扱いをその三部門の一つである「軍事」、つまりはその軍事部門の長であるラファエルに任せようとしていたのである。なお彼の台詞に出てきた「マエダ」とは、「民生」部門を取り仕切る長の名前であった。
「まあ、我々にしか扱えないというのは、確かにその通りですね」
そんなマーチの言葉を受けて、ラファエルもそれに同意した。それから彼はマーチに「討伐軍に会いたい」と要求し、マーチも快く彼に討伐軍の居場所を教えた。
教えたと言っても、討伐軍の面々はドラゴンを載せた台車の反対側にいただけであった。マーチからそれを教えられたラファエルは彼に礼を述べ、すぐにそれの元に向かった。ヘカテスもそれに続いた。
途中で他の部門の上級幹部や、同じ軍事部門の幹部とも会ったが、彼らは唐突にラファエルが近づいてくると、一人残らずびっくりした。自分達よりもずっと上背のある男が、鬼の形相で近づいてくるのだ。驚かないほうがおかしかった。
いつものことなので、ラファエルもヘカテスもそれを無視して進んだ。そして台車の傍を歩き、反対側にいた討伐軍の面々と合流した。
「まったく、何度言えばわかるのだ!」
合流して最初に彼らが耳にしたのは、何かを叱責する男の声だった。二人が声のする方に目を向けると、そこには女性を地べたに正座させ、それを正面から見下ろしながら腕を組んで説教をする男の姿があった。
「戦っている最中は我を失うなと、あれほど言ったのに! 今回も勝てたから良かったものの、味方を巻き込んで戦うなど言語道断だぞ!」
「本当に申し訳ありません……」
軍事部門実行部隊のトップに位置する将軍、メッサーとキルシュだった。なぜかボロボロなメッサーが綺麗なままのキルシュを正座させ、滔々と彼女を叱り飛ばしていたのであった。そして彼らの周りに目をやれば、そこにいた兵士達もメッサー同様、一人残らずボロボロになっていた。キルシュ以外は大なり小なり傷だらけで、無傷で帰って来ていたのはキルシュ一人だけだった。
それを見たラファエルとヘカテスは、揃ってため息をついた。
「キルシュの奴、またやったのか」
「彼女に討伐軍の指揮を任せたのは間違いだったのでは?」
頭を抱えるラファエルにキルシュが提案する。二人はキルシュがどういう戦いをするのかを知っており、一度火のついた彼女がどんな戦法を取るのかも知っていた。
知っていて、彼らはあえて彼女に全体の指揮を任せた。それはキルシュがもっとも大部隊の運用に長けており、一番今回の任務に適していると判断したからだ。
しかしこうなるならキルシュに任せるべきではなかったか。ラファエルはそう思ったが、後の祭りだった。
「大馬鹿者め! 少しは将としての自覚を持たんか! そんなだからいつまで経っても地雷女と呼ばれるのだ!」
「……いい加減止められた方がよろしいかと」
怒髪天を衝くメッサーを見ながら、ヘカテスが小声で提言する。ラファエルは面倒くさそうに頭を掻きながら、その反省会場に向かって歩き出した。
ラファエルの存在に気付いた討伐軍の面々が、その怒りの形相――もちろん本人は怒っていない――で近づいてくる彼を見て一斉に委縮したのは、そのすぐ後の事だった。




