最終回
最終回
日が暮れたどしゃぶりの海へと、俺は乃亜を両腕に抱き抱えたまま、進んで行った。
顔を打つ雨は強く、雨雲と暗闇が覆う天が俺を責めているようで、辛かった。
「乃亜…乃亜」
何度呼んでも、返事はない。
胸元まで浸かった俺は、動かない乃亜の身体を海に浮かべた。
「乃亜、海だよ。さあ、泳いでごらん。君は人魚なんだろう?…乃亜。俺はここにいるからね。逃げたりしないから…、本当の君の姿に戻っていいんだ…」
乃亜の身体はぷかぷかと波打つ海に浮かび、俺の腕からゆっくりと波にさらわれていく。
俺はそれをじっと見守り、乃亜が再び生き返ることを祈るしかできなかった。
「乃亜っ!」
俺は叫んだ。
その声に応えたかのように、海の中からひとりの男の姿が現れた。
辺りは暗闇と言って良いほどに暗く、打ち続ける雨に霞んではいたが、その姿はなぜか浮き上がって見えた。
裸の上半身に青白い肌と、長く黒い髪。
際立った美貌の青年の青く光る両の目が、俺をじっと睨んでいた。
「乃亜は死んだ。…殺したのはおまえだ」
「…」
「私はおまえを許さない」
彼が誰なのか、すぐに理解した。
俺は以前に乃亜が見せてくれた写真で、こいつの顔を知っていた。
「俺もだ」
「乃亜は可愛い僕たちの弟だった。おまえが乃亜を不幸にした」
「許さない…」
彼の声に呼応するように、俺の周りに上半身裸の男たちが次々と海から浮かび上がる。
合わせて五人。俺の位置から三メートルほど離れて、俺を囲んでいた。
彼らは乃亜の兄たちだ。
…乃亜の自宅で会った次兄のヨシュアが、俺を指差した。
「ほら、見たことかよ。…だから俺は反対したんだよ。こんな奴に騙されちまった乃亜にも責任の一端はあるが、乃亜はまだ甘っちょろい子供で、てめえは大人だろうが。責任の重さは比べようもねえな。しかも乃亜が、殺されたんじゃ、見逃すわけにはいかない」
怒りに任せた激しい怒号に、別の男たちが呼応した。
「だけどさ、殺しちゃうにはちょっともったいない気がするよね。想像したより、随分男前じゃん。僕好みだし…」
「ルイっ!おまえ、俺の目の前で色気だしてんじゃねえ!こいつは俺たちのかわいい乃亜の処女を奪って、捨てて、殺した奴だぞ」
「あ、そうだった…。じゃあ、やっぱり死んでもらうしかないよね」
「あたりまえだ!」
「でも…僕も、ちょっぴり~好みなんだよねえ、このヒト…」
「リオン、てめえまでっ!」
「おまえら、いいかげんにしろっ!こいつをどうするかは、すでに審判が出ている。こいつが処刑されなきゃ、乃亜は浮かばれねえんだよ」
「ヨシュアの言うとおりだな…」
五人の兄の言い分は理解できた。
彼らの怒りが俺に向かうのも、当然だ。
乃亜を…死なせたのは俺の所為でしかない。
「俺は…俺はどうなってもいい。だから乃亜を、頼むから乃亜を生き返らせてくれ!」
「おまえがそれを言うか?…一度死んだモノは二度と生きかえることはできない。ヒトも人魚も同じだ」
俺の必死の頼みにも、正面にいる長兄、ヴィンセントは表情ひとつ変えずに冷たく言い放った。
「だが…おまえがそこまで言うのなら、やってみる価値はある。おまえの死と引き換えに、乃亜を生き返らせることができるのか…天に問おうではないか…。やれっ!」
ヴィンセントは右手を挙げた。
それが合図なのだろう。
俺はいきなり両足首を掴まれ、海の中へ引きずり込まれた。
泳ぐのは苦手じゃない。
海に近い家に住んでいたから、浜辺も海で泳ぐのも恰好の遊び場だった。
高校時代には何人かの友人たちと、禁止されていた夜の遊泳をこっそり楽しんだことも何度もあった。
だが、こんな雨の降る夜の海で、潜水なんかする馬鹿者はいない。
俺を海に引きずりこみ、溺れさせようとする奴らが、乃亜の兄貴だってことはわかっている。乃亜が言うように、彼らが人魚であるのなら、海の中を自由に泳ぎまわるのは至極当然だろう。だが、俺はここに来ても、彼らが本当に人魚であるのか、百パーセント信じることができなかった。
先程までは見えなかった下半身を、この目で確かめる時までは…
…夜の海の中だからって、光がないなんて、ありえないんだ。
光はどこにでもある。
その光が水のなかでいくらでも反射して、綺麗なプリズムを作り、ゆらめかせ、実在をぼやかせていく。
けれど、本当は見えている。
真実は目の前にある。
その姿、泳ぐ様、光る鱗の模様とその感触…俺を嗤う奴らは…確かに人魚…だった。
五人の人魚に手と足を掴まれ、渦の中で弄ばれ、俺は本物の暗黒の海へ引き摺られていく。
…その不思議さと、死への恐怖、息苦しさに、俺は僅かな抵抗すらできなかった。
「乃亜…」
もし、本当に俺の「死」で、乃亜を生き返られられるのなら、たった三十年間の人生だったけれど、きっと意味があったのだろう…と、思った。
そして、愛する人魚を救った王子が俺であるならば、天国の母さんも、笑って許してくれるだろう…なんて…
「…ご!尚吾っ!…尚吾!」
…ああ、乃亜の声がする。
俺は意識の薄れた自身の目を精一杯の気力で開けた。
海面から乃亜が、俺に向かって泳ぎ近づいてくる。
その姿は…上半身は見慣れた裸の乃亜だったが、腰から下は七色に変わる銀の光を放ち、優雅にしなる長い魚の姿だった。
長く半透明な尾ひれと、青白く波打つ腰と背中にもヒレが見えた。
…人魚の乃亜は、昔、母さんに聞かされ、俺が想像した人魚よりも、ずっと…ずっと美しかった。
「乃亜…乃亜…どうか、元気で…」
俺は精一杯に、人魚の乃亜に手を伸ばした。
さよならを言う為に。
「尚吾…」
手を伸ばした乃亜の指の真珠が、キラリと光った。
ああ、最後に見たのが、俺を見つめる乃亜の笑顔で、本当に良かった…。
…どれくらい意識を失っていたのかわからなかった。
静かに繰り返す波の音が聞こえた。
眼を開けると、夜空に輝く数多の星々が見えた。
仰向けに寝そべった俺は、大きく息を吐いた。
両手を目の前に揚げ、掌を裏表にしながら、存在を確認した。
どうやら…俺は死んではいないらしい。
あいつらが、俺を殺すことを諦めたとは思えないが。
最後に見た乃亜が、もし本当に生き返った乃亜ならば…きっと、彼が俺を助けたのだろう。
そう考えるのが一番自然だった。
俺はゆっくりと起き上がった。
夕立は去り、夜天は晴れ、満月が今は静かな海原に光の道を輝かせている。
深い群青色の澄みきった世界。だけど締めつけられる胸の痛みは、少しも消えない。
乃亜は…人魚になった乃亜…。もう俺達は会えないのだろうか…
「なあに、生きてくれていればそれでいいさ。そうさ、乃亜が生きてさえくれれば…」
そう吐いた途端に涙が零れた。
乃亜を失うことがこんなに寂しいなんて…
ああ、もう一度だけ抱きしめて、何度でも愛していると叫びたい。
乃亜…
涙でぼやけた所為か、月の光に反射した波の揺らめきが少し荒立っているように見えた。
そいつが段々と酷くなり、人の形をした影が見えた。
海の中から上がってくるそいつは、俺のいる浜辺に近づいてくる。
俺は海を歩くその影に向かって、走り寄った。
「乃亜っ!乃亜っ!」と、何度も繰り返した。
「尚吾っ!」
その影は俺の名を呼んだ。
月の光がその姿を俺に見せてくれた。
両足の付いた裸の乃亜が、俺の名を呼びながら、おぼつかなく歩いてくる。
「乃亜…」
俺は浅瀬をヨタヨタと歩く乃亜を、ギュッと抱きしめた。
「尚吾…尚吾、良かった…本当に良かった…」
「乃亜、君が俺を兄さんたちから守ってくれたんだね」
「尚吾が…本気で僕の為に命を捨てようとしてくれたから…。兄さんたちは試したんだよ、尚吾が本気で僕を愛しているかって…。尚吾の愛が、兄さんたちを認めさせたんだ」
「乃亜…」
「僕は人間になることを選んだ。尚吾と一緒に生きていくって決めたから…」
揺るがない眼差しに、俺は現実を生き抜こうと覚悟を決めた乃亜の決意を見た。
乃亜はもう今までの幼く可愛いだけの乃亜ではなくなっていた。
ならば、俺も無辜なる乃亜の愛に、誠意を尽くしていかなければならないだろう。
俺は乃亜を抱きしめ、くちづけをし、そして贈った。
「…乃亜、俺たちは、幸せになるために、出会ったんだ。だから何度でも君に言うよ。ありがとう、乃亜。本当にありがとう」
「尚吾…僕こそ、ありがとう。尚吾に会えて、本当に幸せだ…」
「これからだって、ずっと幸せでいよう…」
「うん…」
こうして、王子である俺と、人魚姫の乃亜はめでたく幸せな結末の恋物語を描くことができた。
母が読み聞かせてくれた「人魚姫」の結末通りになったってことは、生きていたら母は良かったと喜んでくれるだろうか、それとも「人魚姫」が男なんてありえないわと、呆れかえるだろうか。
どちらにしても、俺にとって、乃亜は人魚姫であり、俺は人魚姫を幸せにする王子であろうとするのだから、母の語った「人魚姫」を、リアルにする喜びに満ちている。
「ねえ、尚吾。この物語に書かれている『死なないたましい』って「愛」とか「信仰」のことでしょ?」
「一応わね。でも俺は思うんだ。『死なないたましい』っていうのは、相手を幸せにする覚悟じゃないかってね」
「…じゃあ、僕は『死なないたましい』を尚吾から受け取ったんだね」
「そうだよ。そして俺も乃亜からそれをもらったんだ。だから、ありがとう、だ」
「僕も…ありがとう、尚吾…愛してる…」
物語の結末はいつだってハッピーエンドが良い。
だから俺と乃亜の物語も、これでおしまい。
…に、したいのはやまやまだが…
エピローグ的に言えば…
あれから…山林にある乃亜の自宅は、ふたりが住めるようにきちんとリフォームしたけれど、夏の別荘宅である限り、冬には少し不便だというわけで、海が見える俺の自宅をふたりの愛の巣にした。
乃亜も、いつでも海が見えると喜び、上機嫌だ。水槽の魚たちも乃亜が餌を与えると、心なしが喜んで泳ぎまわっている気がする。
俺の仕事は順調だか、暇を持て余し気味の乃亜に、趣味のアクセサリー作りを促し、出来がいいものをネットで販売させてみたら、それが好評で、乃亜もやりがいを感じている。
相変わらず、料理の味はいまいちだし、机の角に腕や足をぶつけたりと、ドジっ子萌えの乃亜だが、俺の為に懸命な姿を見ていると、本当にたまらなく愛おしくなる。
そんな絵に描いたような幸せを営む俺と乃亜に、時折暗雲が立ち込める時がある。
それは…あの五人の兄達の到来だった。
あいつらは、呼びもしないのに、連絡もなしに突然、俺の家へ押しかけて、一晩中、飲んだり、喋ったり、ケンカを売ったりして、この上なく面倒臭い小舅連中だ。
「乃亜が苛められていないか心配だから、見に来たんだよ」と、言うが…全く信用ならない。
ともあれ、表面上は愛想よく付き合うことにしている。
乃亜の家族は、俺の家族でもあるんだから…いちおう…
そんな或る日、面倒な事件が起こった。
これがまた…なんというか…作り話のような出来事で…
俺と乃亜の物語は、まだまだ終わりそうもないのかもしれない…と、俺はがっくりと肩を落とすのだった。
でも、まあ、その物語は、またいつかって事で…
人生とは、日々、驚きの連続。
人の数だけ、物語は語り続けるんだね。
「人魚姫、♂」終わり。