第7話 葉知秋
第7話 葉知秋
神殿へ向かうため、二人は徐々に険しさを増していく山道を進んでいた。
霧が低く立ち込め、険しい断崖を白く包み込んでいる。切り立った岩肌は、まるで時を重ねた傷跡のように深く刻まれていた。
その足元に広がるのは、濡れて鈍く光る紅色の岩盤だ。勢いよく流れる白い川水が、荒々しい岩肌を優しく、しかし激しく洗っていく。
向こう岸へと渡る一本の木造の橋が見えた。手すりは朱色に塗られ、この緑と灰色の世界の中で微かに自己を主張している。その先には深い山奥へと続く細い山道が伸び、遠く、川のせせらぎに混じって、どこか異世界の気配を感じさせる青い小さな東屋がぽつんと佇んでいた。
渓谷の小さな東屋で束の間の休息を取りながら、葉知秋はふと、あの夜のことを思い返していた。
思えば、予兆はいくつもあった。
知秋の実家である名門・葉家は、王宮の警護を一手に引き受ける存在だ。
半年前、あの冷え切った宮廷の晩餐の裏で、知秋は床に伏せっている実父――葉家の前当主から、容赦のない血の命令を下されていた。
「天蕊様の隣国への輿入れを完遂させよ。もし不穏な動きや逃亡の兆候あれば、我が一族の手で手引きする者を捕縛するのだ。どれだけ従順に見える姫であっても、本心を隠すのが王族の芸。油断するな」
実の息子に対する、あまりにも冷酷な言葉。
けれど、父は何も分かっていなかった。知秋は幼い頃から、王宮の人形として扱われる天蕊を一番近くで護衛し、彼女が誰にも見せない本物の笑顔を知っていた。そして、宮廷の欺瞞の中で、その笑顔が一日ごとに摩耗していく姿を、ずっと一人で見つめてきたのだ。
幼い頃、天蕊の周りにはいつも退屈な世辞ばかりが溢れていた。字を書けば「見事な筆致にございます」、弓を引けば「さすがは姫様」――誰も彼もが、判で押したようなお仕着せの言葉しか返さなかった。
けれど、知秋だけは違った。
「姫様、今の一射は的から逸れております。肘の高さが、わずかに」
周囲の官吏たちが凍りつく中、天蕊はむしろ、嬉しそうに笑ったのだ。
「お前だけね、知秋。私をちゃんと見てくれるのは」
ある日、天蕊が大切にしていた品を誤って壊してしまった時も、知秋は何も言わず、自分がやったことにして泥をかぶり、黙って罰を受けた。天蕊がそれを知ったのはずっと後になってからのことだったが、知秋にとっては、人形ではない彼女の心を護ることこそがすべてだった。
だから、父からあの残酷な命令を受けたその瞬間に、知秋の脳裏を過ぎったのは、一族の栄誉などではなく、「一族を裏切り、大罪人になる」という孤独な決意だった。
◇
半年前のある晩、公務の合間に庭を歩いていた時のことだ。
誰にも聞かれていないと思ったのか、天蕊はふと夜空を見上げて、小さく呟いた。
「……鳥になれたら良いのに。どこまでも、遠くへ飛んでいけるのに」
それは、ただのため息のような、他愛もない一言だった。天蕊自身も、きっと本気で言ったわけではなかっただろう。
けれど知秋は、その一言を笑って聞き流すことができなかった。あの夜から、宮廷の警護網を知り尽くしている知秋は、見回りの合間を縫って、誰にも気づかれぬよう、ひとつの逃げ道を水面下で整え始めたのだ。
警備の穴を、それとなく天蕊に教える。知秋は可能性という道を用意しただけで、実際にその道を歩くと“選んだ”のは天蕊自身だった。知秋が差し出した光を、天蕊が自らの意志で掴み取ったのだ。
だからあの夜――天蕊が本当に城を飛び出したとき、知秋が一人で中庭に佇んでいたのは、決して偶然なんかではなかった。
知秋は天蕊を連れ戻すためにそこにいたのではない。他の容赦ない宮廷の追手や暗殺密偵に捕まる前に、自分が一番に彼女を見つけて、一緒に逃げるために、あそこで片膝を突いて待っていたのだ。
宮廷の他の衛兵たちの動線をあえて別の門へと誘導し、完璧な脱出ルートを作り上げて。
そこへ、兄である現当主・知春が自ら中庭に姿を現した。
「知秋。本当に、そちらへ行くのか」
静かな声だった。怒りも、驚きもない、ただ弟の覚悟を確かめるような声。知秋が仕掛けた衛兵の誘導の意図を、知略に長けた兄が見抜けないはずがなかった。
「……以前から、決めておりました」
知秋はそう答えると、天蕊を背にかばい、鞘から剣を抜いた。かつて自分に剣の何たるかを教えてくれた兄に向かって剣を構えることに、迷いは全くなかった。
「そうか。外に馬車が用意してある。上手く、姫と逃げろ」
兄はそれだけを言うと、自分の用意していた偽装の網を被せるように、振り返って去っていった。
知秋が仕掛けた蜘蛛の巣の糸を、兄・知春が裏からさらに鮮やかに繋ぎ合わせたのだ。あの夜から、兄弟の無言の共謀は始まっていた。
◇
「知秋、どうしたの? 難しい顔をして」
天蕊の優しい声に、知秋はハッと我に返った。
振り返れば、東屋のベンチに腰掛けた天蕊が、不思議そうにこちらを見つめている。宮廷の冷え切った料理ではなく、今の二人の手元にあるのは、旅籠の女将から渡された、ささやかで温かい出来立ての食糧だ。
「いえ……何でもありません、姫様。霧が深くなってきました。冷めないうちに、お召し上がりください」
知秋はいつもの無表情な護衛の顔に戻り、静かに頭を下げた。
(宮廷の蜘蛛の巣を裏から切り裂いたのは、兄上だけではない。私と姫様もまた、自らの意志でこの道を選び取ったのだ)
二人の逃亡を影ながら助けてくれている兄の暗略に感謝しながらも、知秋は天蕊の温かな横顔を見つめ、胸の奥で誓いを新たにする。
たとえこの先、どれほど険しい道が待っていようとも、自分が用意し、彼女が選んだこの自由の翼を、決して誰にも毟らせはしない、と。
渓谷を渡る風は冷たかったが、東屋を包む二人の空気は、どこまでも確かに温かかった。




